『職業としての科学』

 ぜえぜえ・・・こんな読み応えのある新書あっていいのか?

 著者は京都大学名誉教授の佐藤文隆さん。
 面白い。が、難しい。いや難しいってわけじゃない。情報量が多いから整理がしにくい。200ページくらいしかない本なのに、やっと109ページまで行ったって感じ。760円でめちゃめちゃ詰まってます。
 とりあえず第1章から面白かったところや知らなかったことを箇条書きにまとめてみますね。


第1章 転換期にある科学と言う制度
 この章では現代の日本の科学事情を振り返るとともに、これからの議論の伏線を張っている。あとちょっとだけ著者のスタンスを述べているが、かなり不十分で最後まで読んでのお楽しみにしている感じ。

 面白ポイント
・冷戦が終わって私たちの意識は「われわれ」から「わたくし」へ意識が変容し、従来の国民国家を危うくしている。また「わたくし」と公共の関係が希薄になり、知識の拡大、継承、進歩といった、近代的な価値観は魅力を失う可能性がある。

・1960年に大学を出た佐藤さんの時ですら研究者はリスキーで食えなかった。つまりサイエンスライターの竹内薫さんが指摘するような「学者は食えない」という状況は今に始まったことではない。

・その不安を突破するために思想としての科学や、知的世界を切り開く前衛論、知識人の使命など、生活次元を超えた、公共的で壮大な使命感で自己を充電する必要があった。
 理系ではないけれど、これと同じことをウチの教授も言っていました。昔の大学って今みたいに誰でも入れるようなものじゃなかったから、大学生は良くも悪くも特権階級的な意識があったようですね。

日本の研究者数は人口比で世界一!しかし研究者の増加に見合う安定的ポストは増えなかった。
 また日本と二位のアメリカは研究者数が増加しているものの、近代科学の老舗イギリス、フランス、ドイツは軒並み横ばい状態。
 現在70万人でさらに増加する日本の研究者はその内学校の教員数80~90万人を抜く。

・研究者を平均的に芸術家の巨匠のようにイメージするのは間違っている。職業としては芸術家よりもはるかに失望するリスクの低い職業。

・国家はこれからも科学の主なステークホルダー(利害関係者)であり続けるのだろうか?(問題提起)


第2章 知的自由としての科学
・ケンブリッジ大学のカレッジの中でもトリニティカレッジは格別だが、その誇りは著名な学者(ニュートン、エアリー、ド・モルガン、マクスウェル、トムソン、ラザフォード、ウィトゲンシュタインなど)を輩出しているからではなく、多くの王族、首相、大司教を卒業生にもつからである。

・化学者のラヴォアジェはフランス革命でギロチンにかけられた。

・19世紀半ばまで科学者と言う職業は存在しなかったが科学の発見はあった。科学者もいなければこんにちのような科学の制度も組織もなかった。

・佐藤さんが定義する「科学」とは知的自由を開花させる社会的仕組みを指す。

・佐藤的科学の第一段階・・・知的自由が無制限状態
・佐藤的科学の第二段階・・・同じものに興味がある人達が作る自主組織
・佐藤的科学の第三段階・・・産業や国家が専業の専門家を雇用する社会構造

・科学像の変遷
①一部の特権階級だけの科学・・・エリートやパトロンが科学クラブを運営。

②啓蒙主義的科学・・・科学が社会的な啓蒙を試みる。理性を重視。理神論に基づき、神の御業を探求する。

③ロマン主義的科学・・・科学が社会の表舞台に登場した市民層に広がる。市民による科学者の英雄視。すげ~かっこい~的な。科学者及び科学の大衆化。
啓蒙主義に対してロマン主義は感性を重視。

④科学者の中産階級化・・・身分の低い人でも天才科学者になれるというサクセスストーリー。ハーシェル、ヴォルタ、ファラデーなど。宗教的権威が科学のパトロンであることがうざくなった。

⑤科学知識が産業技術の世界へ導入・・・研究経費におけるケタ違いの増額。売上と科学が結びつく時代に。ここで科学は「純粋科学(理学的)」と「応用科学(工学的)」に分化する。

⑥国家が科学のステークホルダーに・・・万博の意地の張り合いによって科学はナショナリズムと結びつくように。科学教育の必要性。

・19世紀から科学の最先端が数学的な力学から、実験的な化学、電気、熱に移行。ドイツはイギリスに先んじて大学などに実験室を導入。イギリスもこれに続くが、社会のエリートを育てるというエリート意識を持つオックスブリッジはちょっと出遅れた。

・ウィリアム・ヒューエルが科学者(サイエンティスト)という言葉を考案。当時の科学者的仕事をやっていた人たちからは「歯医者(デンティスト)」と語感が似ていて不評だった。彼らは自然哲学者と呼ばれるのを好んだ。

・1869年「ネイチャー誌」創刊。今と違って半分広告の情報誌だった。

・科学を政府が支援するべきかどうか問題勃発。天文学者ジョージ・エアリーは反対。エアリーは「政府が科学を金銭的に支援しちゃうと、科学の研究はどんどん社会から離れて抽象的になっちゃう。だから社会的な有用性と結びついた方が、より健全な状態で維持されると思う」と言う主張をする。

・進化論のウォレスも「科学や技術は、政府が保護するのではなく、公開の自由な競争をさせた方がより大きな成果を生む」と反対した。

・ケルヴィンは科学に対する政府の支援について反対はしなかったが、研究と科学を分離すると実験器具を別に揃えなくてはいけないので資源が無駄になると主張した。

・教育と研究が完全に分離するのは20世紀に入ってから。


第3章 科学者精神とは
 第3章をひとことで言えばマッハVSプランク。

マックス・プランク
 講義が多くて研究時間が削られ大変だった。理工学的な講義を力学、流体力学、電気力学、光学、熱力学、分子運動論、熱、放射と教科分けしたのはなんとこの人。科学が社会から隔離される制度的科学を主張。
 物理学者は現代の為とか束の間の成功のために働いているのではなく“永遠の為に”働いているというスタンス。本質主義者。コンサマトリ―。芸術家気質。一般教育では問題解決におけるメンタリティを養え。

エルンスト・マッハ
 科学精神というメタ理論を提唱。歴史的、批判的精神を強調。これまでの科学の見解には「あんまり根拠がない」と、次々に根本的概念の欠陥を指摘=批判的実証主義。
 また経験主義的知識論者なので社会に積極的に関わり啓蒙を試みた。例えば科学を専攻していない学生にも科学精神を普及させようとした。科学精神で一般市民の力(アベレージ)を向上できる!と考えていた。
 物理学の目標は人間の思考を人間の身体的経験に適合させることであると主張。インストゥルメンタル。職人気質。一般教育では技術を養え。
 マッハはいかなる専門職の利益集団の代表でもない自由人で(アンチエスタブリッシュメント)、社会のエリートとしての自覚もあった。

・世紀の変わり目に「永遠の真理の探究」と言う科学観が揺らぐ。若者は「現実の代わりに理想を、事実の代わりに世界観を、認識の代わりに体験を、専門家の代わりに全人を、教師の代わりに指導者を」と救世主を求めていた。それに対するマックス・ヴェーバーの突っ込み→「日常へ帰れ」

・合理論と経験論
合理論・・・デカルト的。自然(外界)に基準を置く。眼前の世界の裏にある普遍性を探求。合理を支える実在を前提にする必要あり。=コギトエルゴスム

経験論・・・ベーコン的。人間(内界)に基準を置く。役に立つかどうかで科学を判断。実在を前提にする必要はない。イドラの虚像、反形而上学、反実在論、オッカムの剃刀。


第4章 制度科学のエートス
 第4章はそんなに長くない。一言で言えばポパーVSクーン。

カール・ポパー
 科学はそれを反証する現象が出てこなくなることで完成する。客観的実在性を主張。科学理論の実在論。
 ポパーの時代の科学=制度科学。革新精神としての科学ではなかった。それをふまえた上でポパーは科学者魂を体現する独立な個人の集団として制度科学が成立することを見ようとしていた。おそらく個々人の自由意思を支持していたんでしょうね。

トーマス・クーン
 人間の自由意思よりも人間同士の相互作用を重視。パラダイムシフトを提唱。科学理論の社会構成論。国家目標を意識していた冷戦の後にはクーンが思い描いた光景が現実に。制度科学全体がダイナミックに変容した。

・世間は制度科学を批判精神の集団とは見ず、ノーベル賞を目指して成功を競いあう才人の集団とみなすようになった。

ロバート・マートン
 科学者における4つエートス(習性、気風のこと)を提唱。公有性、普遍主義、私利私欲からの解放、系統的懐疑主義。
 科学における引用度調査(科学雑誌などでたくさん引用されているほどその研究業績の影響力は大きいという考え方)もマートンのアイディア。


 ・・・ええと、とりあえず今回はここまで。また停電時にゆっくり読み進めてみようと思います。この本ってなんか科学史版『ソフィーの世界』っぽいよな・・・
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