そうだナイロビ博物館に行こう

 『進化の存在証明』第7章は人類の進化。

 特に頑固なまでの歴史否定論者ウェンディ・ライトとドーキンスの進化をめぐるやり取りは必見。まるで大晦日に「疑似科学スレイヤー」大槻教授と、「金星人の住民票を持つ男」たま出版編集長、韮澤さんの口喧嘩を聞いているようで大爆笑必死。
 このやり取りを紹介している項のタイトルが「見に行くだけでいい」というのですけど、このタイトルに、彼女に対するドーキンスの思い全てが凝縮されています。
 「サルとヒトの中間種が存在しないだって?博物館に行ってくれ。見に行くだけでいい。あるから。」

 ドーキンスは彼女のことを尽く馬鹿にしていて「モーニングアフターピルは小児性愛者の最良の友」という彼女の意見を聞けば、彼女の論理的能力がどれほどのものかおおよそ分かるが・・・とバッサリw。

 この二人の議論はもはや議論の体をなしておらず、ドーキンスが具体的な中間種の化石をあげて、彼女を追いこんだと思いきや、彼女は論点をさらっとすり替え「ドーキンスの攻撃性」を攻撃。「なんであなたはそんなに攻撃的なの?誰もが貴方の信じているように信じることが、なぜあなたにとってそんなに重要なの?」としょぼいポストモダン作家のような価値相対主義で応戦。でドーキンスが「これは私の個人的な信念でなく、客観的な事実です。」と返しても、また同じ質問に逆戻りの無限ループ。

 この不毛な堂々めぐりにドーキンスもいらついたのか「中間種の証拠見せろって言ったのあんただろ!いいから博物館に見に行けや!」的発言でたたみかけます。しかし彼女も「ならあなたも、ご自身の目を開けて、私たちのそれぞれを創造された愛情深い神を信じる人によって築かれてきたコミュニティを御覧なさいと言いたいわ」と売り言葉に買い言葉。
 このやり取りが所収されてるだけでも、この本は充分価値があるなあ。こんなの日本の本や図鑑じゃまず載らないから。

 またこの前の記事に書いた「種のグラデーション性」及び「化石動物の種のあいまいさ」は、全く同じような主張が第7章にも書いてありました。
 「種と種の間の中間種につけられる名前は、結局その中間種をはさんでいる両端の種のどちらかの名前(属名)に入ってしまうから、種と種の人為的境界が発生してしまう」という問題を、二十歳という境界を超えたら子どもは急に大人になるか?という例えで説明したドーキンスはうまいですね。
 境界に当たる部分はグラデーションになっていて、そのままだと概念的に捉えにくいから便宜上境界を設けている。このことをドーキンスは大人と子ども、私はジェンダーで説明したわけです。

 あとドーキンスとデズモンド・モリスって同僚なんですね。それにジョン・メイナード・スミスも知り合いなんだ。というかジョン・メイナード・スミスも亡くなってたんだ。早くに亡くなったグールドといいドーキンスもさみしいだろうな。
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