古典文学覚え書き

 夏休み中に国語のレポート全20本を書き上げようと思っているんですが、ついグダグダとネット動画を見てしまう今日このごろです。つーか、AbemaTVっていう無料のストリーミング配信でやってる『極楽とんぼのKAKERUTV』がめちゃくちゃ面白い。
 なんか『めちゃ×2イケてる』が、いよいよ打ち切りかって言われて久しいけど、結局あの番組が面白かったのって、ひとえにこの山本さんが面白かったからっていうのは絶対あって、この人が04年くらいに歴史の表舞台から姿を消してから、本当にもう見なくなっちゃったし、局側も番組自体をあまり放送しなくなったもんな。
 やっぱお笑いバトルロイヤルで、江頭さんに追い込まれた挙句に腹毛を食べる(&分けてあげる)という行動ができるのは、あのお豚様だけよ。

 で、スモウライダーから時は流れ10年あまり、ついにネット番組という形で極楽とんぼが完全復活!ポリティカル・コレクトネスでがんじがらめの地上波での復活をいっそ諦めたのがよい。
 それに、ネット番組といってもテレビ朝日が出資しているだけあって、番組のクオリティは遜色ないし(やっぱり深夜的なバラエティはうまい)、放送コードがゆるい分、地上波よりもずっと面白いという。隣の加藤さんがスッキリ!よりもスッキリ!してる。やっぱ仲いいんだなあって。
 つーか、かつての地上波がこんなんだったのにな。そりゃ誰もテレビ見なくなるよなっていう。完全になくなりはしないけど、ラジオや新聞みたいな保守的なメディアになるんだろうなっていう。北野武さんですら『テレビじゃ言えない』って新書書いてたしな。

 で、毎回番組の終わりに山本さんが罰ゲームで原宿駅近くに現れて、スモウライダーのように衆目から辱めを受けるんだけど、この番組って生放送だから、木曜日の夜に原宿をウロウロしてたら普通に山さんに会えるってことなんだよな。
 極楽とんぼの復活ライブのチケットは倍率が300倍とからしかったんだけど、番組を見る限り、罰ゲームを原宿駅で見に来る人は、ほぼゼロで、マジかよっていう。原宿というおしゃれな若者の街では、もはや認知されていないのか!?っていう。知らない人は知らないし、知っている人はヤバイ人って思っているのかもな(^_^;)

参考文献:近藤健史編『日本古典文学 Next教科書シリーズ』

『古今和歌集』
わが国最初の勅撰和歌集(天皇の命令によって作られた和歌集)。
プロジェクトの発案者は醍醐天皇で、当時の漢詩ブーム(漢風謳歌時代)にあえてあらがい、すでにオワコンの烙印を押されていた和歌のベスト盤を作らせた。
中心的選者は『土佐日記』で有名な、かな使いの名手、紀貫之である。

時代背景
時代としては、9世紀後半~10世紀中頃の、宇多天皇・醍醐天皇を中心とする寛平・延喜期、村上天皇の天暦期の時期にあたる。彼らは摂政関白(藤原氏)の影響から距離を置き、親政をおこなった点で共通している。『古今和歌集』の選者に藤原氏の名前がなく、代わりに政敵の紀氏が選ばれているのもそのためである。
さて、宇多天皇のお抱え学者だった菅原道真は、国風文化の成熟から遣唐使を廃止したが、これにより上代の『万葉集』が再評価され、新たな和歌ブームの息吹が見出されることになる。
都では、帝を中心に社交の場で歌合いが何度も行われ、和歌の批評(歌論)も表された。漢詩と違い、和歌は女性も参加できたことも大きい。

編集方針・編集意図
『万葉集』に入らなかった和歌や、現代までの和歌の優れた作品を選ぶというもの(実際には『万葉集』の歌が5首入っちゃってる。疲れていたのだろう)。
クールジャパンのように日本独自の文化を、朝廷みずから盛り上げようとしたとも思えるが、当時私的な文化にすぎなかった和歌を国家が公的に掌握するという意図もあったのではないかと考えられる。
収録歌数は1100首で、全20巻。季節、恋愛、離別、物の名の由来、などテーマごとに巻が分かれている。わずかに長歌もあるものの、ほとんどが短歌。後の勅撰和歌集の原型となった。
『万葉集』に収録された歌が力強い作風(ますらおぶり=男っぽい)であるのに対し、『古今和歌集』の歌は繊細で優美かつ知的(たおやめぶり=女っぽい)であるものが多い。枕詞・序詞くらいしかなかった技法もかなり増えた。

代表的な和歌
『古今和歌集』の和歌は3つの時代に区分されるので、時代ごとに紹介していく。

①詠み人知らずの時代
平安遷都(794)~六歌仙時代までの時代。
作者名のある歌が少ないため(全体の4割が作者不明)、こう呼ばれる。また、そもそも歌の数も少ない。
ただし、あえての匿名希望、名無しで詠んだ作品もここに含まれるので、必ずしも発表時期はこれに当たらない場合もある。
嵯峨天皇の兄の平城天皇や、閻魔大王の補佐をしていたとも言われる小野篂(おののたかむら)など、屈指の歌人がここに含まれる。
この時期の歌には『万葉集』の影響が見られ、枕詞や序詞が多く用いられている。恋の歌が多い。

故郷となりにし奈良の都にも色はかはらず花は咲きけり
(訳:平城京は荒れた旧都になったけれど、桜の花の色は変わっていない)

わたの原八十島かけて漕ぎてでぬと人には告げよ海人の釣舟 by小野篁
(訳:本当に隠岐島に流されちゃったんだけど、たくさんの島々を目当てに私は大海原に漕ぎ出していったのだと、家の人には伝えてくれ、このあたりの漁師さん)

②六歌仙の時代
清和天皇~光孝天皇の時代。
本書の仮名序(ひらがな版の序文)で「近き世にその名聞えたる人」とされながらも、軽くディスられている六歌仙――僧正遍照(へんじょう)、在原業平(ありわらのなりひら)、小野小町(おののこまち)、大友黒主(おおとものくろぬし)、僧喜撰(きせん)、文屋康秀(ふんやのやすひで)の活躍した時代である。
実際、評価が高いのは、当時すでにレジェンド化されていた美女小野小町、イケメンだった在原業平、そして僧正遍照くらいである。
大伴黒主など百人一首にも選ばれていない作家もいる。総じて、みんな個性的だが、作品数が少なかったり、技巧が単純だったりと一長一短といった評価であった。
ちなみに、六歌仙のうち生没年が明らかなのは遍照(816~890)と在原業平(825~880)の二人だけで、彼らの年代から六歌仙の年代が決められている。
この時代は、歌合も始まり、表現も一つの言葉に二つの意味をのせる掛詞(かけことば)、同じ言葉を使うのではなく、その言葉に関連する別の言葉を持ってくる縁語(えんご)等、フリースタイルダンジョン的な斬新な技法も現れた(つーか和歌って上品なラップだよな)。
また、七五調が優勢になり(やはりラップだ)、自身の内面を深く見つめ、普遍的な恋を詠んでいる。

あさみどり糸よりかけて白露を玉にもぬける春の柳 by僧正遍照
(訳:新芽のついた薄緑色の糸をより合わせて、白露を美しい玉のようにその糸に貫いている、ネックレスのようにすばらしい春の柳だ)

思ひつつ寝ればや人の見えつらむ夢と知りせば覚めざらましを by小野小町
(訳:あの人のことを何度も恋しく思いながら寝たから、あの人が夢に現れたのかしら、もしそれが夢と知っていたら、私は目を覚まさなかったのに)

③撰者の時代
『古今和歌集』の編纂に携わった4人の選者が活躍した時代。
この頃になると、歌合だけではなく屏風歌(和歌を屏風に書く)も盛んになり、和歌の社会的地位も一段と上がった。掛詞、縁語、比喩、見立て、擬人化といった表現も六歌仙時代よりも一層進み、言葉遊びの風体をなす作品も見られるようになった。
このことは歌が現実の世界から離れ、言葉自体の観念的世界を作り得るほどになったことを示している。
実際、本書の仮名序では「力を入れずして天地を動かし、目に見えぬ鬼神をもあはれと思わせ、男女の中をも和らげ、猛き武士の心をも慰むるは歌なり」と、言葉の力(言霊信仰※文字ではないのに注意)と、「やまとうた(和歌)」の正統性を強く論じている。

久方の光のどけき春の日に静心なく花の散るらむ by紀友則
(訳:陽の光がのどかに照っている春なのに、その春に背いて散る桜の花は、あわただしく切ない思いで散っているのだろうか)

袖ひちてむすびし水のこほれるを春立つけふの風やとくらむ by紀貫之
(訳:暑かった夏の日に、袖が濡れるのもかまわず手にすくった山の清水、それが寒さで凍りついているのを、今頃は春の暖かい風が溶かしているのだろう)

風吹けば落つるもみぢ葉水きよみ散らぬかげさへ底に見えつつ by凡河内 躬恒(おおしこうちのみつね)
(訳:風に吹かれて池の上に落ちたもみじの葉は、水面を美しく彩っている。そして、水が清いために、散らないで枝にある葉の影までが、池の底に見え隠れしていて美しい)

寝るがうちに見るをのみやは夢といはむはかなき世をもうつつとは見ず by壬生忠岑(みぶのただみね)
(訳:寝ている間に見るものだけが夢なのだろうか、いやそうではない、はかないこの世もうつつとは思えないのだ)

近代文学に生き延びる「江戸」
日本の近代文学の経緯において江戸時代の文学は特別な存在であるとされている。それは、江戸時代が明治維新という近代化によって断絶された近世に属しながらも、一方で明治時代と連続していた時代だからである。
近代の作家にとって、江戸時代の文学は克服すべき過去であり、それと同時に時には規範とすべき古典だったのである。

戯作(げさく)
江戸時代後期の黄表紙(大人向けの絵入り小説)や、それが長編化した合巻(ごうかん)、伝記的な小説である読本などの、大衆的かつ通俗的な読み物のこと。
明治時代初期にも生き残り、文明開化によって大量発生したと思われる西洋かぶれがもっぱらおちょくりのターゲットになったりしていた(牛鍋料理店を舞台にした『安愚楽鍋』など)。文体は会話文を積極的に盛り込み、テンポが良い。

坪内逍遙と曲亭馬琴
著書『小説神髄』において、「小説の主脳は人情なり、世態風俗これに次ぐ」と、新しい時代の小説が向かうべき方向性を論じた。
つまり、小説は、人の心の動きを描くことが最も大切であり、次いでそういった人々を取り巻く世の中の写実的な描写が重要なのだと宣言したのである。
坪内逍遙が、人情を強調する背景には、江戸時代の文学がそれをないがしろにしていたという認識があったからに他ならない。そして、その代表格が江戸時代後期の作家曲亭馬琴の作品だった。
逍遥は、彼の代表作『南総里見八犬伝』に登場する八犬士が完全無欠な人物として描かれていることに対し、「決して人間とはいい難かり(=あんな人間いねえよ)」と述べ、善人は最後まで善人、悪人は最初から悪人という、単純化された勧善懲悪の世界観を基本姿勢として貫いたが故に、無理なストーリー展開を強いられ、リアリティ(と人情)を欠いたものになってしまったと批評している。
こうして、逍遥は近代の小説はまず持って馬琴を克服するところからスタートしなければならないと考えたのである。この主張は、二葉亭四迷など後続の作家たちに大きな影響を与える事となる。
ただし、このことは裏を返せば、明治時代になってもそれだけ馬琴の『八犬伝』が盛んに読まれていたことを意味している(逍遥も読んでいたから批判できたわけで)。
あの芥川龍之介も馬琴のファンだったらしく、『戯作三昧』では、作品において理想的なモラルを優先させるか、リアルな心情を優先させるかのディレンマで悩む、馬琴の心情を描いている。

稗史(はいし)
『八犬伝』や『三国志演義』、『水滸伝』のように、物語の舞台や時代設定は実際の歴史から引っ張りながらも、ストーリーはむちゃくちゃのフィクションになっている時代小説を指す。
正史認定されていないが故に、その価値は低く見られがちなジャンルだが(いわばサブカル)、その反面、民間伝承や物語などを自由に展開させることができるという、大きな魅力を持つ。
明治に入っても、中里介山の『大菩薩峠』(内容はニヒルな世界観の『るろうに剣心』だと思う)など、このジャンルは描かれ続け、現代でも時代を超えた支持を得ている。
ちなみに調子に乗ってやり過ぎると、ガチの歴史ファンを敵に回すが、こういう時の決まり文句は98%「どんな形でもその分野に興味を持つきっかけになればいい」ってやつね。うるせーよっていう。

井原西鶴
明治20年代に入ると、坪内逍遙の『小説神髄』の影響を受けた作家が新しい小説のあり方を模索し始めるが、そこで直面したのが、馬琴の勧善懲悪ものに代わるオルタナティブな規範(お手本)である。
彼らは、人情や社会風俗を写実的に描写するための新しい文体を求め、二葉亭四迷などによって言文一致(口語体で文章を書くこと。この記事)が提唱されたりもしたが、依然として模索が続いていた。
そこで注目を集めたのが、江戸時代前期に浮世草子で人気を博した井原西鶴の、世相や風俗を写実的に描く作風と、その独特な文体である。
その背景には、明治維新以来の欧化主義への反動(=古典の再評価)が高まったことがあった。
西鶴の文体は、雅俗折衷文(地の文は上品な文語体、台詞の文は俗っぽい口語体で書く文体のこと)とも呼ばれ、新しい文体を実践する試みとして大きなムーブメントとなった。
尾崎紅葉の『伽羅枕』では、フェイトな運命を背負った女性が、吹っ切れて遊女としての人生を歩み始める様が描かれ、金や欲にまみれた非情な現実をテーマにした西鶴作品に通じるものがある。
また、太宰治は、井原西鶴の有名な人情話『西鶴諸国はなし』の「大晦日はあはぬ算用」をオリジナルアレンジし(『新釈諸国噺』)、トラディショナルな武士の義理人情を、より強調して描いている。
さらに、大阪出身の武田麟太郎と織田作之助は、西鶴作品のローカル感(大阪ならではのユーモア)に着目し、庶民の生活を活写しながらも、その先行きの見えない現実もしっかりとスケッチしている。
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