サブカルに世界は描けるか

 いや~『借りぐらしのアリエッティ』よかったですよね~(まだいってやがる)

 なかには「スケール感がない。こじんまりとしている」とか言う批判もあるようですが、小人の話でなんで大きな物語を紡がなきゃいけないんだ?

 じゃあ『風の谷のナウシカ』は本当に「大きな物語」を描ききっていたのか?私はどうも納得できないんですよ。
 というのもサブカルチャーである映画やアニメってパーソナルな「小さな物語」を描くからこそ大衆受けするわけで、地球環境や世界のことなんて我々一般市民には分からないし、興味がないわけでね。
 ハワイが茨城に突っ込み、太平洋が何万年後かに消滅してアメイジア大陸ができちゃうことよりも私たちが興味があるのは、「明日の席替えで好きな女の子の隣になれたらいいな」ってくらいのレベルの話であって、結局そんな小さな物語に共感できるから、私たちはサブカルチャーが好きなんじゃないのか。
 それをさも難しい顔して『風の谷のナウシカ』を観ても説得力がないわけで、本当に大きな物語に興味があるなら、私たちはまず科学を学ぶはずだし、結局「ナウシカ」が面白いのはそういうところじゃないんじゃないの?

 私が大嫌いなアニメで「エヴァンゲリオン」ってのがあって、なんでこれが嫌いかと言うと「中学校の頃このアニメが好きだったクラスメイトの子の態度が尊大で、わけ解らないことばっか言っててむかついたから」というかなり個人的な理由なのですが、その子とは結局高校の頃かなり仲良くなったし、大学でもこのアニメ好きだった人もいたんだけど、未だに一回も見ていない(つーかガンダムもドラゴンボールもワンピースも見ていない)。descf氏も「お前には合わないよ」と言ってたのでまあ、見なくていいかなと。
 決定的なのは私が人生で最も嫌いだった大学の絵画の教員(世代的にはポスト団塊ジュニア)がこのアニメをやたら引用するからだったりする・・・キモい!

 で・・・「この作品には崇高な精神性や「大きな物語」がある!」とか言って、いい歳してサブカルを観ることを正当化している人が「ナウシカ」や「ゲリオン」ファンだと思うのですが、オタクが市民権を得ていなかった時代はともかく、今は大人がアニメ見てても親や親せきに白い目で見られない時代なんで、逆にちょっと可愛い気もしてきています。
 いいじゃん、そんな小難しい理由をわざわざ作らなくても・・・楽しいんでしょ?

 さて「ナウシカ」も「ゲリオン」も共通するところがあってそれは「女の子」が出てくるってことなんだけど、これらの作品でもし可愛い美少女が登場しなかったら、ここまで社会現象になったかどうか・・・
 いやナウシカがいなくてもヒットした!というのなら「ナウシカ」は「大きな物語」で勝利した映画だと認めるし、「ナウシカが健気で可愛いから」というパーソナルな理由でヒットしたのならオタクの分析は間違っているということ。

 結論を言うならば、私は大きな物語ってサブカルでは描けないと思っていて、だって描けたらそれはハイカルチャーになるわけで、強いて言うならそれができるのは科学を用いたSFだけだと思うんですよ。
 たとえば『ジュラシック・パーク』は、キャラクターの精神性(パーソナリティ)をカットして、ルネサンスから近代まで続く「自然を支配し制御できるというスタンス」を全編にわたって批判しているし、空想科学シリーズである『ウルトラマン』も「ハヤタ隊員が恋をした」とかなんとかそういう話よりも、高度経済成長の弊害(環境破壊やそれに伴う公害問題など)を描いたりしているわけです。

 私「なんでウルトラマンって変身するんだろう?」「なんで大きくなるんだろう?」って考えてみたんですけど、答えみつかりました。
 あれは「小さな物語の世界」から「大きな物語」への移行なんです。
 自然環境の逆襲(=怪獣)という「大きな物語」と戦うには人間一人ではとても太刀打ちできない。よってこちらも大きな存在になるしかない。
 つまり人間のパーソナル性を排除したある種の「巨大な象徴」こそがウルトラマン。だってウルトラマンに変身したら基本的にハヤタ隊員の意識があるのかないのか・・・とにかく言葉を喋らないじゃないですか。ジュワッとかヘアッ!とかしか言わないし。
 あれ(ウルトラマン)はもう人間じゃないわけですよ。人間の為に戦ってくださる「守り神」なんです。

 しかし生息地を人間に奪われて都市部で暴れまわる怪獣(野生動物)を無慈悲にバッタバッタとぶっ殺す『ウルトラマン』のプロットは非常にシニカルで、開発に肯定的な一般市民には気分が悪かった。高度経済成長のアンチテーゼみたいなもんだったから。

 そして『ウルトラマン』はその意味合いを続編で大きく変えてしまう・・・それが「エヴァンゲリオン」の元ネタと言われる『帰ってきたウルトラマン』なのです。
 「帰ってきたウルトラマン(=新マン)」の何が新しかったのかと言えば、ウルトラマンの戦いを非常にパーソナルな次元にまで落とし込んでしまったという点。
 象徴的なのがやはり「必殺!流星キック」でしょう。この話は防御用バリアーを張る強大な怪獣キングザウルス三世(この怪獣最も好き!)に負けたウルトラマンがキャンプで己を鍛え直し、血のにじむ特訓の末必殺技「流星キック」を修得。
 ななななんとキングザウルス三世のバリアーには屋根がなく、そこをジャンプで飛び越え蹴りをかましてやっつける、というあらすじです。

 え?ウルトラマンは飛べるだろって?なんて野暮なこと言うんだ!

 この話で言いたいのは『帰ってきたウルトラマン』あたりから、ウルトラマンが小さな存在である人間の代わりに巨大な自然と戦ってくださる「大きな存在」ではなく「小さな存在」と同化しはじめたということです。
 つまり新マンでは、ウルトラマンに変身する郷隊員自身が「タッコングから子どもを助けよう!」「俺は負け犬なんかじゃねえ!見てろよ加藤隊長!」「ナックル星人め!よくもオレの彼女を殺したな!」ととっても意識的に戦っているんです。
 主人公のプライベートな感情が、直接「大きな物語」に投影され、世界を変えてしまう・・・これって「セカイ系」っていわれる脚本のジャンルで、これが流行ったのが「エヴァンゲリオン」以降らしいのです。
 まあそりゃそうだ。真似した「帰ってきたウルトラマン」が「セカイ系」なんだから。

 ここでウルトラマンは大きな物語のSFから、大衆受けする小さな物語のサブカルに良くも悪くも降格した。
 新マンを私は批判しているわけじゃありません。というのも新マンの特に前半はわたくし超大好きで中学生の頃何十回も見ているんです。だから実はエヴァオタクの友だちと私は中学生のころ同じものを見ていたはずなのにいがみ合っていたのだよ。

 というわけで結論。

 サブカルチャーに世界は描けない。描けるのは「ナウシカちゃん可愛いな」というキミとボクの「セカイ」だけ。
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