政治学覚え書き③(社会契約説)

 経済学ばっかりまとめていて政治学が片手落ちだったんで、もういっちょ投入。今回は大学のレポート課題と重なった部分、国家と権力構造の問題を。

ポリス的国家観
古代ギリシャの哲学者アリストテレスが主張。都市国家ポリスとは、自然的共同体である。どういうことかというと、人間は生まれつき個人を超えた共同生活に向かう習性があるポリス的動物(ゾーン・ポリティコン)で、そういう意味でミツバチやアリと変わらない。集団生活によって初めて生存を確保できるのだ。
人間はほかの動物とは違って、言語と理性があって、善や不正を判断でき、たまたま生まれた共同体に埋没することはせず、共通善を共有する仲間を生活しようとする。これがポリスであるというわけだ。
政治共同体と個人は切っても切り離せないものであり、この考え方をコミュニタリア二ズムという。私もどっちかというとこの考え方。構造主義的だよね。
人が法やルールに従うのは強制されたり、制裁を恐れるからではなく、自発的自律的に秩序や相互支配の構造ができていく。
ただ理性的じゃない人に対しては、かなり排他的で、そういう人には一方支配が必要とした点で、さすが奴隷制度があった時代だなあとは思う。これは後の古代ローマにも受け継がれていた。

権力国家観
アリストテレスは甘い!人間はもっと利己的で自分勝手、秩序を維持するためには暴力で屈服させるしかない!という拳王ラオウみたいなリアリスト的な考え方が権力国家観。
ルネサンス期のフィレンツェで外交官をしていたマキャベリが『君主論』で提唱した。
王は国民から愛されるよりも恐れられるべきで、ほかの国の王に対しては誠実に接することは無益。「キツネの狡猾さとライオンの獰猛さ」が大切。
つまり、手段の善悪は国家の秩序維持に役立つかで判断せよというわけ。したがって一見反道徳的で無慈悲な手段も、秩序の維持のためならためらわず行うべきだという。これを国家理性という。
また、それを実現するためには、当時主流だった傭兵よりも、当事者に直属する親衛隊みたいな軍隊のほうがいいとマキャベリは考えた。
社会学者の重鎮マックス・ヴェーバーは、その暴力行使が被支配側から見て「正統(しょうがない)」と思われなければ、その支配は正当化されず秩序は安定しないとした。
また、国家は暴力装置を独占的に有している以上、責任倫理があると述べた。

社会契約説①ホッブス
社会契約説とは、国家は各個人が社会秩序を維持するために「契約」によって人工的に作り出した組織であるという考え方。人工的という点で、ゾーン・ポリティコンのアリストテレスとは異なる。
ホッブスは『リヴァイアサン』で国家がない状態(自然状態)を仮定して、人間はどのように振舞うのかを思考実験した。すると人間は自分の生存だけを考え、互いに争ってしまう。殺られる前に殺るという、このアウトレイジを「万人の万人に対する戦い」と言う。
しかし、マキャベリ以上にリアリストなホッブスは、これは決しておかしなことではなく、自然状態で自分のために戦うのは当たり前の権利(自然権)でしょ、と考える。
とはいえ、こんなアナーキーな状態じゃやってられないし、人間には死の恐怖というのがあるから、アウトレイジは次の段階に発展する。人々は、暴力的な死から逃れて平和を望むという点において利害が一致し、じゃあ平和のために自然権に制限をかけようという「自然法」が合意に基づいてできる。
そして、ルールを違反した人を平和希求の義務に引き戻すための第三の権力が必要になってくる。これが主権権力(リヴァイアサン)と言うわけだ。
この主権者はいわばみんなの代理人であり、合意によって一度契約を結んだら、その絶対的な代理人にすべてを委ねなくてはならない。
全ての人間は、自分勝手で自由という点で平等という、前提から社会契約を導き出した点がホッブスの斬新な点だったという。

社会契約説②ロック
ホッブスの考えた思考実験はロックに受け継がれるが、ホッブスの結論が、国民は代理人に絶対服従としたのに対し、ロックは自由主義的な政府を設立する必然性の論拠として用いた。
ロックは自然法ができても自然権(自由)は維持されるべきであると考えた。
そしてロックが考えた自然法とは、ほかの人の生命、自由、そして所有権を侵害してはいけないというものだった。つまり、ホッブスのシミュレーションは非協調的なゼロサムゲームだったが、ロックが考えたのは、ほかの人の利益と自分の利益を同時に考えて行動することは可能だ、としている。
ロックは、市民革命による残虐な殺し合いを目の当たりにしたホッブスと違って、ある程度市民社会が落ち着いた時に出てきた学者だ。だから、人間は自然状態ではけっこう平和と考えたのだ(リベラリズム)。
ただ、自然状態における自然法の解釈は人によって異なるため、細かな争いが頻発するのを防ぐために、立法と行政を政府に一元化したほうがいいとしたのだ(各人の権利を政府に信託)。これは自然権そのものの放棄ではなく、政府が自然法を保証してくれる限り、代理人を任せるよというものだった。つまり、政府が契約を破ったら、国民はいつでも抵抗したり革命を起こす権利があるということだ。したがってロックの理論では、契約後も依頼人は代理人のコントロールが可能なのだ。

社会契約説③ルソー
自然状態をホッブスよりもさらに理想的なものと考えたのがこの人。自然状態では個人は完全に平等(ホッブス的)で、かつ平和だった(ロック的)。
しかしロックが自然権と主張した私有財産権を認めると、ビジネスが上手い奴がどんどん利益を増やし、不平等な経済格差が発生してしまう。
そのためには個人は、ひとそれぞれの主観(特殊意志。集まると全体意志)ではなく、社会みんなの利益を考える一般意志を持ち、その一般意志(正しい世論)で政府を動かすべきだとした。
つまり政府は一般意志の代理人ではなく、一般意志の公僕と考えた。となればわかるように、ルソーは代表制民主主義よりもギリシャのような直接民主制の方がよいとしていたのだ。
これは、強い共同体意識(公共精神)で結ばれた上で、強い主体性を持つ個人を前提としている。しかし、みんなそこまで強いのだろうか。
例えば、経済学者のシュンペーターは、直接民主制にこだわるルソーに対して、大多数の人はそんな国家レベルの問題に興味を持って生きてないし、そういった有権者に公共の利益に合致する決定を、合意によって導くのはそもそも不可能だと批判した。
シュンペーターは、民主主義を一種の市場になぞらえ、政治家は企業、有権者は消費者であり、したがってそれぞれの政治家は、有権者を支持を勝ち取るための厳しい競争に勝たなければならない、と論じた。さすが経済学者。この場合、民主社会という市場を能動的に支配するのは政治家ということになる。

ヴェーバーの正当性論
近代国家は正統的に暴力行使を独占していると考えたヴェーバーは、そのアプローチの仕方を三つに分類した。
①伝統的支配
伝統によって権威づけられたモノに対する日常的信念に基づく支配と服従。家長制度など。
②合法的支配
合理的な法律や命令権に基づく支配と服従。指導者の人格ではなく、合理的な秩序に対して服従する。官僚制など。
③カリスマ的支配
ある個人に備わった非日常的なカリスマがもっている権威に服従する。預言者や扇動者、人民投票に基づく政治指導者など。
この人の慎重な点は、あくまでも支配されている方が「正当だよ」と思っている信念の部分に着目し、その内容に立ち入らなかったこと(事実と価値の分離)。
ただ、この形式的、手続き的合理性(目的合理性)の側面に基づいたヴェーバーの正当性論は後に、ニヒルすぎて空疎と言われるようになってしまう。
ちなみにヴェーバーは、社会の合理化が進むと官僚が重要な役割を担い、議会の地位は相対的に低下すると考えている。
とはいえ、党派性を持たず、上司の命令に忠実な官僚が政治の主役になることに、ヴェーバーは強い危機感を抱き、官僚たちは強いカリスマ性と責任感のある政治家に率いられるべきであると考えた(エリート主義的民主主義)。

ハーバーマスの正当性論
ドイツの社会哲学者ハーバーマスは正当性論に規範的内容を取り上げた。
しかしオッカムのカミソリのように、超越的ドグマ(神、自然法、普遍的人権、歴史の必然など)を自分の論に持ち込むことはヴェーバー同様に避けた。
ハーバーマスは、手続きそのものをより厳密に考えることで、手続き的正義を立証しようと試み、誰もが支配からの自由を表明できる原理的発話状況を備えていることが正当な支配の条件であるとした。
しかし、この考え方は、そんな原理的発話状況なるものが現実に存在するのか?また理性的な討議を尽くせば必ず何らかの合意は生まれるのだろうか?といった批判がなされた。
そのためのひとつのアイディアとして、政治家の市民に対する説明責任(アカウンタビリティ)がある。
このような考え方を討議民主主義と言い、90年代以降、情報公開の考え方などと共に盛り上がりを見せた。

ルーマンのシステム論的正当性論
ハーバーマスの正当性論批判の急先鋒が社会学者のニクラス・ルーマンで、何らかの手続きによる決定がなされるとき、当事者の利害関係や心情とはまったく無関係に、政治システムの自己正当化プロセスに従って自動的に承認されるとき、はじめて社会秩序は安定するとした。
人情絡めていたら政治はできねえ!
ルーマンは近代の実定法(その時代その社会によってのみ効果がある人為的な法律。慣習や判例や成文法がこれにあたる⇔自然法)が最も完成度の高い正当性の調達システムだとみなす。
ただ、このルーマンの考え方も議会制民主主義をあまりにも肯定的に考えていないか、と批判が投げかけられている。通常の意思決定システムによる政策に反対するデモやストライキが議論から除外されている、というわけだ。
このハーバーマスとルーマンの論争は西ドイツにおいて、現代自由民主主義体制の正統性をめぐる議論を活発化させた(ハーバーマスもルーマンもどちらもドイツの人)。
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