国文学覚え書き⑥

『徒然草』
鎌倉時代末期~南北朝時代の歌人である吉田兼好が、人生・社会、自然、芸能、説話・逸話、古来の習慣・風俗など幅広いジャンルを考察し、その本質に迫った随筆文学。

つれづれなるままに
することもないので、一日中硯に向かって、心の中に浮かんでは消えていく、特にこれといった意味もないことを、際限なく書きとめていると、意外と狂ったように熱中するものだ。

名を聞くより、やがて面影は
名前を聞くとすぐにその人の顔が自然に思い浮かぶような感じがするが、実際に会うとイメージしていた通りの顔をしている人は少ないものである。
昔の物語を聞いても、その舞台となった場所は現在のあの人のあそこらへんだっただろうと思ったり、登場する人も現在見る人の誰かと自然になぞったりしてしまうのは、私ばかりではないだろう。
また、今、人が言うことも、目に見えるものも、自分が心の中で思っていることも、このようなことはいつのことだろうと思い返すと、いつかは思い出せないが、間違いなくあった気がするのは、私だけだろうか。

花は盛りに
花は満開のときだけを、月は雲がないときだけを見るものであろうか?
いやそうではないだろう。
降っている雨に向かって、それが隠す月のことを想い、すだれを垂らして室内にこもって、春が移り行くのを知らずにいるのも、やはりしみじみとして趣深いものである。
今にも咲きそうな梢、花が散ってしおれている庭などにこそ見るべき価値はたくさんあるのである。

和歌の詞書にも、
「花見に行ったけれど、とっくに散り果ててしまっていた。」
とか、
「さしつかえることがあって、花見に参りませんでした。」
などと書いてあるものは、 花を見て詠んだ歌に決してひけをとらないだろう。
花が散り、月が沈みかけるのを惜しむ習慣はもっともではあるが、ものの情趣を理解しない人は、
「この枝も、あの枝も、散ってしまって、今は見る価値ががない。」
などと言うようだ。

何事も、最初と最後に趣があるものだ。
男女の恋も、ひたすらに契りを結ぶことだけを恋というのだろうか。
逢わずに終わった恋の辛さ、はかなさを嘆き、長い夜を一人で明かし、遠く離れた恋人をはるかに思い、雑草ボーボーの荒れ果てた家で、昔を懐かしむことこそ、恋愛の情趣と言えよう。
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