経済学覚え書き⑧

 久々に経済学覚え書き。帰ってきたぜー!やろうやろうと思っていて、ずっとやってなかった、日本経済の発展や世界的金融システムの流れをまとめます。

インフレーション
物価が継続的に上昇する現象を言う。逆がデフレなんだけど、一口にインフレと言っても色んな種類のインフレがいてややこしい。まずはそこから。

ディマンド・プル・インフレーション
総需要(ディマンド)が総供給(サプライ)よりも大きくなったことで起きるインフレ。

コスト・プッシュ・インフレーション
金銀や原材料費といった生産コストの上昇が物価を上げるインフレ。

ハイパー・インフレーション
物価が短期間に数十倍にも上昇するインフレ(インフレ率20~100%※年率)。
第一次世界大戦後のドイツでは、貨幣価値が大暴落。卵一個の価格が3200億マルクになった。
こうなると、ちょっとした買い物でいちいち札束を持ち歩かないといけないので、政府は通貨の価値を切り下げしてしまうことがある。これをデノミネーションという。北朝鮮が何年か前に実行して、でも、うまくいかず責任者が処刑されちゃった。

ギャロッピング・インフレーション
インフレ率10~20%。

クリーピング・インフレーション
忍び寄るインフレという意味。インフレ率5~10%

ちなみに、インフレ率が低下していくのをディスインスレーションという(※デフレではない!)

景気循環
景気変動とも言う。資本主義経済は、経済が拡大する時期と縮小する時期を交互に繰り返してきた。このパルス状の現象は、均衡点はひとつに決まると考えていた経済学にとっては謎だったが、スウェーデン学派を作った経済学者ヴィクセルは均衡点から利子率が乖離しているのが原因だと考え不均衡分析を試みた。
ファンダメンタル(経済成長、景気変動、物価といった実際の経済を決定する根本的な条件)とは乖離した人々の期待と、不適切な利子率が経済を不安定にし、景気の波を形成しているという。景気の気は気持ちの気だったらしい。
ちなみにヴィクセルのライバルは、経済は長期的にはだいたい安定すると説いたアメリカの経済学者フィッシャーだった。新古典学派の最初期のメンバーであるフィッシャーは、あの物価指数を考案し、フィリップス曲線や無差別曲線の研究に貢献した。
しかし、景気は放っておけば自然に良くなるというフィッシャーの楽観論は、世界恐慌に対してアメリカ政府が有効な手を打たなかった一因にもなった。
そこでマーシャルやピグーなどのケンブリッジ学派が、新古典学派を批判することになる。

ちなみに景気循環の波はフラクタル構造になっていて、サイズごとにそれぞれ名前が付いている。
キチンの波(40ヶ月周期)原因:企業の在庫循環
ジュグラーの波(7~10年周期)原因:企業の設備投資循環
クズネッツの波(20年周期)原因:建造物の建て替え
コンドラチェフの波(50年周期)原因:技術革新



日本経済の発展

戦後復興期(1945~55)
経済の民主化(農地改革、財閥解体、労働改革)
アメリカによる復興援助(ガリオア・エロア資金)
日本政府は、限られた労働力と資金を、石炭、鉄鋼、肥料などの基幹産業に重点的に投入する傾斜生産方式をとった。
当時の日本は100%を超えるハイパー・インフレが起こり、その後も経済復興のために復興金融金庫が紙幣を大量に投入し、それがまたインフレを呼ぶ悪循環となった(復金インフレ)。
これを解決するために49年ドッジ=ラインという、復興金もアメリカの援助も断って、1ドル=360円の単一為替レートでやっていこうという、超均衡財政が組まれたが、今度は逆にデフレになり不況(安定恐慌)を招いてしまう。ちなみにドッジというのは占領軍の顧問銀行家(ドッジさん)の名前。
踏んだり蹴ったりだったが、50年に朝鮮戦争が始まると、アメリカ軍の需要が上がり特需景気となって好景気を迎えることになる。
1956年での経済白書においてもはや戦後ではないという名言が誕生するほどに経済は回復した。

IMF加盟(1952)
国際通貨基金。IMFは加盟国の中央銀行の取りまとめ役で、経済的にヤバそうな国に融資を行う。
貿易の促進、加盟国の経済成長、為替の安定を目標とするが、内政不干渉の原則を守るので、国によっては融資を踏み倒したりもした。
日本は世界第二位の出資国。
設立当初は、各国に対して金1オンス(28g)=35ドルでの交換をアメリカが保障する固定相場制だった(IMF体制)。基軸通貨ドルの誕生である。

GATT加盟(1955)
関税及び貿易に関する一般協定。
自由貿易の推進、世界貿易の拡大を目指す。IMFと世界銀行IBRDと共に戦後経済を支えるブレトンウッズ体制の三本柱として設立された。
基本的には、第二次世界大戦の原因にもなった関税障壁を徐々に切り崩していくのが目標で、8回関税交渉が行われ(ラストは94年のウルグアイ・ラウンド)、その業務は95年にWTO世界貿易機関に引き継がれた。

高度成長期(1955~73)
年率10%前後の高水準の実質経済成長率を達成した時期。
その理由はいくつかある。
・海外からの技術革新
・国民の高い貯蓄率
・投資が投資を呼ぶ積極的な企業の設備投資
・消費革命と言われた耐久消費財ブーム
・安価で質の高い労働力
・輸出に有利な円安固定相場
・国民所得倍増計画(1960年、池田勇人)などの政府の産業育成政策
・企業グループ間の激しいシェア拡大競争
・アメリカを中心とする世界経済の拡大
・平和憲法による軍事費の低い負担
など。
高度経済成長により、産業構造は高度化、重化学工業が進展した。
このような産業構造の移行(第一次産業から第二次産業、第二次産業から第三次産業へと比重が移っていくこと)をペティ=クラークの法則と言う。
また所得倍増計画によって、主な働き手である男性が出稼ぎに行き、農家はじいちゃん、ばあちゃん(お年寄り)、かあちゃん(主婦)の3ちゃん農業と言われるようになった。

神武景気(1955~57)
日本最初の天皇のことで、それくらいかつて例をみない爆発的好景気

岩戸景気(59~61)
天照大神が隠れた天の岩戸のことで、それくらいかつて例をみない爆発的好景気

オリンピック景気(63~64)

と好景気が続いたが、好況により輸入が増えると国際収支が赤字になり(当時の日本は輸出をあまりしていない超内需国だったから)、そのため仕方なく金融を引き締めると不況になるという国際収支の天井による景気変動を繰り返すようになった。

OECD加盟(1964)
経済協力開発機構。
もともとは戦争でメチャメチャになったヨーロッパを復興するためにアメリカが推進した計画(マーシャル・プラン)で、1948年に前身機関OECCが誕生、本部はパリに置かれた。
その後ヨーロッパが復興すると、アメリカとヨーロッパが対等に自由主義経済の発展のために協力する機関になった・・・って外務省のサイトが言ってるw

OECDは国際マクロ経済動向、貿易、開発援助といった分野に加え、最近では持続可能な開発、ガバナンスといった新たな分野についても加盟国間の分析・検討を行っています。

こちらは経産省のサイト。ちなみにOECDにはDAC開発援助委員会という子分がいる。

さて、1964~65年の景気後退では昭和40年不況と言われ、需要不足に対して戦後初めて赤字国債が発行された。
その後、経済は持ち直し、65~70年のいざなぎ景気は、57ヶ月という戦後最長の好況となり1968年にはGDPがドイツを抜いて世界第二位になった。

ニクソン・ショック(1971)
戦後のアメリカは、世界各地にドルを流出させ、国際収支を悪化させ、さらにヨーロッパや日本が経済的に復興しアメリカの地位は相対的に低下、これらの要因でドルの価値に不信が募ると、1967年フランスは持っているドルを金に交換してもらおうと動いた。
こうしてアメリカの金保有高に不安が生じ、1968年には加盟国で金の高騰を抑えるために結成された金プール制を廃止、金の二重価格(法定価格と市場価格が独立)を実施した。
だが、これでもダメだったらしく、1971年、金とドルの交換停止をいきなりニクソン大統領が発表。ニクソン早まるな、とスミソニアン博物館に集まったG10各国は、ドルの価値を下げることに合意したが(スミソニアン協定)、これもやっぱりダメで、ブレトンウッズ体制は崩壊、外国為替市場は大混乱。
さらなるドルの切り下げが行われ、世界は変動相場制に移行した。
78年のキングストン協定では、変動相場制を再確認、SDR(IMFの準備資産から外貨を引き出す権利。最初は金だったが現在は各国の様々な通貨が集められているバスケット方式)重視で合意した。

安定成長期(1973~80年代)
高度経済成長は73年の第一次オイルショックによって終わりを迎える。
石油危機の前には1%ほどだった失業率は2%になり、インフレと景気の後退が同時に起こるスタグフレーションが起きた。
これに対抗するため、政府は厳しい総需要抑制政策を実施、二度目の石油危機が1979年に起きた時には物価は上昇しなかった。石油に依存しないエネルギーの転換、省エネルギーの技術開発が行われたからである。
その後は、年率3~5%の安定成長を続けることになった。
78年のボン・サミットでは、景気のいい西ドイツと日本が世界経済を牽引する機関車の両輪として頑張ってくれとカーター大統領に頼まれたが、ドイツは嫌がった。でも日本は同意した。

80年代には、企業は合理化を進め(省資源、省エネ)、強い国際競争力を備えた電気製品や自動車が集中豪雨的に輸出された。
これにより、欧米との経済摩擦が発生、内需を拡大する経済構造への転換を求められた。
1985年にはプラザ合意で(NYのプラザホテルでのG5の合意)によって、円高ドル安誘導が図られ、輸出で稼いでいた日本は一時、円高不況となる。
その結果、企業は外国への直接投資を行うようになり、国内産業の空洞化や、投資摩擦が起きた。
不況で落ち込んだ需要を刺激するため、政府と日銀が低金利政策を行うと、余った資金が株と土地に投機的に流れ込み、資産価格が実態(ファンダメンタル)以上に膨れ上がるバブルが起きた。
ちなみにドルの方はプラザ合意の影響で安くなりすぎてしまい、87年のルーブル合意で今度はドル高に誘導しようとしたがドルの下落は止められなかった。

平成不況(90年代~)
公定歩合の引き上げや、地価税の導入により、あっさり弾けたバブルは、銀行やノンバンク(預金業務は行わず、資金の貸し出しだけを行う金融機関。住宅金融やクレジット会社)に大量の不良債権を残した。
銀行は資金を貸し渋りし(信用収縮)、企業の設備投資は減少、所得の減少により、個人消費も落ち込み、深刻な不況が続くことになる。
これにやべえと思った日本銀行は、今度は公定歩合(現・基準貸し出し利率。94年に金利自由化が行われ政策金利としての意味合いが薄れたから名称が変更された)を下げたが、見事に流動性の罠にはまって、ついにはコールレート(銀行間金利)をゼロにする、ゼロ金利政策(98~)までやったが、大した効果は現れなかった。
現在は3回目のゼロ金利政策を実施中。

ペイオフ解禁(1995~段階的に実施)
政府によって全額保護されていた銀行預金が、金融機関が潰れた場合1000万円とその利息分しか保護されなくなった。
これにより破綻した銀行の預金を預金保険機構が肩代わりすることになった。預金保険機構は破綻した銀行の合併に関して、資金援助や不良債権の買い取りも行うことができる。

金融ビッグバン(1996~2001)
金融システムの大改革。サッチャーの証券制度改革ビッグバンにちなむ。
フリー・フェア・グローバルをスローガンに実施。
平たく言うと東京市場をウォール街みたいにするってこと。
日本(旧大蔵省)はこれまで弱い金融機関に足並みを合わせる護送船団方式をとっていたが、これからは弱い者の面倒は見ないよ~んって感じ。
自由に競争する時代になり、外国の金融機関が破綻した日本の金融機関を買収することも可能になった。
2001年には金融庁が設立している。
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