作品は誰のものでもない

 作家主義とは簡単に言うと「作品とはそれを描いた作者のものだ」という意見。まあ著作権とか知的財産権とかを考えれば、当たり前っちゃ当たり前の話なんだけど、これが作品の解釈論にまで及ぶと作家主義は「作家→読み手」という一方通行的な表現の伝達モデルを想定していることになる。
 もう少し詳しく言うならば、作品を鑑賞する際において「作家の想定した読み方」がただひとつの正解であり、その正解からはずれた解釈は誤読ということになる。
 このテーゼは、「解釈の仕方は人それぞれだ」というポストモダン的な考え方の現代人にはなかなか受け入れられないと思う。なにより解釈の幅が狭まるので・・・面白くない。

 でもこのモデルは単純でとっても分かりやすいので、議論の出発点にはもってこいだと思う。というかここをまず押さえておかないと、芸術作品の鑑賞論はドチャメチャになると思うし。
 実を言うとこの作家主義的な解釈論は「時代遅れ」とか「間違っている」とかそういうものではないと思う。100%正しくないというだけで実はけっこう正しい。
 つまり基本的にはこのモデルで作品は読み手に伝達され、あとは読み手によって解釈に差ができると言うだけ。
 当たり前のことだけど、作品の解釈の背骨にはやっぱり作り手が思い描いた正解的なものがおぼろげながら存在していて(じゃなかったら作り手は何のために作品を作っているんだ??)、そのまわりに読み手の様々な解釈がグラデーションのように漂っている。そんな感じだと私は考えている。

 しかし、時に読み手が作品を深読みして作り手の正解的なものを凌ぐ解釈をする場合がある。これがあるから表現は面白い。
 で、こういう場合をどう考えるか?ってことになるんだけど、私なんかは作品を作り終えちゃったら、作品は作家のものではなくなるんだと思う。じゃあ読者のものか?っていうとそうでもない。もちろん出版社のものでもない。

 作品は作品のものになるのだと思う。

 ちょっと観念的だけど、自分の作品なんかをよく「我が子と同じです」って言う人いるじゃん。まさにそんな感じ。自分の子だけど、その子はもう自分の所有物ではない。いろんな人と出会い勝手に成長していく。それが子供で親の思い通りにはならない。

 なんでこんな話しているのかというと『ラストパーティ』を見たkenkoさんが

これまで読ませていただいた中でいちばん好きかも。
ゴーダイさん的にはあまり?気に入られてない作品なんですか?


 といった感想をコメントしてくれて、作品に対する作り手である自分の評価が見事に揺らいだからです。ぶっちゃけていえばkenkoさんのありがたいコメントで「あれ?そんなにできの悪い作品じゃなかったのかな?」と感化されてしまい、マロさんのコメントが極めつけになって「この作品は面白いぞ」と『ラストパーティ』に対する評価が180度変わってしまったのです。なんて単純な奴・・・
 じゃあなんで私が今までこの作品の出来がいまいちだったと評価していたかと言えば、編集者にボツを食らったからで結局これも人の意見。自分がないのか!?って感じですが、作品の面白さなんて読み手がいてナンボだから、読んだ人の意見を信じるしか作り手はできないんですよね。

 ならやっぱり作品は読者のものじゃん!って反論が来そうですが、それはちょっとだけ違う。さっきも言ったように、自分の作品は自分の子どもみたいなものだから、自分の子どもが通信簿で1をとってもそれは自分の成績じゃなくてあくまでも子供の成績だから、もはやそれは子どもの問題。
 よって『ラストパーティ』が没になったのは私のせいじゃない。あれは『ラストパーティ』のせい。逆に『ラストパーティ』が「面白い」と言われるのも私のおかげじゃない。『ラストパーティ』自身のおかげ。だって全く同じものを読ませて全く違う感想が返ってくるのだから。
 まあ少年漫画誌にあんな渋い話を持っていった私の責任もちょっとはあるけどね。これは男の子を女子高に進学させようとしたようなものである。

 まとめ:作品は誰のものでもない。作者は作品の親的存在。読者さんは作品の友だち的存在。我が子の交友関係を親がとやかく言うのはあまり教育上よくない。これが行き過ぎた作家主義です。
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