国文学覚え書き⑤

『土佐日記』
歌人としても知られる紀貫之による最初の日記文学。935年頃成立。
土佐の守の任務が終わった紀貫之が土佐から京都へ帰るまでの55日間を綴っている。
私的な気持ちを表現するのに使い勝手がいい仮名文字を使いたかったからか、冒頭では、女という設定で記したとしているが(当時の男性の文章は漢字がスタンダード)、その設定は必ずしも全編において貫かれてはいない。

門出
男もするという日記というものを、女性の私もやってみようと思って書いてみました。

ある年(934年)の12月21日、午後8時ごろに門出(出発)。その時のことをほんの少し書き留めます。
ある人が、国司としての4、5年の勤めが終わり、引き継ぎもすべて終えて、書類などを受け取り、住んでいる館から出発して、京に帰る船の乗り場に来ました。
たくさんの人、知ってる人も知らない人も見送りをしています。
ここ数年、親しくしてくれた人たちは、別れを惜しんで、一日中あれこれしながら騒いでいるうちに、夜が更けてしまいました。

22日。
和泉(大阪府南部)まで、無事に付くように神仏に祈りました。
藤原のときざねさんが、(馬には乗らない)船旅なのに、馬の旅でやる送別の宴をして盛り上げてくれました。
身分に関わらず、みんなべろべろに酔っ払って、海のほとりで、“ふざけ”あっていました(潮海だから、魚肉がふざける=腐るはずのないのに)。

23日。
八木のやすのりという人がいます。この人は、国司の役所で必ずしも雇っている人でもないようです。
この人が、厳粛な様子で馬のはなむけをしてくれました。
国司としての人柄でしょうか、この国の人の気質として、別れの時は見送りにはやって来ないと言っていましたが、思いやりがある者は、遠慮せずに見送りにやって来てくれました。これは、この人たちに良い贈り物をもらったから褒めるわけではないです。

24日。
国分寺の僧官が馬のはなむけをしに来て下さいました。
その場にいるすべての人、子どもまでがひどく酔っっぱらい、一という文字すら知らない人が、その足を十字にして、調子を取って足踏みをして楽しみました。

亡き児をしのぶ
27日。
大津から浦戸を目指して船を漕ぎ出す。
そうこうしているうちに、京にて生まれた女の子が、土佐で急に亡くなってしまったので、ここ数日の出発の準備を急ぐのをみて、何も言えない。
京都に帰るにあたって、女の子がもういないことのみ、悲しく恋しい。
そこにいる人たちも堪えられない。
この間に、ある人が書いて出した歌が

都へと思ふものを悲しきは 帰らぬ人のあればなりけり
(訳:都へと思うものの悲しいのは、帰らぬ人がいるからであろう)

である。
また、あるときには、次のような歌を詠んだ。

あるものと忘れつつなほ亡き人を いづらと問ふぞ悲しかりける
(訳:死んでしまったことを忘れ、その人がどこにいるのかと尋ねるのは、悲しいことだ)
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