『オレ様化する子どもたち』

 一番悪い奴は誰だ!?

 著者はプロ教師の会の諏訪哲二さん。
 しかし内田樹さんと違って、学校の教員の書く本って、本当文体が良くも悪くも硬いですよね。あの「うふふ」の尾木ママですら、めちゃくちゃ真面目でオカマ要素一行もなし。
 まあ教員って立場上、不用意な発言ができないから(生徒、保護者、地域すべてに影響が轟く)そういう仕事をしているうちに冗談とかパブリックな場で言えないようになっちゃうんだろうな。それはプロフェッショナルな職業として正しいし、公私混同せず子供にメリハリをつけさせるのが仕事みたいなもんだもんね。

 さて著者の諏訪さんは、すでに定年退職された(元)超ベテラン教員なんだけど、これまでも『別冊宝島』で、教育現場における親や教員を鋭く批判していて、今回(つっても7年前)ついに満をじして子供批判というアンタッチャブルに切り込んだ。
 ・・・というのも日本では西洋の子供観と違って、子供とは大人が失った「純粋さ」の象徴で、つねに大人社会の被害者であり、子供は普遍的に良い子であるというイメージが通俗化されているからだ。
 子供は「小さい大人」であり、バカで未熟でほっとくと何しでかすかわからないから大人が責任をもって“大人に矯正する”というヨーロッパ型の教育理念とは大違い。
 とはいえイギリスでも戦後、ロマン主義の影響で、子供を自然に育てれば美しく純粋に成長するという教育論が打ち立てられたことがあって、まあ、ぶっちゃけそれをやったのがハーバート・リード先生あたりなんだけど、日本ではそう言った子供の理想が歴史的にずっと受け継がれているわけ。
 だから日本ではお年寄りや障害者批判と同程度に子供批判もタブーとなっている。子供を批判できなければ、子供がおかしくなった原因を子供以外に求めなければならない。
 それは家庭のせいであり、学校のせいであり、つまるところその子に関わった教育者の責任だったということ。親は何やってんだ、学校は何やってんだ。

 「至らない者には至らない者の理由がある・・・・」などという・・・・温情的な・・・・確かな「悪」を認めない・・・・そんな理屈が通り過ぎた・・・・・・・・!
 そんな屁理屈の結論は・・・・彼が悪いのではなく・・・・・・家庭・・・・学校・・・・あるいは・・・・・・・・社会が悪い・・・・などと言う何が何やらわからない・・・・成した悪の責任を・・・・無限に薄めていく結論だ・・・・!
 なんだこれは・・・・!?どう納得すればいいのだ・・・・・・!?まるで手品ではないか(福本伸行『無頼伝涯』)


 確かに手品だw
 そんな手品をする理由は、成人でもない子供に大人一人分の責任を押し付けるのはあまりに酷だから。でも現状を見ずに(具体的には荒れる子どもと対峙せずに)教育現場を叩いても不毛だ。
 確かに子供に何か問題が起きた時、たいていの場合、家庭や学校に問題があるし、それらが子供に多くの影響を与えている場所であることは間違いない。
 しかしそれでも諏訪さんはこういう。今の子供の変化は親や教員だけの影響とは考えられないほど根が深く異質な兆候を見せている、と。
 これは教員が子供を無理やり学校に馴染ませようとして、その反動で子供がそうなったのではなく、学校に来る前から子供は学校(という社会を縮小化したシステム)とコンフリクトを起こすようなオレルールを完成させて入学してくるというのだ!
 
 例えばタバコを吸っている男の子が、タバコを吸っている現場を生徒指導の先生に押さえられても「吸ってねえよ」とめちゃくちゃな逆上をする。
 テスト中に女の子がカンニングペーパーを見ていて、それを試験監督が注意しても「これはテスト前に見ていたもので、テストが始まる前に机の中にしまい忘れただけです!だからカンニングなんてしていません!」と怒り出す。
 授業中騒いでいて先生が注意しても「うるせえなちゃんと聴いてるよ!これくらい喋っても授業妨害には当たらねえだろ!」と取り付く島がない・・・そんな無茶苦茶な奴いねえよって思ってませんか?実は今の学校にたくさんいますよ。

 彼らの思考には「他者(社会)」がない。いやもちろんあるっちゃあるんだけど、世の中や社会がどうも自分のためにあるというか、自分の思った通りになるって思っているらしい。
 これをセカイ系・・・じゃなかったオレ様化という。つまりは彼らには主観と客観の区別がない。客体世界が自分の思い通りにならないといった葛藤を経験せずに中学校、高校、大学まで進んできてしまう。
 普通は幼稚園か小学校あたりから無理が出てきそうなこのオレ様ルールを、なぜ今の子供たちは青年期まで維持できるのだろうか。それは子供の精神年齢が単純に下がっただけなのだろうか。

 諏訪さんは、今の子供たちは学校という社会に入る前から、子供たちはすでに社会的に自立しているのではないか?という仮説を立てる。
 それは消費者としての自立だ。今の子供は「お金」という公平な力を、集団ルールや労働を学ぶよりも前に与えられてしまう。
 そしてお店は相手が子供でも、その手にお金があれば、平等に「お客様」扱いしてくれる。だから精神的な成熟以前に子供は“一人前”になってしまうのだ。
 つまり子供は決して先生にわがままや無茶な要求を言っているわけじゃない(少なくとも本人はそう思っている)。一人の自立した個として、一対一のフラットかつフェアな関係を教員に要請しているのだ。
 つまりかつての学校にあった「教員>生徒」という前提がすでに現代は成り立たない。いまや「教員=子供」なのだ。
 だから今の子供は「先生は尊敬しなきゃ」とも「とりあえず相手が先生(大人)だから言うことを聞こう」ともしない。「先生の中にも俺と話の分かる奴がいるじゃねえか。よしそいつの授業だけは受けてやろう」という思考をする。

 つまり徹底的なお客様は神様スタンスなんだ。
 確かに子供にとって教育は義務ではなく権利だ。だけれどもここまで子供の意識が変わってしまったら、もう今までのやり方では学校は運営できない。どこかで機能不全に陥ってしまう。「子供は大人が守る代わりに言う事を聞く」というこれまでの前提がなくなってしまったのだから。
 これはリベラルな人にとっては進歩だと喜ぶのかもしれない。
 実際、当時の文部省が「共同体性(みんなでルールを守ること)」を学校から放棄させ、近代的な自立した「個」、自由な「個」を育てようと方針を切ったのだから。

 旧文部省は共同体性を取り去ることによって、かえって近代的な「個」の形成が妨げられることが分かっていない。(『オレ様化する子どもたち』87ページ)
 だから、本当はまずは共同体的な教育をして子どもたちに「社会が必要と判断しているもの」を学ばせ、そのプロセスの中で「自らが必要とし、望むもの」を学べるように支援していけばいいのである。(同86ページ)


 私には、この「オレ様化」した子供が、現代の社会の適応戦略としてあんがい正しくて、古いやり方をやり続けようとする学校がもういらないってことなのかはわからない。
 とりあえず諏訪さんがおっしゃるように、経済のグローバル化(あとは社会集団のフラット化、思想のポストモダン化、それとインターネットは大きいと思う!)という、特定の家庭や学校とは比べ物にならないほど大きな流れによって、子供たちの考え方に大きな変革が訪れていることは確かだと思う。でも・・・これって対処法がないよね。
 実際この本も「現状はこうなってるよ」っていうところだけで終わっていて、「じゃあどうすればいいのか?」についてはほとんど書かれていない。受け入れよってことなのだろうかw

 この本でさ、私が一番勉強になったのって「理論に対するイメージ」なんだ。私って今までずっと「理論ってリアルをどれだけ正しく読み取って、演繹過程に誤りがないか」が重要だと思ってたんだ。科学理論なんてそうだよね。
 でもさ、理論がそれ以上に大事なのって使い勝手の良さなんだよ。それがあまりに抽象化されすぎていて、時に事実と違っていても、人間は複雑なものを複雑なまま認識はできない。理論はまずもって道具なんだ。
 この諏訪さんの説はおそらく正しい。現場を知っているだけある。でも使えないんだwどう使えばいいんだって。

 子供が変になっています。それは本人や家庭や学校や社会にも原因がありますが、根本の原因はもっとマクロな系にあってグローバル化です。
 
 入学時から何故か発生する学級崩壊に対処できない先生、集団生活が嫌いで学校からパージしちゃう子供、自分の子からナイフを突きつけられているお母さん・・・そういう現場で苦しむ人たちにこの結論はあまりに効果がない。
 原因を現状に即して正確に追求しようとすると、原因がどんどん雪だるま式になっていって結局でかすぎて把握できなくなってしまう・・・

 まるで手品ではないか!?
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