オレ基準論争

 ハーバート・リードが言うように、人間は対象をカメラのようにそのまま映す存在ではない。その対象が漫画でも映画でもなんでもいいけれど、少なからず人はその作品に自己を投影してしまう。

 その作品が「面白い」と感じた人は、その作品のいいところを積極的に見つけようとしてくれるし、難点があっても「そこは気にならなかった」とか「逆にそれがいい」とか言って温情してくれるけど、その作品が「つまらない」と感じた人は、だんだんその作品のネガティブなところばかり気になっちゃって、結果的に「あらさがし」をやっていたりする。

 私の大学の先生は美術鑑賞が専門だったけど、鑑賞というのは受動的で一方的なものでなく、実際はもっと能動的でクリエイティブな活動だったりする。
 その作品が超好きな人が、勝手に作品を深読みして作者の意図せざるメッセージやテーマ性を見出してしまうことはけっこうよくある。
 絵画論の世界なんかそんな気がするもの。作家はとうの昔に死んでいるんだから、どんな意図でその作品が描かれていたかなんてわかるわけないだろ。

 そもそも人間には、どんな人にも多かれ少なかれ創造力があるし、じゃないと社会の中でコミュニケーションなんて取れない。
 人間が何気なく行なう「会話」って、生物学的にはかなり高度な行為で、無意識的に相手の反応を想像しているからスムーズにできるけど、自閉症の人とかはそれが苦手だったりする。
 
 ちょっと話がそれちゃったけど、つまり同じものを見ているはずなのに、人によって感想や意見が違うのはそのためで、ここで興味深い点は、その作品に対しての結論が「面白かった。好き」でも、「つまらなかった。きらい」でも、それは作品そのものを論じているのではなく、オレ基準の作品像を作り上げ、それを語っているということ。

 そう考えれば、映画の感想のコメントで意見が衝突しあうのも頷けるし、自分が作ったわけでもない人の作品をファンがあそこまで弁護するのは、もはや“その作品自体”を弁護しているのではないんですよね。
 ファンが弁護しているものは、その作品を見て自分が形成した”オレ基準の作品像”、もっといえば”自分自身”を弁護しているわけであって、それを否定されれば嫌な気分になるのは当たり前。まるでその映画を自分が作ったがごとく、愛着を持ってしまうんだから。

 そもそも感想や評論を人に伝えるということは、それはそれでひとつの「表現」であり、「作品」。だから漫画の同人誌などでよくある二次創作なんかに近いのかもしれない。
 映画鑑賞でもなんでもいいけど、ホビーな世界、ディープなオタクの世界の特徴ってそこかもしれない。その対象が好きすぎると、マニアはオレ基準のイメージを形成し、それにしがみついてしまう。

 私は、そのような「オレ基準」を批判しているわけではなくて、それを前提として理解すれば、脊髄反射的反論や感情論にもならないと思うんだけど、やっぱり難しいか。

 人間が対象に自己を見出してしまう性質は先天的なものかもしれない・・・
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