書道覚え書き②

参考文献:全国大学書道学会編『書の古典と理論』

仮名の成立と書風の変遷
今度は日本の書道史。

弥生時代
日本の書の歴史は、大陸からの漢字伝来に始まるが、その伝来の痕跡はわずかに残された金石文(金属や石に刻印された文章のこと)や木簡に限られる。
『貨泉』(青銅製の貨幣)と『金印』は日本への漢字伝来を示す最古の出土品である。

古墳時代
『石上神宮七支刀銘』や『隅田八幡宮神社人物画象鏡銘』などの金石文には、すでに漢字の音を借りて日本語を表記する万葉仮名的な使用例が見られ、国文学や書道史の上で重要な資料となっている。
稲荷山古墳の鉄剣に記された銘文は、線が細く太さも均質でネームペンで書いたような可愛い古朴な書体である。

飛鳥時代
『法隆寺金堂釈迦造像銘』に見事な中国南北朝の文字が見られる。この格調高い書風の広がりは、聖徳太子直筆と言われる『法華義疏(ほっけぎしょ)』にも見られる。『法華義疏』の書体は、横に潰れた漢隷の流れを組み、さらにそれを行書的に崩したような印象を与えるものである。
しかし、飛鳥時代には、これらの書体とは別に、非常に洗練された楷書である『金剛場陀羅尼経(こんごうじょうだらにきょう)』など、隋風書風も見え始め、飛鳥時代の書道は、この二つの影響下に置かれていた。

奈良時代
仏教の興隆によって写経が国家的事業になり、数々の名筆が生まれた。
その白眉といわれる国分寺経の『金光明最勝王経』は、潤いを帯びた線質、唐経には見られない筆致を醸している。
写経の誤字脱字には罰金があったらしく、一行17字詰めの厳正な楷書は筆力に溢れ、隙がなく、やや扁平な字形が特徴である。

写経以外では、知識階級の日常の書体や書風を伺える、正倉院文書と木簡を忘れてはならない。光明皇后の『楽毅論』は、唐代に流行した王羲之の書を臨書したものである。
木簡では習字木簡や万葉仮名木簡が各地で発掘されており、公文書の記録は漢文、また和文でも男手(万葉仮名の楷書)だったことがわかる。

この男手は早書きされていくうちに、やがて草書体の草がなに発展する。草仮名は時間短縮のために、字と字をつなげるといった工夫(連綿)が見られ、その結果である繊細な線質は、筆の流れの美しさを表現する芸術的な技法にもなった。

平安時代
日本書道の確立期にあたり、その基本的書風は現代に根強く生きている。
また、漢字の草書を極度に省略化した仮名という独自の書体が生まれた。

ただし遣唐使の派遣が中止されるまでは、引き続いて中国の書法が継承された。その頂点には、嵯峨天皇、空海、橘逸勢の三筆が君臨し、王羲之を主流とした伝統的書風の中に温雅な風韻をかもした。
嵯峨天皇が、最長の弟子の光定が比叡山の戒壇の設立に奔走したことを讃え、したためた書である『光定戒牒』は、字によって線の太さ、墨の乾湿を意図的に変化させており、「為」などの向勢(縦線が互いに膨らみ合うこと)と、「立」などの背勢(縦線が互いに反ること)の見事な調和が取られている。
そんな嵯峨天皇が、唐人の手によるものだと勘違いし、書の腕前に脱帽したのが空海である。
空海が、当時はまだ仲が良かった最澄に宛てた手紙である『風信帖(ふうしんじょう)』は、重厚で落ち着きがある王羲之の書法をよく学んだ上で、充分に自己のものへと消化し、そこに日本的な情趣をも醸し出している。収筆を上に跳ね上げることで、筆の流れにスピード感を感じさせている。
橘逸勢(たちばなのはやなり)は、筆の性能を活かしきり、自由奔放でありながら格調高い書をしたためた。そこには緩急抑揚のついた強い筆力と躍動感が感じられる。

やがて三跡(小野道風、藤原佐理、藤原行成)の時代になると、小野道風が和様の滑らかな線質で唐風の鋭利な感触を払拭し、仮名の隆盛とともに日本書道独自の流麗な筆運びのきっかけを作った。
ついで藤原行成が道風を範とし、穏やかな線に緩急の速度と抑揚を加え、和様の姿を確立させた。彼の書は、「世尊寺流」と呼ばれ、曲麗優雅な宮廷文化を代表する名跡を残した。
また、清少納言とも親交があった行成は『関戸本古今和歌集』を、リズミカルで生きの長い連綿の女手で書いており、この時代は、紫式部が『源氏物語』を、清少納言が『枕草子』を著す、女手の黄金時代であった。

平安時代末期になると、従来の艶かしい美から転じて、個性的な書風が見え始め、仮名の完成美を示した。特に10世紀中頃から、書写の速度やリズムに種々の変容が現れて、能書家では、行成の孫の藤原伊房(これふさ)が、鋭さと速さ、秀麗にして気迫に満ちたユニークな書風を残している。

鎌倉時代
まず、藤原俊成と定家父子が活躍した。
藤原定家の書風は、父俊成の角張って鋭い書風と異なり、扁平な字形が多く、筆圧の強弱も極端で、ふにゃふにゃ、総じてくせの強いものであったが(自身も悪筆と認めていた)、当時の歌学の権威でもあったため、そのくせは個性と捉えられ、大いに尊ばれ、後世は定家流と呼ばれて広がった。
また、著名な歌人である西行にも魅力ある書風が見られるなど、個性的な書が書かれた一方で、画一的な亜流が生じたのも、この時代の特徴である。
一方、平安時代末期からの日宋貿易で、禅宗とともに新しい宋風の書が輸入され、これは禅宗様と呼ばれた。

室町時代
書道史的には見るべきものは多くない。明からの影響も乏しく、型にはまった保守的傾向の強い書風が多く見られた。
その中でも一休宗純は、筆を紙面にこすりつけるような鋭く激しい特異な筆勢と、大胆にディフォルメされた奔放な書風で気を吐いた。

安土桃山時代
室町時代の沈滞した空気を排除し、新風が吹き込まれた。
後陽成天皇は雄大な書風を見せた。
公家の近衛信尹は大字のかなに異色の書風を見せた。

江戸時代
初期に大陸からやってきた禅宗の黄檗僧(おうばくそう)たちが中国明代の書をもたらした。彼らの雄渾な筆致の新書法は、やがて唐様と呼ばれ大いに広まった。
江戸中期には近衛家煕によって、平安時代のかなに光が当てられた。
この時代の一般庶民の文字教育は、特に目立った能書家がいない草書の御家流が幕府公認の書体に規定されていたため、実用を旨にして形式化、低俗化の一途をたどった。しかし識字率の向上には一定の役割を果たした。

明治時代以降
明治時代以降、文学作品の多くが、漢字仮名交じりの表記による口語文で書かれるようになった。一方、書道の作品では、漢詩や漢文、和歌や俳句を、伝統的な手法によって表現する作品が主流を占め続けていた。
その後、昭和に入ると、漢字仮名交じりで書かれた同時代の文学作品を新たな書表現で作品化しようという動きが生まれる。
戦後、1954年に毎日書道展で近代詩部門が設けられると、翌年には日展の書の部門において調和体と称する漢字仮名交じり作品の出展区分が設けられた。
また、従来は小さく書かれ、展覧会の片隅の机に並べられるという地味なイメージがあったかなの書を、屏風、軸、額にして絵画作品のように壁に飾って鑑賞するという、大字かな運動が全国的に展開された。
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