日本史概説覚え書き①

 去年挫折した地雷単位、日本史概説。一応試験が受けられるっていうから、ちょっとだけお勉強。これさえ突破すれば中学校社会の教員免許が一種にレベルアップするんだよ。フシギバナになるんだよ。
 でも、とても古代から現代までなんて全部覚えられないから(オレは頭脳王じゃねえ)、もうヤマをかける!日本史は漢字が変換できないからすごいやだ。高知公民とか。バッカじゃないの?

東アジアの中での古代王権の位置づけ
日本が古墳時代の4世紀、東アジアの情勢は緊迫していた。
中国では三国志の時代のあとにできた統一王朝であるが内乱や異民族の襲撃によって滅び、五胡十六国時代という多くの小さな王朝が分立した時代を経て、北魏と宗の南北朝時代に入っていた。
このような中国の政治的混乱を背景に、朝鮮半島では半島北部に勢力を拡大した高句麗が南部の百済と新羅を服属、奈良にあった大和政権の権益(大和政権は朝鮮から鉄を輸入していた)がある伽耶にも手を伸ばそうとしてきた。

大和政権は伽耶を守るため、軍を朝鮮半島に送り百済と新羅を破り、399年には百済と手を組み再び新羅を破った。
実際、大和政権の王に、百済王が作った七支刀(枝のような形の鉄の剣)が贈られており、当時の大和政権と百済の結びつきを表している。ほかにも百済からは儒教や医学、薬学ももたらされ、私有地や奴隷をもつ豪族の統治システムは百済の影響を受けているという。

すると新羅は高句麗に援軍を要請、大和政権は再攻撃を仕掛けるが、最終的に高句麗の猛烈な反撃にあい、朝鮮半島への本格的な軍事介入を諦めることになった。
高句麗の騎馬隊に苦戦した大和政権は同様の騎馬戦術を考案することになり古墳の中には馬具が埋葬されるようになった。

朝鮮半島の混乱から、中国や朝鮮から多くの人々が日本列島に移り住むようになった。これらの人を渡来人と呼び、大和政権に須恵器(見た目は弥生土器っぽいが青灰色の硬い土器)という土器と作る技術や、漢字が伝わることになった。

大和政権は朝鮮半島南部での立場を優位にするために、中国の南朝である宗に朝貢した。具体的には、讃、珍、済、興、武という5人の王が大体10年周期で来朝し貢物をした。その中には仁徳天皇もいた説がある。
大和政権は、日本と朝鮮を征服したのは中国に貢ぎ物を送るためであるというロジックで宗の王に取り入り、高句麗から大和政権が介入されないように政治的な工作を試みた。

大和政権は次第に勢力を拡大し、大王は連合政権の主催者から、各地の豪族にかばね(地位の称号)を与えて彼らを従えるようになった(氏姓制度)。
5世紀後半頃の埼玉県の稲荷山古墳で見つかった鉄の剣には「ワカタケル大王」と彫られており、大和政権の影響力が関東地方にまで及んだことを示している。このようなものは熊本県でも見つかっている。
その後6世紀になると大和政権は地方の豪族たちを地方官に任命して中央集権的に日本各地を支配するようになった。

律令国家の特徴
律令国家とは、成分法典である律令(律は刑法、令は行政法)に基づいて中央集権的に政治を行う国家のことで、中国の隋~唐で確立し、周辺諸国に普及した。
すべての国民や土地は王のもとに平等であるという体制であり、国民には王から平等に土地が与えられる(均田制、公地公民制)。また税(租庸調制)や労役、兵役(府兵制)も平等に課せられた。
法に基づいた政治体制なので、法を遵守する官僚が大きな役割を担っていた点も特徴である。ビューロクラシー。

日本では7世紀半ばに隋との国交を結ぶために導入され、大化の改新(豪族の権力者を倒す)を経て、701年の大宝律令によって完成した。
とはいえ8世紀初頭に出来上がった日本の律令国家は、集権的な側面と社会内部に残る伝統的体制(氏姓制度的な身分制度や、律と異なるローカルルール)が矛盾を含みながらも補い合う二重の構造があった。

6世紀後半、中国を隋が統一すると、危機感を募らせた日本の厩戸王(聖徳太子)は遣隋使を送り、古墳時代以来の中国との外交を復活、侵略の危機を乗り越えようとした。
しかし隋は日本の政治が遅れているという理由で国交を結ぶことを拒否、そこで聖徳太子は日本の政治の改革に乗り出す。
能力のある者は地位や血統問わず取り立てる冠位十二階や、豪族に官僚としての心構えを説いた十七条憲法を定め、天皇中心の中央集権体制を作ろうとした。
さらに聖徳太子は、隋が高句麗との戦いを目前に他の国と敵を作りたくないタイミングを見計らって遣隋使を再び送り、隋との対等な外交関係、推古天皇が日本の皇帝であることを認めさせた。

その後隋が滅び、660年に次の中国王朝である唐と、朝鮮半島の新羅が、百済と高句麗を滅ぼすと、日本は同盟国である百済を復興するために朝鮮半島に兵を挙げるが、大敗してしまう(白村江の戦い)。
そのため律令体制の確立には、バラバラになった国内の権力を統一し、唐と新羅に対抗する意味があった。
また百済滅亡により日本に多くの百済人が渡来すると、百済の進んだ文化が日本に伝わり木の板に文字を残す行政運営などが導入されることになった。

武士の発生
飛鳥時代から導入された律令制度、公地公民制という中央集権的な体制はある種の建前で、地方での実態は有力者が土地と人を私有していた。

平安時代に入ると、中央の貴族の地方の軽視はさらに進み、自身は現地に赴かず地方の政治は代理人に任せていた。京都での優雅な暮らしを捨てたくなかったのである。
また社会的地位の高い役職を藤原氏が独占していたため、すすんで地方での政治にとりかかった貴族(貴種と言う)もいた(源氏や平氏の祖先はこれ)。彼らは中央の目の届かないところで次第に勢力を拡大させた。貴種は狩りを生業とし弓馬に優れていた。

さらに中央政府は「平和な時代に必要がない」ということで、財政難の際に軍事力を削減させてしまった。平将門の乱が起こった時の中央政府の対応もすごい遅かったという。
実際、平将門の乱は中央政府が派遣した征夷大将軍によってではなく、地方の有力豪族(開墾に励んで領地を広げた有力農民)によって鎮圧されている。
このような地方の武装集団の結束力は強く、主に関東地方(東国)に多くいたという。彼らを鎮圧するために中央政府は武力を持つ武官(貴族のSPや屋敷の警備員をしていた人)を地方に送り込むようになる。
地方に派遣された彼らの一部はそのまま地方に定住し、地方豪族と交流、彼らを従えることことで武士団になった。

彼らの力は中央の貴族にも認められるようになり、地方の反乱鎮圧の際には積極的に重用されるようになる。
つまり公的に武装を認められたわけで、その点で武士とはヤクザではなく政府公認の州兵のようなものだったと言える(武装=武士ではない)。しかし彼らが都に帰るとその地位は非常に低く、下賎な者と軽蔑されていた。
とはいえ貴族の中には白河上皇のように武士を高く評価する者もいた。上皇が政治の実権を握る体制を院政というが、武士はこの院政に乗じて上皇に取り入り(ボディガードを買って出たり高価な贈り物をした)その社会的地位を向上させていった(貴族にはもちろん嫌がられた)。

武闘派の印象がある武士だが、都で学問を修めたインテリ派もいた(平将門、貞盛など)。源義家は「勇気はあるが教養はないよね」みたいなことを言われたことが、よほど恥ずかしかったらしく、兵法を一生懸命勉強したらしい。

内乱における悪党の発生と意味
悪党とはそもそもどういう存在なのか。自分のことを自ら悪党と名乗ることはないだろうから、彼らの存在によって被害を被る立場から名付けられた名称であることは想像できる。
悪党とは一言で言えば、鎌倉時代末期に幕府や荘園領主といったエスタブリッシュメント(既存体制)に抵抗する集団である。レジスタンス的な。
そこには地頭,御家人,非御家人,名主(名田=私有地の経営を請け負った有力百姓)などが含まれる。

悪党は「人」の身分標識である烏帽子袴を着用せず(アンチおじゃる丸)、「非人」の色である柿色の服を着用していたという。
博打や強盗を繰り返す生粋のワルで、命令に従うどころか裏切り行為は日常茶飯事、発生当初は十分な武具もなく、人数は10人、20人ほどの小規模な集団だった。
しかし悪党の勢力は、やがて幕府や守護も手がつけられないほどに拡大、荘園支配(貴族支配)を脅かすようになったという。

このような鎌倉時代の荘園制度に抵抗する新たな勢力はどのように生まれたのだろうか。
ひとつの理由として鎌倉時代に農業の生産性が上がったことが挙げられる。例えば二毛作(米を収穫したあとの秋~春に麦や大豆を作ること)など農業技術の進歩により莫大な財産を蓄えた百姓は、武士や御家人から土地を買い取ったり、土地を失った武士を雇ったり、自ら武装することで、新興武士になった。
とはいえ、当時社会的地位の高い役職は、執権北条氏の家督(得宗)に仕えた御内人(みうちびと)で占められており、そこに彼らのような新興勢力が入り込む余地はなかった。

しかし、その土地の有力者である悪党を新たな荘官として任命してしまう荘園領主も存在し、さらに元寇が起こった事でこのような非御家人を幕府が傭兵として動員したこと(=御家人制度が揺らいだこと)も、悪党の勢力拡大に大きくつながったと言える。
こうして悪党の数は、新興在地領主を中心に増えていき、その経済力と軍事力も拡大、城郭や櫓を建てて鎮圧軍と戦い、鎌倉幕府の支配系統を破壊した。
新しい社会を求めて旧体制と戦った彼らは、室町時代になると国人(地侍)と呼ばれ社会的に取り込まれ、新たな地域的な封建制度である守護領国制が出来る原因となった。

秀吉政権による天下統一
1582年織田信長が本能寺の変で自害すると、中国地方で毛利氏と戦っていた羽柴秀吉は京都に引き返し、山崎の戦いで本能寺の変の首謀者である明智光秀を倒した。
これにより信長の後継者としての地位を固めた秀吉は、1583年には織田信長の家老、柴田勝家や滝川一益を退け、1584年小牧・長久手の戦い(愛知県)で織田信雄と徳川家康を屈服させた。
秀吉は大坂城を築き、公家の内紛に乗じて関白に就任(1885年)、姓は藤原となり、その権力を拡大させた。
ちなみに摂政は天皇が幼かったり、病気だったり、京都にいない時に国政を代行する役職で、最終決定権もあるが、関白の方はあくまでも天皇の補佐役でアドバイス係といった感じだった。

とはいえ1586年には太政大臣(律令制の最高役職)にもなり、ここで豊臣という姓が与えられた。関白から太政大臣という官僚のエリートコースを手堅く登った秀吉は(摂政や関白の経験者でないと太政大臣になっても名誉職扱いで実権がなかったらしい)、天皇の名を使って大名同士の争いをやめさせ、それでも争っている大名には攻撃を加えた。
九州の島津家、小田原の北条家、東北地方の伊達家などに勝利し、1590年についに天下統一を果たす。

こうしたサクセスストーリーの背景には大坂・京都・伏見・堺・長崎などの重要都市や、佐渡金山や石見銀山などの鉱山の支配によって得た経済力があった。
また秀吉は金貨としては当時世界最大級の大判を鋳造している。これは貨幣として流通していたわけではなく(持ち運び大変)、トロフィーとして使われていたらしい。

秀吉が行なった政策で有名なものが太閤検地と刀狩りである。

まず太閤検地だが、平安時代からの荘園制では税を徴収するものと納税者の関係が極めて複雑で(鎌倉時代に守護地頭などを追加しちゃったため)、それを解体し、分かりやすい制度に一元化することにした。
秀吉は、各地で農地の面積や生産性、耕作者のデータベース(検地帳)を詳細に作らせ、「一地一作人」の原則を導入、1つの土地の耕作者から直接税を納めさせることに成功した。
この改革の結果、荘園制で中抜きをしていた公家や寺社(出版業で言うならトーハンみたいな)の権益はほとんど削がれることになった。
太閤検地は、征服した領地や屈服させた大名の領地にも行われ、土地の生産力は全国一律で「石高」で表されるようになった。この石高を基準にして秀吉は各領地の仕事の負担量を決めていた(石高制)。これは江戸時代にも引き継がれ明治時代の地租改正で廃止された。

次に刀狩りである。1588年大仏を作るためという口実で、百姓たちから武器を取り上げて武力解除をさせたことに始まる。
戦国時代の合戦で歩兵として戦っていたのは農民なので、兵士と農民の境界はほとんどなく、農民が武器を所持するのはある意味当然だったのだが(実際秀吉の出自は農民)、秀吉は農民を農業に専念させるため兵農分離を試みたのである。
この刀狩りは秀吉政権の役人が直接農村に出向いて武器を取り上げたのではなく、農民に城で誓約書を書かせただけで、農民に自主的に行わせたのだという。
また徳川家康や毛利輝元といった有力大名の領国には公布されず、主に九州で行われた。
さらに刀狩りは武器であるとともに儀式的アイテムとしての意味合いが強かった刀に限定されており、鉄砲には適用されなかった(鉄砲は害獣駆除に役立つため農具扱い)。
このことから刀狩りは農民の武力解除のために行なったというよりも、農民から帯刀権を奪い、身分制度を徹底させる側面が強かったと考えられている。これは江戸時代の士農工商につながった。

秀吉は、国際的な貿易ネットワークを構築するために、早くから大陸への出兵を表明していた。
天下統一後、朝鮮に対し日本への朝貢と明への侵攻の協力を求めた秀吉だったが、これを拒否され、1592年、秀吉は朝鮮に大軍を送り戦争を仕掛けた(文禄の役)。
現在のソウルに当たる朝鮮の都を落とした秀吉軍だったが、各地で義勇兵が抵抗し、海上では李舜臣の朝鮮水軍が日本を破り苦戦を強いられた。
さらに明からの援軍が送られると、秀吉軍は劣勢となり休戦することとなった。
しかし、明との講和交渉が決裂すると(秀吉はすごい無茶苦茶な要求をしたらしい)1597年、秀吉は朝鮮半島に再攻撃を仕掛けるが(慶長の役)、やっぱりダメで1598年には秀吉が病死。
これを受けて、徳川家康や石田三成が全軍撤退を命令、戦いは集結した。
この朝鮮出兵により、多くの百姓が動員され(戦場に物資を運んだ)、国内では農業をする人が減り、田畑は荒れていった。もちろん武将たちの関係もギクシャクし、豊臣家の没落が早まることになった。

江戸時代の対外関係
南蛮貿易が盛んになった戦国時代、フランシスコ=ザビエル、ガスパル=ヴィレラ、オルガンティーノ、ルイス=フロイスといった宣教師たちが日本にやってきた。
宗教改革で、プロテスタントに驚異を感じたカトリックが積極的に当方へ布教を行なったためである。

江戸幕府を開いた徳川家康は、そのまま外国との貿易を続け、九州の平戸に商館を設置し、新たにイギリスとオランダとも貿易を開始する。また東南アジア諸国とも積極的に貿易を行い、九州の大名に朱印状と呼ばれる貿易許可証を発行した。
一説には、江戸時代の基本的な社会制度は、豊臣秀吉の時代に石田三成が考案したものをそのまま受け継いだと言われており、江戸に入って直ちに鎖国に踏み切ったわけではない。

だが、プロテスタントの国であるイギリスとオランダが、カトリック(イエズス会など)の日本での布教は日本を植民地支配するためであると政治的な工作をし、これを受けて幕府は1612年に幕府直轄領にキリスト教の禁止令を出し、1613年にはそれを全国に広げた。1629年には踏み絵が導入されている。
1635年には渡航が禁止。これに伴い、朱印船貿易や東南アジアの日本町は終わりを迎える。

1637年にはキリスト教信者による農民一揆、島原・天草の乱が発生し、幕府は12万もの兵で鎮圧、この事件によって幕府のキリスト教への弾圧はさらに厳しくなった。その一環として行われたのが、宗門改である。

さらにポルトガルとの国交を断絶(1639年)、平戸のオランダ商館は1641年に長崎の出島に移された。これにより長崎で貿易を行う相手はオランダと中国に限定された。
この一連の鎖国への流れは、幕府が貿易による利益を独占するための策略であった。
とはいえ、日本人の渡航禁止令は全国ではなく長崎奉行に出されたものである。

また外国との交流があった貿易港は長崎だけではなく、琉球王国と交易があった薩摩藩、朝鮮と交易があった対馬藩、蝦夷地のアイヌ民族と交易があった松前藩においても積極的な貿易が行われていた。これら3つの貿易港と長崎を合わせて四つの口と言う。
これらの貿易は、人的交流こそ制限されていたものの(民間貿易で国交は朝鮮を除いてなかった)物質的な取引は盛んであった。

鎖国という対外関係を一切絶った江戸時代のイメージは、ドイツ人のケンペルの著作『日本誌』を和訳する際『鎖国論』にしてしまい、その認識が江戸後期に広まったことによるものである。

18世紀末になるとロシアやアメリカという列強国が日本にやってくるようになる。
1792年、ロシア使節ラクスマンがアリューシャン列島に漂流した三重県の漁師とともに根室に来航。ラクスマンは日本に交易を求めたが、日本は拒否し、1804年にロシア使節レザノフが長崎に来航した際もこれを拒否している。

1808年には、オランダ船のフリをしたイギリスの船が長崎に侵入するフェートン号事件が発生。これを受けて幕府は外国船打ち払い令(1825年)を出す。
しかし、1842年アヘン戦争に負けた清がイギリスに開国をさせられたことを知った日本は外国船打ち払い令を緩和せざるを得なかった。

1853年と1854年にアメリカのペリーが軍艦で来航すると、日本は開国の要求を断れず、伊豆の下田と北海道の函館を開港する日米和親条約をアメリカとの間で結ぶ。
アメリカは中国との貿易船や、北太平洋が活動する捕鯨船が立ち寄る寄港地として日本に開国を求めたという。
日米和親条約第9条の最恵国待遇は、日本と他の国がアメリカよりも待遇の良い条約を結んだら、その待遇が自動的にアメリカにも適用されるというものだった。
これにより日露和親条約における長崎の開港がアメリカにも適用されることになった。

さらに1856年に下田にやってきたアメリカの総領事ハリスは1858年に日米修好通商条約を結ぶことに成功する。
このような不平等条約はオランダ・ロシア・イギリス・フランスとも結ばれ、安政の五か国条約と言われている。
ハリスが通した1ドル銀貨1枚=一分銀3枚という超円安為替レートは、おびただしい量の金貨を国外に流出(ドルを一分銀→両→小判→ドルと両替するだけでボロ儲けできた)、日本は深刻なインフレに見舞われた。

同時に、関税自主権が日本に認められなかったことで安価な外国産の綿織物や絹織物が流入、国内産業は壊滅的な打撃を受けた。そのため1866年には一揆の件数が最多になり、外国人を追い払う攘夷思想が高まった。
このような不平等条約を幕府が結んでしまった原因としては、長く続いた鎖国体制のため、幕府の国際法の一般的な認識に乏しく、ハリスが提出してきた要求をそのまま受け入れてしまったことが挙げられる。

天皇の許可を得ないまま通商条約に調印した井伊直弼が1860年に暗殺されると(桜田門外の変)、幕府は、これまでの独裁体制を改め、徳川家茂と和宮の降嫁に象徴される公武合体路線に舵を切っていくことになる。
これは幕府に対抗できない朝廷の力を見越していた老中安藤信正が、朝廷の権威を利用して幕府の再強化を目論むものだったが、その構造に気づいた薩摩藩は倒幕運動に力を入れていく。

また四国連合艦隊下関砲撃事件で武力的な攘夷が現実的に不可能であると知った長州藩は、幕府に撮り潰されることを危惧し薩摩藩と接近する。
そして1867年、倒幕を目標に手を生んだ薩摩藩、長州藩と公家の岩倉具視の働きかけで、朝廷は王政復古の大号令を発した。これにより江戸幕府という武家政権はなくなり、天皇中心の新しい政府が樹立される運びになった。
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