政治学覚え書き⑤(政治哲学)

 まだまだまだまだ覚えなきゃいけないことはたくさん!ひい

功利主義①ベンサム
 みんなの快楽や幸福の合計値を最大化(=苦痛や不幸の合計値を最小化)することが善であるという考え方。18世紀のイギリスの哲学者ベンサムが完成。
 いわゆる「最大多数の最大幸福」ってやつで、人々が政府の権威に従うのは、政府に服従して得られる功利が、政府に従わないことによって得られる功利よりも、多いからであって、政府は、国民の欲求をできる限り正確に計算し、その増大を目指せば正統性の基盤は強くなるとした。
 これはJSミルによってパワーアップし、新古典経済学を支える根本的な考え方になった(人間は幸福を求めて、不幸を回避する、合理的な存在であるという前提が共通)。
 ゲーム理論のパレート最適をふまえて展開された厚生経済学は、実際の社会政策に対する功利主義の反映と言える。
 ベンサムの功利主義の問題点は、なにかトラブルが起きたとき、幸福度の合計が大きい方が正しいと考えちゃうので、こいつを犠牲にすれば、他の多数の人が助かるならいいやってなりやすいことと、そもそも数学的に個人の幸福って単純計算できるのか?というところ。
 経済学的には、GDPさえ上がれば、格差社会でも別にいいのかって話で、結果オーライなら、過程や手続きに不正があってもいいのだろうか、という問題がある。

功利主義②ミル
 この問題点をなんとか改善しようとしたのが『自由論』のミル。ミルは、何を持って幸福と感じるかは人それぞれで(質的差異)、一元的に単純計算はできないとした。
 ベンサムの効用の原理(幸福最大化)は、その場その場の問題で用いるのではなく、もっと長期的な目標にせよというわけ。例えば、現時点の社会情勢では朝鮮や中国を差別したほうが、日本にいるたくさんの差別主義者の幸福が上がるかもしれないが、それは長期的に見ると絶対に国家の幸福度を下げちゃうぜっていう。
 また、お馴染みの多数決も、時間が経てば少数派の意見の方が「正しいんじゃない?」ってみんなの考え方が変わってくる可能性だってある。
 ミルは、自由の定義を、人に実害を与えない限りは何をしても自由(ドラッグやって体がボロボロになるのもOK)と考えた。でも、ヤク中になっちゃったらその家族には実害があるんじゃないのか(^_^;)
 さらに、政治権力だけでなく、世論や慣習すら個人の自由の対立物になることに注目した。明治時代には中村正直という幕臣が、イギリスに留学し『自由論』を翻訳、個人主義道徳を伝えた。中江兆民が東洋のルソーなら、オレは東洋のミルだぜ!って(多分言ってない)。

 さて、ミルの名言で

 満足した豚であるよりも不満足な人間である方がよく、満足した愚か者であるよりかは不満足なソクラテスであるほうがよい。そして、愚か者や豚の意見がこれと異なるなら、それは彼らがこの問題について自分自身の側しか知らないからだ。(『これからの正義の話をしよう』75ページ)

 というのがあるけれど、例えばシェイクスピアと萌えアニメのどちらが質の高い快楽かどうかを判定するためには、どっちも経験した人たちに多数決を取らせればいいんじゃない?と、ミルは考える。したがって、道徳を支えているものは崇高な理念ではなくて、人々の欲求ということになる。って、そんな単純に比較できたら、多分ネットはこんなに荒れてない!

カントの目的論批判
 こういった結果オーライの功利主義を批判したのが、オレたちのカント先生。カントは18世紀のドイツ観念論の創始者。
 カントは「何をなすべきか」という道徳的な判断は「何がなされたか」という事実からは導き出せないとした、その道徳的判断は、固有の普遍的原則に基づくとした。
 これをカントは定言命法と呼び、「人間としての義務であるがゆえにやりなさい」という無条件の絶対命令の形になる。逆に「将来の幸せを考えるなら今のうちに頑張りなさい」みたいな条件付きの命令は仮言命法と言う。
 結果が良かったんだから道徳的にも良かったんだよという池田信夫的考えは、カントからしてみれば言語道断、道徳的判断に値しない。全ての人は、目的を達成するための手段として扱われてはならないのだ。

 カントといえば三批判書だけど、過去問ですごいわかりやすく命題が整理してあったので、ここでパク・・・引用する。
『純粋理性批判』・・・人間は何を知りうるか
『実践理性批判』・・・人間は何をなすべきか
『判断力批判』・・・人間は何を願いうるか

ヘーゲルの弁証法
 カントが始めたドイツ観念論を大成した人物として知られる。
 ヘーゲルは法は、社会秩序を維持し、自由を保障するが、客観的かつ抽象的で、個人の内面を軽視しやすく、一方、道徳は個人の主観的な側面が強く、全体への働きかけが乏しいとして、その法と道徳の矛盾を解決することが望まれると考えた。
 この法と道徳がうまい具合で一致したものが人倫で、言ってみれば、個人の道徳がいい感じに社会にコミットしている状態を指す。人倫は、家族→市民社会→国家とその領域を段階的に拡張し、その欠点を克服していく。
 例えば、家族は、愛はあるけど個人の独立性は自覚されない。やがて子どもは自立すると市民社会に参加するが、市民社会は独立した個人が自分の利害を追求する欲望の体系であり、これは人倫の喪失状態である。
 よって国家こそが家族と市民社会がうまく統合された最高の共同体で、国家では個人の独立が保障されるとともに(家族の短所)、平等に扱われ(市民社会の短所)、個人は国家の一員として真の自由を獲得するのだ・・・!ってヘーゲルは考えた。
 と、こんな感じで、ヘーゲルは二つの異なる考え方が対立していて(テーゼとアンチテーゼ)、それを統合することによって(ジンテーゼ)お互いの長所が生かされ、短所が相殺できるよというストーリー展開が好きらしい。これこそヘーゲル名物、正反合の弁証法だ。
 ちなみに、マルクス兄弟は、ヘーゲルが国家と市民社会を分離して語ったのは評価している。でも市民社会の問題点を克服するために国家こそが最高の共同体のあり方だっていう結論は違うんじゃない?って考えたわけだ。

ロールズの正義論
 カントの功利主義批判を受けて、功利主義に毒された第二次世界大戦後のアメリカを批判したのがジョン・ロールズだ。
 ミルが論じたように、ロールズは何を幸せと感じるかなんて人それぞれなんだから、何が善であるかは個人の完全に自由な判断に任せればいいとした。
 功利主義は、一見みんなが自由に自分の利益を目指しているように見えるけれど、実際は社会全体の利益追求という目標の手段にされちゃっていると考えた(目的論)。さすがカントをリスペクトしただけあるぜ。
 正義を善に優先させるという、ロールズの正義論は独特で、正義とはウルトラマンとかジャッジドレッドじゃなくて、個人と個人の正しい関係という意味だ。この正しい関係さえできれば、その枠組みの中で個人は自由に幸福を追求できるとした(義務論)。
 このロールズの正義には二つの原理があって、みんなが同等の権利(基本的自由)を持つべきであるという、平等な自由の原理(正義の第一原理)と、社会的・経済的不平等の問題に関わる、二つの原理だ(正義の第二原理)。
 てめーじゃあ三大原理じゃねえか!って気がするけど、ここは我慢して、正義の第二原理の中の二つの原理を見ていこう。

正義の第二原理①格差原理
 社会的弱者の最大の便益になるなら、格差はOKという原理。例えば医者や弁護士みたいな専門職は、たくさんの人の弱い人を助けているから人よりも多少は多くの報酬をもらってもいい。
生まれながらに優れた才能を持っている人は、それを持っていない人のために、その才能を活かせというもの。
 つまり、ロールズに言わせれば、天性の才能はその人の所有物じゃなくて、社会のものということになる。

正義の第二原理②機会均等原理
 これは、人よりも多くのギャラをもらう仕事がどんな人でも頑張ればなれるように開かれていればOKという原理。

 ちょっと込み入ってくるけれど、この正義の原則を公正な手続きに基づいて市民が選ぶには、自分が今置かれている地位や立場、そして才能や性格を一切捨てて、みんな平等のレベル1に戻さないといけない。こういった原初状態をロールズは無知のヴェールと名づけ、無知なヴェールの中ではプレイヤーは最悪の事態を想定し、利益の最大化よりもリスクの最小化を選択すると考えた(マキシミンルール)。この思考実験は、ロックの社会契約説(リベラリズム)を踏まえている。

ラスウェルの権力概念
 ハロルド・ラスウェルはシカゴ学派の大物政治学者。処女作『世界大戦における宣伝技術』で戦時中のプロパガンダを研究。社会主義革命やファシズムからアメリカの民主主義をどうやって守るかを考えるため権力の分析を行なった。具体的には権力の腐敗の原因を解明し、民主主義の実現のために権力を変え利用すべきだと考えた。毒を持って毒を制す的な。
 ラスウェルによれば権力とは「ある行為のタイプに違反すれば、その結果、重大な価値剥奪が期待されるような関係」であると定義される。つまりXがYの持つ価値を剥奪することによって、ある行為を行わせる場合、XがYに権力を行使したことになる。この概念によって、司法、立法、行政といった制度的権力以外にも、圧力団体、企業、労働組合といった様々な社会関係における権力が考察の対象として扱えるようになった。
 さらに権力の獲得に専心する人間は、その「私的動機を、公の目標に転位し、公共の利益の名において合理化する」。そしてそのような人間は、官僚型や扇動家型などいくつかに類型化されるという。
 ラスウェルの権力概念の特徴的な点は、権力追求者は先天的に形成されるのではなく、その人が若い頃に影響を受けた文化・社会的環境によって形成されると考える点である。言い換えれば、社会環境さえ操作すれば、人間の政治的な人格は大きく変えられるということになる。この考え方はいくら民主主義のためだとは言えけっこう洗脳スレスレで、アメリカの民主主義が東側陣営のイデオロギーによって危機を迎えていた当時の世相を大きく反映している。

ルークスの権力論
 アメリカ政治学で扱われてきた権力論の分類を試みたのがイギリスの社会学者スティーブン・ルークスだ。

一次元的権力観
 アクター(行為主体)同士の主観的な利害をめぐる、観察可能な対立や紛争が存在するというダールの考え方がここに分類される。アクターの行動に焦点を当てている。
 ロバート・ダールは権力を「AがBに働きかけなかったら、BはCをしなかったと仮定できるとき、AはBに権力を使った」と定義した人だ。
 こういった観察可能な権力、例えばデモ隊に警官が暴行みたいなのは、明示的権力と言う。

二次元的権力観
 これは、バクラックとバラッツが考えた、潜在的な争点の顕在化を阻止するために決定が回避されるタイプの権力観だ。
 つまり非決定というかたちでも権力は行使されるという権力行使に焦点を合わせた議論。
 これもダールの権力観同様、観察可能な対立や紛争の存在が前提となっている。

三次元的権力観
 ルークス自身の権力論がこれ。本来ならば争点化されるであろう問題が制度的に隠蔽され、決定から排除された人の利害が表沙汰にならない上に、意識されることもないという、一番厄介な権力(^_^;)
 これを目に見えない権力という意味で、黙示的権力という。
 この権力は、客観的観察者からしてみれば、みんな著しく損をしているのに、当人はとっても満足という状況を作り出す。
 しかし、この権力も(真の利益や客観的利益がわからないものの)誰かが誰かを巧みにコントロールするという点では、行為主体(黒幕)がいるわけだ。

フーコーの権力論
 最後に、ルークスの三次元的権力観をさらに掘り下げ、全国の教育関係者に衝撃を与えたフーコーをご紹介。
 フーコーの権力は、目に見えない構造が生み出したものなんじゃないか、という点で、恐るべきことにコントロールする主体すら、そこには存在しない。
 ずいぶん前にUstreamで取り上げたことがあるけれど、18世紀にベンサムが考えた、パノプティコンという、グルリと囚人の部屋を看守が一望できる刑務所があったとして(逆に囚人からは看守は見えない)、このような構造さえあれば、その刑務所に看守を一人も雇わなくても、囚人たちは見えない看守を勝手に怖がって支配され続けるという話である。
 つまり近代の権力とは、強い奴からの弱い奴への暴力といった形(二項対立)でわかりやすく見えるものではなく、権力を受ける者が無意識に自ら服従するという意味で、自動的に行使されている。誰に石投げりゃいいんだw
 これは、刑務所だけじゃなく、学校、軍隊、工場、病院、福祉施設、いたるところで観察される構造で、近代的な合理的主体というのは、結局はフィクション、幻想だったというのだ。
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