ポストモダン思想の重大ミス?

 毒舌でおなじみ、ビートたけしさんが著書でこんなようなことを書いていました。「チーマーとか作ってつるむの奴ってのは大抵馬鹿なんだ。賢い奴はチーマーなんてやらない。できるわけねえんだ。絶対数が少ないんだから」
 このたけしさんの話を、大学の先生に私が引用したら先生も爆笑していたなあ。

 なにが言いたいかというと「本当に賢い人って全体の一割くらいだ」ということです。
 「んなことないよ!なにをもって"賢い”って言うかだってわからないじゃん!」…そういった意見も出るでしょう。ごもっともだと思います。
 でも、ちょっとそう仮定して話を進めさせてください。

 浅田彰さんは「カントが真善美という概念(真理)にメスを入れて解体しちゃったのが近代で、誰もが共有できる価値観は、現在消失してしまった」とポストモダン思想を論じているのですが、私が思うに「誰もが共有できる価値観」なんてもともと無かったんじゃないか?と思うんです。

 古代ギリシャから近代まで、学問に没頭できた人はある特権階級の人のみで、そういう賢い人たち”だけ”で、学問の世界は成り立っていたからこそ、「おれたちの真理は共有できる」と己の哲学の普遍性を疑わなかったのではないでしょうか?

 それが現代(近代以降)になって、かつては学問とは無縁な大衆も、義務教育で半ば強制的に教養を叩き込まれることになった。でもほとんどの人が、そんな日々の生活と切り離されたどうでもいいことに興味もない人種だから、賢い人が考える価値観なんか理解できない。

 それを「近代以降、普遍的な価値観はなくなっちゃったよ~」と賢い人が勘違いしているだけなんじゃないかと思います。もともと古代から中世、近代も民衆は無知で日々食っていくので精いっぱいで、普遍的な価値観なんて小難しいこと共有できてなかったですって。

 んで、ポストモダン思想もソクラテスのように「やっと"知らないってこと”を知った」くらいで留めときゃよかったんですよ。「今まで普遍的な真理だと疑いもしなかったものが、幻想である可能性を知った」と。
 大きな矛盾は「普遍的なものは何もない。だから何でもありで自自由に生きよ」なんて価値観だって共有できない、というパラドクスに陥っちゃうってことです。
 「それ(普遍的な価値観はないというテーゼ)がポストモダン思想の普遍的な価値観です」って言っちゃうと、「じゃあ普遍的な価値観あるじゃん」って言われてしまう。
 「ポストモダン思想の考え方も共感する人だけが使えばいい、選択肢の一つだよ」ってことなのかな?

 だとしてもそんな思想、やわにも程がある。今こそポストモダンなんて甘ったるい思想から脱して、もう一度普遍的な価値観を模索するときなんじゃないんですか?
 私、構造主義のレヴィ=ストロースやフーコーとか結構好きなんですよ。思考の仕方がなんとも科学的で。ただ、彼らの流れを汲む、現代思想の結論が最終的に「価値は相対的」というポストモダン思想ってのが、おかしい!どっかで狂っちゃったんだと思います。

 そもそも科学だって「主体と客体は不可分だ」という近代以降の哲学と同じ結論に達しているんです。
 カオス理論、不確定性原理、量子の観測問題・・・科学のような哲学と、哲学のような科学がリンクしうるという、大変興味深い時代に生きていることに、私はワクワクしています。 
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