研究者と教育者

 本を崇高な学問としてではなく、娯楽として考えるならば、著者の主張は多少偏っていても切れ味のよい極論の方が面白い、と私は考えています。
 夏目房之介さんは『マンガ学への挑戦』166ページで、批評が時に客観的な検証性を犠牲にしている点について「批評には、そうした能天気な「うかつさ」や「ルーズさ」の面白さ、主観性、直観力の説得力が必要なところはたしかにある・・・」と述べています。

 もちろん学術論文を、このスタンスで書いちゃまずいですけど、私たち大衆はべつに学会とか関係のない生活をしているので、多少粗削りでも痛快な主張の本の方に惹かれてしまうのです。
 それはビートたけしさん、竹内薫さんや佐倉統さん、高校の頃読んだ小浜逸朗さんだったりするのですが、もう読んでてギャグ漫画のように笑っちゃう本の方がやっぱり楽しいわけです。

 それにどんな論文でも100%主観性を排除することなんてできないのだから、それなら腹くくって学会に波紋を投げかけ、書いた人が学界から追い出されるくらいの内容の論文を発表した方が、結果的にはいいと思います。
 それは地動説だったり、大陸移動説だったり、宇宙膨張説だったり、進化論だったりするわけで、これらの説って結局は発表当初は異端で、ダーウィンは『種の起源』を「これ今出したら絶対やばいよな~教会から絶対破門だよな~」とか迷ってて20年くらい経って出したという話もあります。

 また一般には、できるかぎり客観性を求めるあまりに感情移入の余地がなく(本当はあるけど)殺伐とした印象がある科学理論よりも、感覚に直接響く極論の方が受けがいいという、この考えは私たちは常に押さえておいた方がいいと思うんです。
 それは科学の形をした疑似科学に今なお一部の人が騙されたり、ヒトラ―の強引だけど切れ味のいい啓蒙をドイツの人は熱狂的に支持して、おそろしい虐殺をやってしまったわけで・・・

 そこで本題なのですが、大学の教授は「研究者」と「教育者」という二つの側面を持っています。これをごくごく普通にこなしているのが教授なのですけど、この二つの側面が、大きく違う性質のものであることは言うまでもないと思います。
 学会や専門家を相手にする研究者のスタンスとしては、私はラディカルに自分の主張を展開してもいいと思っています。学問の世界は学閥とかあるそうですけど(あれは学生から見ると嫌ですね)一応公平だと思うんで他人の空気読んだり下らないことやってないで、バシバシ痛快な論文や本を書いて楽しませてください。
 一方、なんだかんだ言って結局、教員に比べて社会的立場が下だとされている学生を相手にする教育者としては、私は中立客観な態度であるべきだと思っています。
 自分の意見をそこまで主張せず、学生の知識の産婆役に徹すると。

 例えば、学校の教員を経験している教授なんかは、論文はそこまでエキセントリックじゃなくても、やはり教育者として立場をわきまえた発言をする人が多いです。
 でも大学の教授って別に教員免許とかいらないんで、教育なんて学んでこなかった人が教授になると、まあ教育者としては最低、って人も出てきちゃいますね。もちろんほとんどは教育者としても優れた教授だと思いますけど。
 ただ、うちなんかは、芸術家気取りの人がそのまま教育現場で教員としてやってくるので、本当どうしようもない。我儘(じゃないと作家はやれない)な上に繊細だから、本当に対応に困るんですよね。
 よく「優れた選手=優れたコーチではない」って話がありますけど、本当は「選手として優れててコーチとしても優れている」って人が一番いいですよね。
 最悪なのが「優れた選手でもなければ、優れたコーチでもない」って人で、結局ここに該当する人が一番多いんじゃないですかね・・・
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