美術教育の二つの側面

 論文に先生の添削が入り、そもそも論文自体も100枚以上あって、なかなか仕事量が思っていた以上に多いです。
 私は自分の意見がモヤモヤしちゃって煮詰まると、数行書くのにも何時間もかかってしまうタイプで、「美術」という、言語表現とは基本的に無関係な視覚的表現による教育論を、文章化するのは、なんというか現場からどんどん乖離しちゃっているような気もして、空理空論を振りかざしているだけにならないだろうか、とかなり心配しています。
 図工や美術は学校にとりあえずあった方が楽しいんじゃないの?とあっけらかんに言う、周りの友人の意見の方が、私は現場を反映しているような気もします。
 人格陶冶?そんな小難しい理屈はいい。人生楽しきゃいいじゃん、みたいな。

 先生の添削でいくつか為になるものがあったので、少し紹介。
×「近い将来、初等教育に積極的に導入されていくであろう英語科・・・」(私の原文)
○「間もなく、初等教育に導入される外国語活動・・・」(先生の添削)
 えええ、もう小学校で英語やるのは確定なんですか!教育実習以降、学習指導要領の改定版とかほとんど読んでなかったんで、知りませんでした。

「美術教育は言うまでもなく「美術の教育」であるから・・・(略)「豊かな情操を育てる」という目標は、直接的には美術とは関係のない教育目標・・・」(私の原文)
「明らかな誤り。美術教育には「美術の教育」と「美術による教育」がある。この文は美術教育=美術の教育のいう前提での議論なので、その前提そのものを見直す必要あり。」(先生の指摘)

 つまり美術教育には、「美術の教育」と「美術による教育」が、(先生の言葉を借りるならば盾の両面のように)常に併存している、と。それを前提に議論を組み立て直さなければなりません。
 「美術の教育」と「美術による教育」ってなかなか微妙な表現なので、ここは先生が著書で用いた「エッセンシャリズム」と「コンテクスチャリズム」に置き換えた方が、むしろ明確に区別しやすいかもしれません。

「エッセンシャリズム」・・・美術活動の持つ他(の教科)には変えられない固有の意義や価値を強調する立場。造形や美術に対する知識や技能の習得を一義的な目的とする。

「コンテクスチャリズム」・・・美術教育が果たす社会的な役割や個人の人格形成に果たす役割を強調する立場。美術における付加価値的機能を重視。
(宮脇理監修『小学校図画工作科指導の研究』建帛社 2000年 より)

 美術教育の議論はこの二つの側面があることを前提とするならば、私はコンテクスチャリズムをスルーして議論を展開していたことになります。
 でも、このコンテクスチャリズムって学習指導要領を見れば、どの教科にも言えることなんで、それで割愛していたんです。
 美術教育の、学校教育における重要性や必要性を論じるならば、エッセンシャリズムを強調する方が説得力があるような・・・でも違うのか。「美術教育は場合によっては、他の教科よりも人格形成に果たす役割は大きいよ」ってストラテジーもあるのか。

 「しかし、もちろん美術による教育は=情操教育ではないので、文科省の考えのような、美術や図工の教育を情操教育に収斂させてしまう考え方がおかしいことは同感」(先生の指摘)
 なかなか微妙な問題なんですね。エッセンシャリズムとコンテクスチャリズムのバランスが重要なんですね。でも程よいバランスってどの程度なんだろう・・・

 私はコンテクスチャリズムはあくまでも美術教育の「付加価値」の話だから、とりあえずエッセンシャリズムをないがしろにしちゃいけないとは思いますが・・・さて、どう結論づけよう。
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