『大衆の反逆』

 そのことの善し悪しは別として、今日のヨーロッパ社会において最も重要な一つの事実がある。それは、大衆が社会的権力の座に登ったという事実である。大衆というものは、その性質上、自分自身の存在を指導することもできなければ、また指導すべきでもなく、ましてや社会を支配統治するなど及びもつかないことである。したがってこの事実は、ヨーロッパが今日、民族や文化が遭遇しうる最大の危機に直面していることを意味しているわけである。こうした危機は、歴史上すでに幾度か襲来しており、その様相も、それがもたらす結果も、またその名称も周知のところである。つまり、大衆の反逆がそれである。

 良識ある大人が控えたほうがいい話題がこの社会にはある。野球、宗教、そして政治だ。
 でも、そういったリアルにはあった“タガ”がネットでは匿名性が強いということで容易に外される。それどころか、ネット上の“彼ら”は選挙が近づくと、積極的に政治的なアクターたれとご親切にも呼びかけてくるのだ。投票に行かない奴は非国民だ、などと。
 参政権は義務ではなくあくまでも権利であって、行くも行かないも個人の自由なわけだし、また、今回の参議院選挙もなんだかんだで新たに選挙権を得た高校生はよく投票に行ったほうだと思う。半分弱はわざわざ投票したわけじゃん。えらいよ。
 もし自分が高校生だったら絶対に投票に行かなかっただろうよ。それは政治に興味がないというよりは、ネット上で繰り広げられる政治的発言の応酬が、あまりに低次元で「うんこチンコば~か」と同レベルであり、また、一生懸命運動している人たちが、実は政治学的な素養が大してなく、不勉強であることの後ろめたさも、知的好奇心もなく、なんとなくの正義感で動いていることを私は知ってしまったからだ。理屈じゃなくて情で動く人たち。これが私には怖すぎる。
 さらに、学生の分際で偉そうに政治について語るのは、差し控えたほうがいいんじゃないかという後ろめたさが、学生時代のあだ名が「バカ」だった自分にはあるからだ。つまりバカが政治に目覚めるとロクなことにならないという。もちろん、賢い高校生はどんどん選挙に行ってもらって、つーか立候補もしてもらって全然いいんだけど、普段大して政治なんかに興味のない人が無理して行く意味ってあるのかなってすごい思う。投票率の低さが、世論のアンサーだっていうことだってあるしな。
 よく、ケンドーコバヤシさんみたいなよしもとの芸人が「(政治的な話題は)オレたちには分を越えた問題っす」みたいな、謙虚で上手ないなし方するじゃん。あれが、政治に対するたった一つの冴えたやり方に思えるくらいに、デモクラシーがとんでもない衆愚制で、ヘタに関わるとしちめんどくさいことになっちゃうという現実をネット社会は露呈した。

 国家(ステート)とは、つまるところ世論の状態(ステート)、一つの均衡状態、静態なのである。
 ところで、応々にして世論が存在しない場合もありうる。一つの社会が意見を異にする集団に分裂していて、それぞれの意見が相殺されるような場合には、支配権が構成される余地はない。そして、自然は真空を忌み嫌うものだから、その世論の力の不在がもたらす空白を凶暴な力が埋めることになる。そして最悪の場合には、その暴力が世論の代用品となるにいたるのである。(『大衆の反逆』183ページ)


 そんな悲観論を、こんなふうに、100年ほど前に指摘した人がいた。それが、スペインのジャーナリストのオルテガ・イ・ガセットだ。
 この本は何年か前に購入して、途中まで読んで長らく紛失していたんだけど、この度ベッドの下から発掘され、ついに読了した。このタイミングで、この本を再び読めたのも何かの縁だなってことで、ここにまとめることにしました。
 ちなみに、ムシのいい話だけど、私の現代政治に対する悲観論、また、社会の構造についての考え方は、このオルテガのものにかなり近い。これはただの偶然で、例えば私はこの世界を、小さなツリーとその何倍もある巨大なリゾームで構成されているという、二段構成で考えているんだけれど(三中さんから着想を得た世界樹の理論)、これはオルテガで言う、貴族と大衆の考え方とほとんど一緒だ。

 人間を最も根本的に分類すれば、次の二つのタイプに分けることができる。第一は、自らに多くを求め、進んで困難と義務を負わんとする人々であり、第二は、自分に対してなんらの特別な欲求をもたない人々、生きるということが自分の既存の姿の瞬間的連続以外のなにものでもなく、したがって自己完成への努力をしない人々、つまり風のまにまに漂う浮漂のような人々である。(19ページ)

 案の定というか、この本は当時のエリート階級に売れに売れてベストセラーになった。そして当然ながら、エリート支配を正当化すると多くの批判も起きた。当然だろう。最後まで読んでみると、最後の最後、たった6ページの最終15章で、いろいろとすごいこと言ってる(オルテガの言う慢心しきったお坊ちゃんは、ニーチェの畜群や、西部邁のピュエリリズム※文化的小児病、諏訪哲二のオレ様化に近い)。
 だから、ネット上でも何人かの知識人は本書を時代遅れのブーメランだと論じているんだけど、私が思うに、むしろ時代遅れどころか、現代の状況にそのまま当てはまるだろという。
 だいたい、こういうテーゼが何故SNSで炎上してしまうのか、どうしてネットと相性が悪いのかを考えてみればいいわけであってさ。
 そもそもネットというのは、ウルトラ均質社会なわけであって、どんな著名人であろうが、それこそ大統領であろうが、立場はフラットでなければならないという強烈なピアプレッシャー(理想的な前提といってもいい)がある。
 したがって、オルテガのような一段上からのメタ的な評論は、ネットムラ社会には重大なルール違反と認識され、彼らの自尊心を大きく傷つけ、「何様だ」「天つばだろ」と怒りにイグニッションというわけだ。
 ここで私が強調しておきたいのは、彼らは論の内容から袋たたきをしているのではないってこと。彼らにとって最も重要なのは、発言者の姿勢が自分たちと対等な、フラットな立場かどうかなのだ。その時点で、オルテガの論が的を射ていることが明白ではないか!

 大衆とは、良い意味でも悪い意味でも、自分自身に特殊な価値を認めようとはせず、自分は「すべての人」と同じであると感じ、そのことに苦痛を覚えるどころか、他の人々と同一であると感ずることに喜びを見出しているすべての人のことである。(17ページ)

 実際、エリート支配の肯定という批判については、オルテガの主張したいこととポイントがずれているように思える。彼は「選ばれた少数者」(エリートでも貴族でも哲人でも良い)と「大衆」を、格差社会や階級社会のようにスタティックに対比はさせていない(18ページ)。
 オルテガの言うエリートとは地位や立場、権力の有無ではなく、心的態度――世の中に対する向き合い方を指しているわけであって、身分や地位がエリートだからエリートというわけではない。したがって、かなり流動的なモデルを想定しており、例えばエリートでもコンスタントに努力し、苦しみもがくことをやめ、「めんどくせえや」と思考停止してしまえば、大衆に二軍オチするし、その逆も然りというわけだ。
 とはいえ、その比率はパレートの法則のように、ある程度決まっていて、8:2か9:1かはわからないけれど、多数の大衆が少数の貴族によって駆動されるという構造自体は変わらない。まさにツリー・オブ・ワールド。

 オルテガはさらに大衆を以下のように定義する。

①文明社会が飛躍的に進歩したことで初めて大量に現れるタイプの人間である。つまり原始的なふるまいをするものの、その起源は極めて新しいものに由来する。自由主義しかり、デモクラシーしかり、工業化しかり、科学技術しかり。つまりオルテガによれば、大衆社会は決して社会の没落を意味しない。むしろ史上最も進んだ社会でこそ初めて大衆というパラサイトは出現するわけだ。

②そして大衆は、自身を生み出し、また、成立させてくれている、これらの政治哲学や科学技術の原理にまったく興味関心を持たず、もっと言えば、それらが、空気や自然などと同様にあらかじめ存在し自動的に機能しているものだと考えている。人工的なものだという認識すらないわけだ(=歴史の素養がない)。
オルテガによれば、これは科学者においても同じであると言っているのが面白い。今日の科学は複雑化、細分化が著しく、自分の専門分野以外はまるで無知だという点で、たとえ科学者であっても大衆とメンタルは変わらないのだという(専門主義の野蛮性)。

③したがって、大衆の唯一の関心事は自分の安楽な生活(デカダンス)だけであり、社会的な責任感はない。

④さらに、便利な生活に慣れてしまったため、大衆は自分自身を万能のチートキャラだと思っている(現代の消費社会はコンシューマーが私は神だと勘違いするほど無限の選択肢が与えられている)。つまり彼らの辞書に反省はない。神だから。ゼロ距離のパトス。

⑥となれば、責任は全て自分以外ということになり、安楽な生活が脅かされると、一転して他人に八つ当たりする。

 まとめるならば、オルテガは、それがたとえ優れた自由民主主義であれ、マルクス主義であれ、何も行動しないで外部から必然的に提供されるものが未来だと思っている人が嫌いなのだ。オルテガが理想とするのは、運命を自分で切り開こうと地道に努力する人だ。

 進歩主義者は立派な未来主義の仮面をかぶりながら、そのじつ未来には無関心である。(62ページ)

 現代社会は人類史上多くの甘ったれを養うことを可能にしたが、となれば相対的にエリートと大衆の比率は変わり、大衆の面倒を見る物好きなおせっかいは足りなくなってしまう。
 つーか、そんなおせっかいなどもうすでにいないんじゃないか、また、いなくてもテクノロジーでなんとかカバーできてるんじゃないか、そういう楽観論もあるだろう。
 さらに、そういうおせっかいはどんなに時代が変わろうが一定の割合で存在し続けるという考えもあるだろう(私はこっち)。
 いずれにせよ、オルテガはこの大衆の反逆社会を分析こそしたが、解決方法を示さなかった。この状況は桃鉄で桃太郎ランドを最大限増資したような、社会の発展が行くところまで行ったら遷移的に現れるクライマックスとも考えられるから、解決するようなことでもないのかもしれない。
 しかし、ひとつだけオルテガは気になることを指摘している。このクライマックスは陰樹林のように安定した状態を維持するものではなく、本質的な不安定さを持つというのだ。
 それは、自民党が選挙で大勝(なのか?)し、憲法改正(=明治憲法の復活?)がいよいよ現実味を帯びたことに大きく関係する。ちょっと長いけれど、自分が読んでてゾッとしたので、引用。
 
 いっさいの過去を自己のうちに縮図的に蔵することこそ、いっさいの過去を超克するための不可避的な条件である。過去と戦う場合、われわれはとっ組み合いをすることはできない。未来が過去に勝つのは、未来が過去を呑み込むからである。過去のうち何かを呑み込みえないままで残すとなれば、それは未来の敗北である。
 この両者――ポルシェヴィズムとファシズム――は、ともに似て非なる夜明けである。それらはいずれも明日の朝をもたらすものではなく、すでに一度ならず何度も何度も使い古された古風な一日の夜明けをふたたびもたらしたにすぎないのである。要するに両運動とも野蛮性への後退なのだ。過去を消化吸収する方向を取らずに、過去のこの部分あるいはあの部分というふうに過去の一部と単純に格闘を演ずるという愚かさを犯す運動は、すべて野蛮性への後退なのである。
 一九世紀の自由主義が超克されなければならないことに疑問の余地はない。ところが、これは、ファシズムのように反自由主義を宣言するものがなしえないことなのである。なぜならば、そうした態度――つまり反自由主義的態度、あるいは非自由主義的態度――こそ、自由主義以前の人間がとっていた態度だからである。そして、一度自由主義が反あるいは非自由主義に勝利を収めたのであるから、自由主義の勝利が今後も数限りなく繰り返されていくか、さもなくば、すべてが――つまり自由主義も反自由主義も――ヨーロッパの破壊に終わってしまうかのいずれである。生には仮借なき年代記がある。その年代記において、自由主義は反自由主義よりも新しいのである。(132ページ)

(略)

 いっさいのアンティは、単純で空虚なノーに他ならないのである。

(略)

 したがって、過去を克服する唯一の方法は、それを放り捨てることではなく、過去を考慮に入れ、常に目前に置いて、これを避けるようにふるまうことである。(134ページ)


 つまり、大衆社会で度々取りざたされる近視眼的で短絡的な反対運動は、歴史観の無い人々にはキラキラした新しいものに映るけれど、実際は過去のNG例への先祖返りに過ぎないというのだ。安倍さんがよく言ってた、戦後レジームからの脱却!とかも聞こえはいいけど、じゃあ戦前に戻るってことかいっていう(^_^;)
 実際、世界各地で歴史的に懸命に勝ち取ったものが投げ売りされようとしている。立憲主義、自由権、平等権、社会保障、人種差別の撤廃、平和主義・・・これこそが大衆の反逆の恐るべき本質なのだろう。ハリウッド映画もリメイクばっかりだもんな。
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