解った気、教えた気

 明日は私立高校の受験日だそうです。今年は陶芸しに行っちゃって、冬期講習の前半にほとんど参加できなかったけど、大丈夫かな。「いや、お前なんていてもいなくても変わらねえよ」って感じだろうけど。
 「頑張って」なんて偉そうなことは言えません。受験生の皆さん。本当にすごい。

 日曜日の朝の番組などに出ている社会学者の西部邁さんには「人間は言葉の動物である」という一貫した主張があります。確かに人間にとって言葉は、伝達手段として“おそらく最も”使い勝手がいい道具です。
 しかしそれでも、実際の「会話」という言葉のやり取りでは、身振り手振り、表情など(言葉以外の余計なもの)が、言葉を装飾し、時に伝えやすく、でも大体は曲解をもたらします(文章はそれがないけど、文だけで相手に解りやすく伝えるのはそれはそれで結構シビア)。

 「科学者の人は、常に論理的に物事を考えていて、比喩を嫌う」と竹内薫さんが言っていました。しかし、物事を手っ取り早く、大雑把に伝える時に、比喩(例え話)ほど便利なものはありません。たとえそれが、純粋な伝達を阻害し、誤解を生むとしても。
 かといって誤解を生むような比喩を極力排除し、難解なものは難解なまま説明しても、時間がかかるし、相手がよほど忍耐力がある人じゃないと、説明の内容を理解しようともしてくれないでしょう。

 学校や塾の授業にしても、日々の人間関係にしても、この兼ね合いがとても難しい。塾での私の話は、相手にどの程度伝わっているのでしょうか?「教えた気」になって調子に乗ってるだけかもしれません。
 そして私はどこまで、相手の話や本の内容を理解しているのでしょう。私は(相手の心の中をのぞく能力がない限り)真の理解は不可能だとしても、極力それに近づくことは可能だと思っています。しかし、それはとても時間がかかり、何度も誤解と、修正を繰り返して、やっと辿り着く境地だと思うのです。

 かつてSF漫画で人工知能を取り上げた時、私は機械に比べて「人間の思考は大雑把なものだ」という理解に達しました。これは決して、人間の思考が劣っていると言いたいのではなくて「大雑把だからこそ、とんでもなく複雑な現実世界に生きていても、素早い処理(思考や判断)が可能なんだ」と思ったのです。

 私が苦手な数学の話をするならば、正確な円周率ははじきだせないし、割り切れない数もある。その上微分積分は、発想が相当アバウト(座標に描かれた複雑な形も、ドット絵のように細かく分割していけば、そのピクセル数を数えることで大体の面積がわかる。よって解像度をあげれば、より正確な面積は分かるが、きりがないって発想)。
 量子力学だって、結構とばしてくれてます。観測しなきゃ、量子の性質は決定しないって、そんないい加減でいいんかい(笑)。

 これは「科学者の想像以上に、自然界がアバウトにできていた」とも言えますが、私は案外「客観的な科学研究をする人間の“主観”が大雑把だから、客体(研究対象=自然界)もアバウトにしか理解できない」んじゃないかな?とも考えています。
 アバウトな意識世界に生きている私たちは、真実の世界がどうであろうとそのアバウトな主観の色眼鏡によって、世界がアバウトに見えてしまうんじゃないでしょうか。
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