『荒れには必ずルールがある』

 結局、荒れている学校というのは、生徒の自浄力もなく、教師の指導も入らなくなった状態を言う。

 著者は、37年間横浜の公立小中学校で勤務した(うち、生徒指導16年の)元教員、吉田順先生。現在は、その豊富な経験から生徒指導コンサルタントとして全国の荒れた学校を行脚している。すごい。
 本書は、教育現場の資料でも引用されるくらいで、それは机上の空論ではないことを意味するのだろうと。『オレ様化する子どもたち』の諏訪哲二先生同様、事件は現場で起きてるんだ的なパッションが頼もしい。
 この本のテーゼはいたってシンプルで、荒れた学校(および荒れそうな学校)の生徒指導は、荒れた生徒ではなく、むしろ状況次第でどっちにもなびくような多数派――中間的集団にターゲットを絞って戦略をねるべきだという、政治力学的なものだ。
 なんだよ、荒れて手に負えない子は切り捨てて最大多数の最大幸福かよっていう批判も当然あるんだろうけれど、我らがウォーダディ、吉田先輩はこう言う。理想は平和だが歴史が残酷だ。(言ってない)実際はこんなふうに答えています。

 教育というのは全ての子に平等でなければならないし、全ての子を健全に成長させるのが仕事ではないのか。
 もちろんそのとおりである。しかし、荒れを克服した学校に共通しているのは、「中間的集団」をどう育てたかである。実現不可能な目標を何年掲げても、どんなに声高に叫んでも、どんなに抽象的な美辞麗句を並べても意味はない。
 たとえは悪いが、大火事が起きたとする。しかし、水には限りがあり、消防自動車も1台しかない。このままでは周囲への拡大が避けられないというとき(略)私は燃え盛っている家ではなく、その周囲の家に躊躇なく水をかけることだろう。(44ページ)


 戦前的な名誉ある玉砕を吉田ティーチャーは礼賛しないという。以下は本書で勉強になったポイントです。

 第一に、思春期の生徒が起こす多くの問題行動は、大人の犯罪とはまったく違う。大人の犯罪には金銭問題や男女の問題、怨恨などと明確な動機があるが、思春期の生徒には明確な動機がなく、本人すらもわからないことが多い。
(略)
 第二に、言うまでもなく、実は起こしている生徒自身も「オレはここまでやっているのに誰も止めないのか」「いつかは立ち直らなければ」などという迷いを持ちながらやっているのである。ここが大人の犯罪とは決定的に違うところであり、実際、中学校時代に非行・問題行動を起こした生徒の大半は、その後まっとうな人生を歩んでいる。もし、非行生徒がみな犯罪者になっていったら、国中に犯罪者が溢れていることになる。(20ページ)
 
※五つの「壁」をつくる。

①生徒集団の壁(自浄作用)
②教師集団の壁
③親の壁
④地域の世論の壁
⑤法の壁


①と④は最近はあまり期待できない。⑤は①~④すべての壁がダメだった時のリーサルウェポン。

 不可欠な壁は教師集団の壁である。これ以上は許さないという断固たる壁である。「これ以上」のこれはどこまでを基準にしているかは、当然、学校によって違ってくるだろうし、日本中の学校が同じ必要もない。誰もが一致するものの一つとして、「暴力を使って解決してはいけない」「授業妨害をしてはいけない」などがあるだろう。(24ページ) 

 「壁」のある学校が管理的で冷たい学校だと勘違いしてはいけない。荒れを克服した学校の共通点の一つは、いかにこの壁をぶ厚く、より高くつくったかにある。壁を破ろうとしないものには、これらの壁は何の障害にもならないし、むしろ壁の中では自由ですらある。(25ページ)

 今日の学校はむしろ管理しようにも「勝手・きまま」が横行し、競争どころか「全く学ばない」生徒に困り果てているのが本当の実態である。(55ページ)

 もし、教師集団が一致して毅然と“瑣末な”校則を守らせることに血道をあげるならば、子どもたちは息苦しくなるかもしれない。しかし、“授業妨害や暴力”などの問題に一致して毅然と対応した教師に、一般の子どもたちが息苦しさを感じたという例を知らない。(131ページ)

 (服装の乱れは心の乱れといった生徒指導の伝説の“名言”)に共通しているのは、服装や体、床などの外側に見えることを重視していることだ。確かに一利ある言葉ではあるが、そのことが目的化してしまうととんでもない弊害を生むことになる。服装がきちんとしていても、健全に育っているとは言えないし、床がピカピカになっている学校の生徒の心がはならずしもみんな健全だとも言えない。
(略)
 「服装の乱れは心の乱れ(から生じる)」「服装の乱れは心の乱れ(を表している)」という意味ならば、その原因となっている「心の乱れ」に取り組むのが本当だろう。(28~30ページ)

 腐ったリンゴは取り除かなくてよい(31ページ)

 深い理由がなく思春期特有のおしゃれか、一度してみたかったという程度の生徒もいる。そういう生徒は一過性で終わり、意外と広まらないという事実がある。
 一過性で終わらない理由は、親子関係であったり、両親の問題であったり、家庭内に起因することがほとんどである。(略)乱れた服装や髪がその代償であり、サインでもある。そもそも乱れた心が乱れた服や髪を生むのだから、いくら外見を指導しても無理なのである。(32ページ)

 荒れを克服した学校に共通していることの一つは、生徒の起こした問題が人権やプライバシーに関わることでなければ、隠さずに公表してしまうということである。
 やり方もド派手である。(略)
 例えば大きな落書きがあった場合である。内容から考えて生徒も職員も、やった生徒が誰なのか大体は想像がついている。しかし、やったことを認めないことも知っている。かなり荒れている学校なのである。そこで教師側が作戦を立てて生徒たちに取り組ませる。
 まず、休み時間に落書きの前で、落書き消しボランティアを募る。休み時間に何があったのかを訴えて、「あと何人!」などと募るのだから、当然話題にもなる。落書きの場所が別の場所だと、写真に撮って廊下に貼り付け、その前で募るという念の入りようである。休み時間になると、何人かが楽しそうに消すのだから、当然、やった生徒も通りかかることになる。多分、次回からは落書きもしにくくなるだろう。
 別の学校では、破損が起きると「破損修理隊」というのがあって、放課後や休み時間などに直すそうだ。直し方がうまいと、修理一級免許がもらえるそうだから、勉強は全くダメでもこの一級が欲しくて頑張る子もいたようだ。さらにこの生徒の親も「我が子が役に立った」と喜んでくれたらしい。ここまでくると、壊した生徒の“意欲”はかなり削がれる。(34、37ページ)

 人間は大人でも群れる。一人が好きだという人も、ロビンソンクルーソーのような完全な孤独に耐えられる者はいない。学校や社会などに所属している集団があればこその孤独に過ぎない。昨今の「無縁社会」がやがて我が身にもやって来るかもしれないと、多くの年配者に不安や絶望感をもたらしているように、人は基本的に群れてしか生きていけない動物である。
 このことは、学級の子どもたちを見ているとよくわかる。必ず群れる。最近は、ますますその傾向が強くなってきた。その群れからはじき出されたら、別の群れを探さなければならない。もし探せなかったら、不登校になるかも知れないほどの大事件だ。(41ページ)

 非行集団は非行集団のルールに則って、その集団は維持されることになる。だから、かなり反社会的なことであっても平気で実行する。いくら教師が説教しても、あまり効き目がないのは、荒れている生徒にとっては自分を認めてくれる集団が、非行集団しかないからである。(42ページ)

 よく知られているように、逸脱集団の「団結力」や「行動力」「組織力」「指示する能力」「企画する能力」などは、ある意味でほかの集団よりもはるかに優っているのだから、中間的集団は放置すると逸脱集団に飲み込まれるだろう。(46ページ)

 親は、我が子の非をわかっているが困り果てているのだから、追い打ちをかけるようなことをしては共同する関係はつくれない。教師と親の間に、まず信頼関係が生まれなければいけない。(57ページ)

 では、最後に残った本当に荒れていて、親は学校に協力しないし、批判的であるという数人の場合はどうすればいいのだろうか。もし、親の協力も得られないのであれば、もはや打つ手はないだろう。学校教育には限界があり、学校は非行を矯正する自立支援施設ではない。どんな子も中学3年間で立ち直らせることができると考えるのは、“空想的”生徒指導で私の生徒指導ではない。(60ページ)

 警察力に頼らないことの方が、ある意味では無責任と言える。(67ページ)

 (法的な対応は)本当は教育の放棄ではないかという迷いであり 、もっと正確に言うと「教育の放棄と批難されるのではないか」という「批難」への恐れであることが実際のところである。(71ページ)

 悪戦苦闘している教師は、本当はもう「教育の力」では限界であることを実感している。それでも「法の力」に頼れないのは、もちろん教師特有の“良心的”迷いもあるが、主として最終的に判断を委ねられている管理職が決断できないことが多いからである。

 生徒が死に至った事件に対して、マスコミや評論家はこぞって「なぜ警察に出さなかったのだ」と学校の対応の甘さを批判してきた。
 しかし死に至らなかった事件に法的な対応をすると、「なぜ教師は向き合わないのか」「なぜ生徒(加害者)の心に寄り添わなかったのか」などと批判する。これはご都合主義だ。(72ページ)

 誰もが「政治」や「経済」には限界を認めるのに、教育だけには限界がないという論理が私には理解できない。「心に寄り添う」「心の闇の解明」も同様だ。もともと専門家でも何年もかけて1対1で進めることを、専門家でもない一教員に求めること自体が不可能な要求ではないか。(73ページ)

 では、多くの先生たちの眼で見た、“生きた情報”はどうやって集めればいいのか。おそらく、情報を集めるシステムをどんなに作っても、限界があってうまく機能しないだろう。文書報告やメールでの伝達はもちろん論外であり、朝の打ち合わせや職員会議などでよく報告するケースが多いが、これも生きた情報からはまだ遠い。一方的な報告になりがちだ。三つの無駄があると、生きた情報は自然とよく集まる。三つの無駄とは
○無駄な空間(例えば、職員室の後ろにあるスペース)
○無駄な時間(会議も何もない拘束されない時間)
○無駄な世間話(井戸端会議のようなもの)

のことである。指導部は「三つの無駄」を活かすといい。(101ページ)

 悪を理解し共感することと、認めることは違うからである。
 生徒の悪を理解しても、その行為を認めてしまってはいけない。認めてしまったのでは、生徒は自立の挑戦をしているのに、これでは自立ができなくなってしまう。(136ページ)

 どこに座るか、誰と座るかという座席配置が、刺傷事件のきっかけとなるのはまれだが、不登校やいじめなどの問題を深刻化させることは、よくあることをまず確認しておこう。(169ページ)

 故・家本芳郎氏は「“荒れ”とは、定位置につかないこと」(「ザ・席替え」学事出版)と言った。彼らしいうまい言い方だ。その典型は集会である。(173ページ)

 叱る対象を区別することは、とても重要なことだ。(略)何から何まで全力では叱らない。これは教師が楽をするという意味ではなく、何から何まで同じ比重で叱っていたのでは、生徒のほうが息苦しくなってしまうということである。(185ページ)
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