16.1831年9月5日 イギリス ロンドン

 「・・・君がチャールズ・ダーウィンかね?」

 測量軍艦「ビーグル号」艦長ロバート・フィッツロイは、乗組員面接にやってきたチャールズ・ダーウィンという22歳の青年の顔を見つめてこう思ったという。

 とてもじゃないけど、海の冒険に耐えられるタイプじゃない・・・

 ダーウィンは苦労知らずの良家のお坊ちゃん、百戦錬磨の艦長にはそう見えたに違いない。そしてその所見は正しかった。ダーウィンは著名な医師ロバート・ダーウィンの息子、またダーウィンの祖父は博物学者のエラスムス・ダーウィン・・・エラスムスはあのジョルジュ・ビュフォンの学説に影響を受け、生物は進化するのではないか?とかなり初期に考えていた学者のひとりだった。
 ダーウィン家はまごうことなき優秀なエリート一族であったが、肝心のチャールズ・ダーウィン自体は優等生タイプでは決してなかった、親泣かせのバカ息子と言うイメージの方が近い。

 チャールズ・ダーウィンは1809年生まれ。少年時代は植物や昆虫を集めることに没頭し、学校の語学の勉強を放棄。
 息子チャールズに法律家になってほしかった父は、勉強そっちのけで外で遊びまわる息子を見てそれを断念。

 語学の才能がないなら・・・と、今度は医学を学ばせたが、ダーウィンは医学にも興味がなく、外科のオペに立ち会った際にはあまりの恐怖に手術室から脱走。
 しかも自分の家が金持ちで、一生遊んで暮らせる財産がダーウィン家にあることを知ったダーウィンは「なら一生ニートでいいじゃん♪」と医学の勉強も投げ出した。

 そこで父は語学も医学もダメなら、次は牧師にさせようと息子をケンブリッジ大学に入学させる。しかしここでもダーウィンは牧師の道など進まず、植物学のジョン・ヘンズロー教授に心酔。ヘンズローの金魚のフンと言われたほど博物学に熱中した。
 そう考えるとダーウィンは少年時代からぶれていなかったと言える。つまりこの人ははなから生物学しかやりたくなかったんだと思う。

 このケンブリッジ時代にダーウィンはラマルクの著作や、祖父の『ズーノミア』を読みこみ動物について学んでいる。
 そして大好きな先生ヘンズローが勧めることはなんでもやった。彼がライエルの『地質学原理』にハマったのも、ヘンズローがこの本を紹介したからだし、なによりダーウィンがビーグル号に乗って航海の旅に出たのも、「今さあイギリス海軍の測量船ビーグル号が航海に同行する博物学者を募集してるんだけどダーウィン君やってみない?」と手紙でもちかけたからだ。
 この話にダーウィンは「やるやる~♪」と二つ返事だったが、父がそれに大反対。

 困ったダーウィンは母方の叔父ジョサイア・ウェッジウッドに相談。有名陶器ブランドの創始者であったジョサイアはダーウィンの父ロバートの説得を引き受け、晴れてダーウィンはビーグル号で旅に出ることを許可される。
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