ドゥルーズとガタリのモデルについて

 なんでもルイス・キャロルの名作『不思議の国のアリス』がジョニー・デップ主演で実写映画化されるそうで。「アリス」の大ファンで、高校の頃『鏡の国のアリス』も『スナーク狩り』も読んでメチャクチャはまっていた私としては、今回の映画は納得がいかない。
 マッドハッターがなんでデーモン小暮閣下みたいになってるんだ。やはり私としては、ジョン・テニエルさんの挿絵が最高と思っているんで…ジョニー・デップの帽子屋が主役のアリスを食っちゃってる気もするし、あの不思議の国の気味の悪い感じが行き過ぎてて嫌だなあ。
 ディズニーならば昔に作ったアニメ版が最高に良かったんだから、あれでいいじゃんって思うんですけど。ただ古すぎて著作権切れちゃったのか。

 さて「近代について大雑把につかむならこの本がいいですよ」と大学の先生に勧められた浅田彰さんの『構造と力』。今回は小難しい専門用語を並べてばっかりの、この本で論じられている社会の変容のモデルについて社会学素人の私が、生物学の観点から考えていきます。

 まず浅田彰さんは当然かもしれないけど、生物学(社会生物学)を知らない。専門外だから。だから昔ホッブスの『リヴァイアサン』を読んだ時と同じ点に、私は違和感を感じました。
 それはなんだ?っていうと「本能が壊れた錯乱する動物である(ホモ・デメンス)人間はルール(社会)がないと無秩序状態で、獣のように殺し合う」という考えです。すごい悲観論。
 だからホッブスは「リヴァイアサン」という怪物を自分勝手な人間どもをまとめる存在として仮定し、浅田さんも「ルールがない無秩序→ルールがある秩序」という単純な図式をしてします。
 しかし生物はメタ的に自分たちが、自分たちをまとめるルールなど作らなくても、あらかじめある自然界のルール(食物連鎖など)にそって適応し、行動しています。人間にとってもそれは例外でなく、ルールがなくなったとたん、みんなが利己的で殺し合う状態にはなりません。
 強調しますが肉食動物が草食動物を殺して食べるという食物連鎖は、決して無秩序な殺し合いではありません!!
 ルールとは人間が作らなくてもあらかじめ存在するし、自然に生まれる(創発する)ものなのです。

 人間が社会的な動物なのは確かですが、ルール(社会)がないと無秩序で、あると秩序という図式はあまりに強引かつ単純だと思います。
 例えば社会が一番混乱するのは、“ルールが存在した上で”それが機能しなかったり、ルールとして矛盾している状態の時だと思います。
 例えばイラクやアフガニスタン。あれはルールが存在しないのではなくて、米英露などのせいでかつてのルールが機能しなくなった上、アメリカが作った新たなルールも彼ら(前政権のタリバンなど)にとっては矛盾しているからだと思います。つまり前政権のルールVS現政権のルールの葛藤なのです。
 人間にとってルール(社会)は常に自然発生するものですから、ルールがない状態を仮定することも不可能かもしれない。全ての物理法則(というルール)が働かない世界を仮定できないように。

 さて浅田彰さんは、古代の社会を、物々交換によって成り立つ「コード化社会」、前近代(封建制度の中世社会など)を、絶対的権力者(超越者)がえばっていて皆を強制的にまとめる(ヒエラルキー性)の「超コード化社会」、最後に現代のように絶対的権力者が明確でなく価値が相対化された「脱コード化社会」とドゥルーズ=ガタリを引用しています。
 そして脱コード化社会は明確かつ絶対的な価値観がないので、ゆらゆらゆらいでいて脱コードを繰り返している(再コード化)というのです。それを浅田さんはクラインのねじれた壺によって図式化して説明しています。

 まず、おかしいのが、現在の資本主義のような脱コード化社会だけが、再コードを繰り返しているという点です。
 システムが大きく変化することを自然科学で「パラダイムシフト」といいますが、そのような新しいシステムが生まれる時は、宇宙でも生物進化でも「揺らいでいる状態」であり、脱コード化社会に限ったことではありません。
 この新たな可能性が生まれる揺らぎ状態を、複雑系数学では「カオスの縁」のエリアといいます。

 揺らぎ無きところにパラダイムシフトは起こりません。よって「コード化→超コード化→脱コード化」という定向的な進歩主義的モデルは若干誤りだと言えます。

 また私が思うに脱コード化社会は、超コード化社会から脱しているだけでなく「さらに上手い感じの超コード化の模索」、つまり(DNAとRNAとタンパク質の関係を表したセントラルドグマが修正されたように)「脱コード化→超コード化」というベクトルも存在すると思うのです。
 
 コード化、超コード化⇔脱コード化

 という、超コード化と脱コード化を繰り返すモデルにした方が、私が好きなモデルかな?と思います。

 人は、よりよい社会のルールを求めて、現在のルールを補正したり、構造ごと改革したりと、ヴァージョンアップを重ねていきます。
 バイオフィリア仮説でも述べたように、環境にしろ、社会にしろ、それは静止したシステムではありません。常に時代に適応しなければ、そのルールは淘汰されるでしょう。
 そして脱コード化した後どうするのか?それは再び超コード化社会の超越者(にあたる存在、システム、ルール)を求めて、それを形成していくはずです。
 古代でも中世でも近代でも、その繰り返しをしてきただけで、定向性などは見かけの現象に過ぎません。

 最後に「アリス」つながりで、議論をまとめます。
 『鏡の国のアリス』で赤の女王がアリスに「この場に留まっていたいのなら走り続けなさい」と言う哲学的なセリフがあります。進化や、社会のコード化もそれで、常に時代や環境に適応し続ける努力を怠れば(ルームランナーの上で止まったら、後ろに戻されてこけるように)淘汰されてしまいます。
 これを「赤の女王仮説」というのです。そういえば、今度の実写映画はベースは『鏡の国のアリス』っぽいですね。ジャバウォックや赤、白の女王も出るから。ならタイトルは変えるべきだ!
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