国文学史覚え書き

 英語にしろ国語にしろ、文系教科っていうのは、とりあえず歴史をやらせるものらしい。案外、文系教科の中核は社会科なのかもしれない。学習内容がかなりかぶるんだよな。

参考文献:大修館書店編集部編『社会人のための国語百科』

上代
日本文学が誕生した頃~奈良時代までの時代。

散文
日本で文学がいつ生まれたか明確には分からないが、最初の日本文学は口述によるものであったと考えられている(口承文学)。これは渡来人が漢字を伝えるまで日本人は文字を持たなかったとされているからである。
邪馬台国など、当時の政治や生活には儀式や魔術が深く根付き、この時伝えられていた神話は、やがて奈良時代になると『古事記』や『日本書紀』にまとめられることになる(記載文学)。
この二つは記紀神話と呼ばれるが、『古事記』が天皇の日本の統治者としての正統性を確立するために、いわば私史として編纂されたのに対し、『日本書紀』はリアリティを欠いた神話要素は控えめで、対外向けの日本の正式な歴史書(正史)となっている。
そのため、古事記の原本は失われ、最古の写本は江戸時代に愛知県の寺で再発見されたが、日本書紀はコンスタントに皇室が保存していた。
ちなみに、奈良時代以前にも歴史書はあったのだが、大化の改新の際に焼失している。
また、奈良時代には『風土記』というローカルな地誌学的史料も編纂された。
いずれにせよ、上代の文学は、渡来人や遣隋使、遣唐使によって伝わった大陸文化に大きな影響を受けていた。

韻文
日本は外国の文化を自国風に勝手にアレンジしてしまうのが上手いが、この時入ってきた漢字も例外ではなかった。漢字の意味はとりあえず無視し、音(読み)を日本語の話し言葉に強引に当てはめて使ってしまったのである(万葉仮名)。
その後、奈良時代末期に大伴家持によって最古の和歌集『万葉集』が編纂され、万葉仮名はある種の頂点を迎える。
最古の歌集である『万葉集』は、仁徳天皇~淳仁天皇までの治世に発表された歌、約4500首を収録しており、それらの歌の作者は天皇から庶民までとわけへだてない。
また、全体的に生活に密着した素朴な作品が多かった。タイトルの意味は「よろずの言の葉を集めた」という意味で、まさにタイトル通りの編集ぶりである。
その中で、特に歌の完成度がずば抜けて高く、のちの理想的詩人とされたのが、柿本人麿と山部赤人で、この二人は中古時代の六歌仙と対比され二聖と呼ばれている。
この時代には、最古の漢詩集である『懐風藻』も作られたことを忘れてはならない。当時は、漢文こそが正式な表現であり、仮名で書かれた文章は一段下に見られていたのである。この風潮は平安時代にかな文字が発明されたときも続いた。

中古
9世紀~12世紀で、ほぼ平安時代に当たる。

散文
初期は、唐の文化の影響が強く、上流階級の間では漢詩が流行、『万葉集』などの和歌は暗黒時代を迎えていた。
しかし唐が衰退し、遣唐使が廃止されると、唐風文化から国風文化への移行が始まった。
女性によるかな文字の発明は、和歌だけではなく散文にも影響を与え、日本最初のかな文字で書かれた物語こそ、かの有名な『竹取物語』である。
かな文字の登場によって、文字の階級化が起こり、公的で身分の高い文字が漢字、私的で身分の低い文字がかな文字と使い分けられるようになったが、漢字が使えない女性が使うものとされていたかな文字は、やがて男性をもとりこみ、紀貫之が女性の振りをしてかな文字を使って書いた『土佐日記』は女流日記文学のパイオニアとなっている。この作品は、『蜻蛉日記』、『和泉式部日記』、『更級日記』など後続の日記文学の原型となり、中世の随筆にも影響を与えた。
また、六歌仙の一人で美男子の在原業平に関する歌物語の『伊勢物語』は、セレブリティ溢れた作風で、特に『源氏物語』は大きな影響を受けている。
藤原道長の摂関政治が全盛を迎えた時代には、随筆『枕草子』の清少納言、長編小説『源氏物語』の紫式部が現れ、女流文学の黄金時代となった。
平安時代後期になると、かな文字で『大鏡』などの歴史物語が書かれるようになった。

韻文
貴族の間で漢詩が流行し、9世紀前半になるとそれは空前のブームとなった(漢風謳歌時代)。
しかし、その後遣唐使が廃止されると、国風文化が再評価されることになり、かな文字の普及も手伝い、多くの和歌が詠まれることになった。
こうして、ついに醍醐天皇による勅撰和歌集『古今和歌集』が満を持して登場することになる。収録された作品はほとんどが短歌であり、以後の和歌のスタンダードとなった。作風は、優美・繊細で、『万葉集』の「ますらをぶり」に対し、「たをやめぶり」である。

中世
鎌倉時代~安土桃山時代までの時代。

散文
武士階級の台頭はリアリズム、ノスタルジー、オリエンタリズムといった新しい価値観を生み出した。
特に、鎌倉時代に書かれた鴨長明の『方丈記』、兼好法師の『徒然草』は、平安時代の『枕草子』と共に三大随筆と呼ばれている。このふたつの作品は、作者の人間性や社会に対する思想がみなぎっており、ある種の普遍性がある。
また、琵琶法師によって『平家物語』が弾き語られ、やがて室町時代になると、南北朝時代を題材にした歴史物語『太平記』が語られるようになった。

韻文
寄り合いで盛んに行われた連歌が、和歌に代わって一つのジャンルとして確立したが、その連歌はさらに発展し、やがて俳句でつないでいくようになる。鎌倉時代には既に、風雅をメインテーマとする有心連歌と、滑稽をメインテーマとする無心連歌の二種類に分かれていった。
南北朝時代に作られた『菟玖波集』は、2000句を集めた連歌集である。
また、鎌倉時代には、藤原定家が『小倉百人一首』を作っている(小倉は藤原定家が住んでいた山の名前)。これは天智天皇~順徳上皇までの歌人の作品を一人1首ずつ合計100首集めたもので、江戸時代になると教養がいるカルタゲームとして広く知られるようになる。
さらに、13世紀の初めには、歌の名手だった後鳥羽上皇の命令で『新古今和歌集』が作られた。そこでは、幽玄(深すぎて言葉にならないこと)の理念が達成され、本歌取り、体言止めなどの新しい技法は、妖艶な美の世界を演出している。

近世
江戸時代のこと。

散文
徳川綱吉の治世になると、経済や産業が発達した京都や大阪の町人階級を中心に元禄文化が起こり、近世文学の最盛期となった。
市井の人々の暮らしを『浮世草子』で活写した小説家井原西鶴、『曽根崎心中』といった人形浄瑠璃の脚本を書いた近松門左衛門などが有名である。
18世紀になると、文学の中心は上方から江戸に移り、化政文化が起きる、この頃の文学は江戸文学と呼ばれる。江戸文学は、我が国の文学をさらに洗練し、都会的なものしたが、同時に退廃的なものにもなっていった。
小説では低俗で大衆向けの戯作が次々に生まれることになるが、『古事記』の再発見で国学などの古典研究も進み、思想的にも大きなムーブメントとなった。

韻文
元禄文化では、松尾芭蕉が『奥の細道』などの作品で、低俗なものとされていた俳句を崇高な芸術にまで高めた。
化政文化では、まず、元禄文化の松尾芭蕉をリスペクトしていた与謝蕪村、『おらが春』等で有名な小林一茶が優れた俳句を残した。
また、俳諧連歌から独立した17音詩が人気を得て、もともと創始者の柄井川柳(からいせんりゅう)の称号が、対象を景色に限定せず、口語OK、季語無しOKの俳句という一つのジャンルを指す言葉にになった。
さらに、風刺を効かせた滑稽な短歌である狂歌は、大田南畝の狂詩集『寝惚先生文集』をきっかけに社会現象となった。狂歌は短歌の本歌取り(リスペクトした上での引用、パクリ)のように、『古今和歌集』に収録されている名作をコミカルにした作品が多く見られる。しかし、明治期になるとほとんど姿を消した。
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