経済学覚え書き⑥

 ついにマクロ経済学編突入!!ミクロ経済学が個々の市場を分析していたのに対して、マクロ経済学は、政府、企業、家計・・・と、一つの国の経済全体を考える。とはいえ国家はほかの国と貿易しているので、とどのつまり世界経済にまで話は広がってしまう。
 言ってみれば、マクロ経済学とは国家経済、世界経済の処方箋を書いてやることであり、その対処法の仕方は言うまでもなく医者(経済学者)によって異なる。そんなわけで今回は、マクロ経済学の歴史をおさらいしてみよう。

18世紀:重商主義から市場主義へ

アダム・スミス(古典派経済学)
 今じゃ古典派って言われちゃっているけれど、アダム・スミスはイエッス近代経済学の父。
 この人はもともとは経済学じゃなくて、サンデル教授のように政治哲学や道徳の先生だった。そこで、世の中こんなにも自分勝手で利己的な奴ばっかなのに、なんで案外社会がうまくいってるんだろう?という疑問を抱き、意外と自分の利益だけ考えても、その行動が他者にとって許されているならば結果的に秩序ができるんじゃないの?ということを考えた(『道徳感情論』)。
 その後、『国富論』(1776年)で本格的に経済問題に切り込み、富とは金銀財宝ではなく、絶えず消費されるもの(消費財)であると定義した。つまり、経済学覚え書き①でちょっとだけふれたけど、アダム・スミスは当時の重商主義を批判したわけ。
 重商主義っていうのは、産業革命の前までヨーロッパで一般的だった考え方で、国家がモノを輸出して、その代金として他の国から貴金属を受け取り、その量を増やしていけば国家は豊かになるという考え方だ。つまり、重商主義において輸入なんてもんはあっちゃいけない、極力やらずに越したことはないものになる。国内の貴金属が減っちゃうからね。
 これに対してアダム・スミスは輸入でも国は豊かになるよと説いたわけ。そしていろんな国と積極的に自由貿易をすることで、強い産業に労働力や資本が流れていくようになり、それが結局のところ、国全体を豊かにする冴えたやり方なんだと考えた。市場の価格メカニズムに任せればうまくいくということ。
 変に政府が市場に介入すると、例えば財政政策で国債を発行すると、市中の金利は上がって(国債をみんなに買ってもらえるように政府が金利を上げるから)、かえってお金が借りにくくなり民間の消費や投資は落ち込む可能性だってある(クラウディングアウト)。
 だから、政府は国防と、司法行政、あと公共施設やサービス(社会資本)だけやって、あとは自由に任せたほうがいいというレッセフェール、小さな政府を論じた。
 ただし、これまで見てきたように、市場任せにはいろいろ問題点もある。例えば、独占や、外部効果、そして情報の非対称性によるグレシャムの法則だ。

19世紀:資本主義の完成と搾取

アルフレッド・マーシャル(新古典学派)
 経済学という学問を確立させた巨匠で、ケインズとピグー税のピグーの師匠でもある(いろんな人にめっちゃ慕われていた)。ミクロ経済学の黄金の十字架、需要供給曲線を引いたのはこの人。価格弾力性の理論もそうだし、貨幣発行量と名目GDP(物価変動を考えないGDP)の割合を示す係数kはマーシャルのkと言われている。
 アダム・スミス同様、この人も政治哲学出身で、功利主義のJSミルや、比較生産費説のリカードを研究しながら経済に入った。彼のモットー「経済学者に必要なのは冷静な頭脳と温かい心」は名言として有名。

カール・マルクス(マルクス経済学)
 アダム・スミスの考え方を増補したのがマーシャルならば、徹底的にその利己主義を批判したのが同志マルクス兄弟。プロシア帝国出身で、産業革命と資本主義で悲惨な状況になった労働者の現状を問題視し、共産主義運動を開始。当局にいろいろ狙われて、最終的にイギリスに亡命。大英博物館の図書館で『資本論』の第一巻を執筆する。
 面白いのは、マルクスがこの本を集中して執筆できるようにエンゲルスが金銭的に支援してくれたこと。さらにエンゲルスは、マイクル・クライトンにおけるリチャード・プレストンのように、マルクスの死後、未完になっちゃった『資本論』2巻と3巻の残りを書いて完成させている。近年稀に見る美談である。
 世の中はレイバーやワーカーの尊い労働によって富や財産が生まれているが(労働価値説)、雇用主はその利益をさらに上げるため、低賃金で長時間労働者を酷使し、その労働力を搾取するようになる。それがエスカレートすると、とうとう労働者の堪忍袋の緒が切れて、革命が起きて資本主義は崩壊する。そんなアルマゲドン的な筋書きは、ヨーロッパの宗教観に見事にマッチしめちゃくちゃ流行った。
 当時の現代思想の論壇では、このマルクス主義(歴史によって社会は決まっていく)の是非が争われた。言ってみれば、マルクス主義はすごい客観的かつ科学的(進歩主義的)で、このような味気ないものの見方を唯物史観という。これを補うのが実存主義だ、と言ったのが、あのサルトル。
 マルクスは、モノには使用価値と交換価値の二つがあるとして、その価値の基本的な尺度になるのが、そのモノを作るのにどれくらいの労働量を投下したかなんじゃないかと考えた。
 そして、資本家が大儲けしていくという実態は、労働者をその給料以上に働かせている、つまり労働者の機会費用をあこぎなまでに搾取しているんじゃないかと批判した。例えば給料据え置きで労働時間を増やすと(剰余労働の追加)、それがそのまま利益の増加になる。これを絶対的剰余価値という。
 また、給料を出さなきゃいけない必要労働時間を下げて、剰余労働時間を相対的に上げても剰余価値は発生する、サービス残業的な。これを相対的剰余価値という。これを達成するためには技術を向上させて(設備投資など)、同じ時間にさらに多くの製品が作れるようにさせればいい。つまりスピードアップ。もしくは労働者の給料をカットする。
 まあ、こんなことを繰り返していたら過剰労働人口が増えるわけで(産業技術の進歩による労働者余り=失業者増加)、労働者と資本家の経済格差はますます広がっていく。資本主義の末路はこんなものよ、とマルクスは考えた。
 ただその代案として考えた計画経済も、あまりに効率が悪く(消費者のニーズに合わせて生産ができないから無駄が多い)、社会主義国家は行き詰まってしまった。ちなみにマルクスが考えた社会の最終形態、共産主義は物質的に豊かになりすぎて国境もなくなったユートピア世界だった。SFじゃないけれど、そんな世界はいつか来るのだろうか。

20世紀前半:市場主義から設計主義へ

ジョン・メイナード・ケインズ(ケインズ経済学)
 供給量によって需要が決まるというセイの法則というのがある。つまりメーカーが作りすぎたら価格メカニズムによって値段が下がるので、それに応じて需要が増えるというやつだ。しかし、この価格メカニズムが働かず売れ残りが膨大に出てしまったことがある。それが世界恐慌だ。この状況に対して、実際には需要によって供給が決まるんじゃないの?と考えたのが、マクロ経済学の父と言われるケインズだ。
 世界恐慌以前は各国は均衡財政政策をとっており、政府の支出は全て税金でまかなわれていた。つまり税収が落ちると政府の財源はそれだけなくなり、どうにもならなくなってしまう。そんな状態で世界恐慌が起きたわけで、社会はめちゃくちゃ。そこで、支出を切り詰めるしかなく、失業問題(失業は失業しちゃう労働者=自発的労働者のせいだと考えられていた。対義語は非自発的失業者で働きたくても働けない人)に何も手を打てなかった政府に、赤字国債を発行して、借金でとりあえず需要を増やそうよ、アドバイスをしたのがケインズなのだ。
 彼の考え方は修正資本主義とも言われ、その業績は数え切れない。ケインズは、第一次世界大戦のパリ講和会議にも参加、敗戦国ドイツの処分があまりにも無慈悲(GDPの三倍の賠償金なんかドイツは払えねえ)だということで警告を発したが、ロイド・ジョージ首相には聞き入れてもらえなかった。結局、このベルサイユ体制は第二次世界大戦の勃発という最悪の結果で崩壊するが、皮肉にも戦争でもGDPや需要は増えるし失業もなくなるよ、というケインズの理論が証明されることになった(ヒトラーのアウトバーン建造もそれ)。
 第二次世界大戦では、ケインズが唱えた政府による経済介入をルーズベルト大統領がニューディール政策として実施し、社会保障が先進国で充実するようになった。
 ケインズは企業の投資行動を、将来への希望とアニマルスピリットで説明。投資(需要)は、現在の金利よりも、今後の経済の先行きが重要なんじゃないか、と考え、いくら金利を下げても有効需要(実際に供給でまかなえる需要のこと)が増えないという、金融政策が意味をなさない状態を流動性の罠と名付けた。
 似たような話で、リカード仮説(減税政策はどうせ一時的なんじゃないの?と国民が判断することで、貯蓄が消費に回らないという仮説)というのもある。

20世紀後半~現代:どうする財政赤字

フリードリヒ・ハイエク(オーストリア学派)
 ケインズの最大の問題点は財政赤字が雪だるま式に大きくなってしまうということだ。ケインズの予想では、政府は財政が黒字に転化したら、赤字国債を国民に返済するはずだったのだが、政治家も人間。踏み倒すのが人情とばかりに、将来世代にツケを残してしまった。オレそんときには死んじゃってるもんね~みたいな。
 アメリカではケインズの考え方で60年代あたり(ケネディ大統領あたり)まで黄金時代を築いていたが、カーター大統領になると、歯止めが効かない需要とインフレが深刻になり、いい加減この方法ヤバイんじゃないかってなり、最悪のスタグフレーションになってしまう。ホワイトハウスの生中継で、ちょっと無駄遣い何とかしてくれない?と国民に呼びかけたが、次の選挙で企業の広告塔として活躍した俳優、ロナルド・レーガンが大統領に当選し、新古典学派、マネタリズムが巻き返すことになる。
 つまりケインズの方法の副作用が顕在化してきたのだ。このケインズの論敵だったのがハイエクだ。ハイエクはケインズが考えた累進課税制度を批判。フラット税制を支持。リアルな世界は人間の想像以上に複雑で単純な数式で表せるものではないと、警鐘を鳴らした。
 金融機関の需給バランスで決まる貨幣利子率が、投資と貯蓄を均衡させる自然利子率を下回る場合、投資が超過しバブルが発生、そのあと需要(投資)に生産が追いつかず反動で弾けてしまうと考えた。
 よって、市場に政府は極力介入せずに、通貨供給量の安定に専念するべきだというリバタリアニズムが広まっていくことになった。ただ後のフリードマンほど、なんでも自由でOKというわけではなく、銃火器みたいな危ないものは社会が規制したほうがいいと考えていた。
 つまり、人間の理性や合理主義をそこまで信じてはおらず、頭がいくらいいヤツでも限界はある、だったら市場の当事者に任せた方が一番いいんじゃないか、という消去法で市場の自由(規制緩和)を主張したのだ。この考えはマルクスを殺したとも言われ、イギリスのサッチャー(や多分安倍さん)などに大いに影響を与えることになる。

ヨーゼフ・シュンペーター(オーストリア学派)
 進化論で「赤の女王仮説」というものがある。生物は絶えず進化していかないと生存競争で負けて淘汰されてしまう。つまり自然界とはいわば、ランニングマシーンであり、同じ位置にとどまるためには常に走り続けなくてはならない。これと同じことを国家財政において論じたのが、経済成長理論の提唱者シュンペーターだ。
 つまり古典的な見方では市場の均衡は富の最適配分状態であると考えるが、シュンペーターによればそれは宇宙の熱的死と一緒で、なんの利益ももたらさない停滞状態にほかならない。だからこそ企業は常にイノベーションによって破壊と創造を繰り返す必要がある。
 この技術革新の重要性(内生的成長理論)は現在の経済学でとりわけ重要視されているものである。なぜならば、現在の先進国では資本がいくら投入されてもGDPは伸び悩んでしまうのだ。こうなると、どう考えても高度経済成長期のようなGDPの飛躍は望めない。その原因の半分以上が、実は技術革新が頭打ちになっていることだと考えられている(ソーローモデル)。
 オバマ大統領はこれを受けて、グリーンニューディール政策を試みたが、その結果は芳しくない。池上彰さんによれば、エコビジネスはまだ市場が小さく、そのため雇用が生み出せないでいると指摘している。中長期的には意味があるのだが、短期的な効果は出にくいのだ(技術開発はとにかく固定費用が高い)。
 また、経済が停滞してしまった先進国は、優秀な人材を開拓の余地がある(パレート非効率状態)の開発途上国に送ったほうが最終的にはいいんじゃないか、そしてマルクスの考え方って実は案外正しくて、資本主義があまりにエスカレートするとやっぱり社会主義に移っちゃうよ、など様々な提言をした。
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