ゴーン・ガール

 「面白い度☆☆☆☆☆ 好き度☆☆☆」

 彼女を怒らせるな。

 今日で仕事納めってことで、仕事帰りに『ゴーン・ガール』を鑑賞!除夜の鐘がゴーンゴーンゴーンガール…みたいな、SGA屋伍一さんですら脱力するであろうしょうもないネタのために、あえてこの日に観に行ったんだけど、そんな野郎は私以外におじさん一人だけ。そして、あまりの内容にいたたまれなくなったのか開始30分ほどでおじさん帰っちゃったから『ポリスストーリーレジェンド』以来の劇場貸切でした。
 デーブ・スペクターさんが「とくダネ!」か「ワイドスクランブル」か「ミヤネ屋」で紹介しそうなくだらねー海外ゴシップ映画かと思いきや、人間のアイデンティティの本質に迫るとても深い映画なのだ!

 とりあえずヤンデレと言われるシチュエーションが好きな人、ジェンダー問題について一席ぶつのが好きな人は必ず見なさい。ルソーは主著『エミール』で「自然人」の対立概念である「社会人」のアイデンティティを、自己のあるがまま全てではなく、社会との関係いかんによって決まる危ういものだと定義した。
 また、サルトルは「自由」とは、自分で自分のあり方を選択した結果を自己責任で引き受ける「義務」を伴うものだと考え、「人間は自由の刑に処せられている」という言葉を残している。結婚はそう言う意味で一夫一婦制という社会制度やそれに伴う男女関係を主体的に選択したとも言える。
 結婚が妻と夫がお互いに依存し合い、相手に自分を合わせて妥協するものであるならば、それは必ずしも幸福なことなんだろうかっていう。
 多分ね、この夫婦は子どもを作るのが遅かったんだと思う。だからこそのあのラストなんだよね。子どもがいれば親としてのデューティーも出てくるだろうよ。

 しかし女性と男性ってやっぱり決定的な隔たりがあるように思えてならない。ああいう「男性への依存」は近代のロマン主義の刷り込みでなっちゃったのか、もともとの生物的な性質なのかわからん。なんでそこまで異性の恋愛に没頭しちゃうんだろう。現実的であるとも言えるんだけど。
 だって男なんてもうどうしょうもないじゃん。それなのに結局「妻」という社会的役割にまるで吸い込まれるように戻ってきてしまう。そもそもセックスじゃなくてジェンダーは女性という社会的役割を指すわけで、やっぱり女性であるだけで、相当ストレスが辛いんだろうなあ。
 恋人がオタクだったら漫画を読み、スポーツマンだったらチアリーダーみたいな、ようは男にとって都合のいい女がいい女だからと悟った上で、それでも男に合わせてしまうっていう。
 少年漫画に対してすら、女性への抑圧を見て取る人もいるらしいしね。まあ少年漫画ってジェンダーあるに決まってるけど。少年漫画って「男の子向け」ってことだからな。
 でも結局、エイミーが嫌っていた「猿回しの猿のように夫を意のままに操る妻」という、かかあ天下構造になったわけで、だからこそジェンダー問題に興味がある人はぜひ鑑賞して感想を聞いてみたいんだよね。あれで満足するのか、そうじゃないのか。

 どうでもいいけれど、私は個人的に浮気夫ニックの双子の妹のマーゴちゃんがすごい好きだった。メガネっ娘だし。怪盗グルーのマーゴちゃんの大ファンだけにマーゴにハズレなし(まだ二例)!「下着を脱いだかも自分でわからない女なの?ファック!」という名言も素晴らしい。つーかこの兄弟ファックファック言い過ぎw
 こういう映画を見てても「推しメン」を見出してしまうところが男ってホントバカだと思うよね。作中男はいつもバカ扱いという名言が出てくるが、まさにおっしゃるとおりよ。
 女の子からの告白を承認したり、好きな人と一緒になるということが、ある種の社会的義務だということが抜けてんだ。これは人事じゃないんだけどね。だからそこまで恋愛ゲームは描いて全国の青少年に啓蒙しなきゃいけないよ。ほんとほんと。オタクってすぐ「嫁」を取り替えるじゃん。お前ぶっ殺されるぞって。

 そんな嫁エミリーが怖いという以上に…なんか、すごい哀しい。とにかく哀しい。人間である以上どんな人にも、どこかしらの欠陥はあるにしろ、エミリーはその欠落したピースが一般的な人のそれよりも多いんだよな。それは彼女のアイデンティティが他者…つーか作家の母親によって幼少期にすでに“完全に”担保されてしまった事。
 「完璧なエミリー」というチートキャラ的なラベルをがっちりお母さんに貼られてしまったもんだから、ありのままの自分でいられない。人間の本質っていうのはそういうもんだと思っている。「これが結婚よ」って。

 結婚はありのままじゃいられないのよって。

 人間というのは、多かれ少なかれ他者や社会とコミットして生きていく以上、エミリーの説はまこと正しいんだけど、それでも、すごい切ない。一見華やかなんだけどそれは虚飾で、すごい殺伐としていてニヒルな人間観。でもそのリアルじゃ生きていけない。
 ツイッターでも皮肉なのかしらねーけど、みんなの建前や了解事項、「それは触れないでおこうよ」ってやっているサンクチュアリを、いや本当はこうだからwって言ってる人いるけれど、それをやるのは子どもであってさ。そんなもん大人はみんな了解した上で生きてんだよっていうね。
 この社会が弱肉強食なのは当たり前じゃねえかって。それを今更指摘してお前になんのメリットがあるんだって話なんだよね。そうやって指摘するなら、お前はその生存競争に勝たなきゃいけないんじゃないか。勝負に参加する勇気もなく、ガヤから人と人との助け合いを冷笑しているっていうのは、結局こういうタイプの人も、リアリズムだけじゃ生きていけないからだろう。
 この世界のリアルを受け入れられるほど人間は強くない。承認欲求というロマンスが欲しい。だからあんな手の込んだ壮大なかくれんぼをしちゃうw私を見て。私はここにいるよって。

 教育学ではこういうのジョン・ボウルヴィのアタッチメント論って言うんだけれど、幼少期に周囲の大人(たいていは親)に“無条件で自分の存在を肯定”されなければ、その人は、自己や他者の存在を受け入れることが困難になるという。
 私なんかはそう言う意味ですっごい幸せな部類だと自分でも思う。マイペースなタイプだからあまり自分を他人や社会に無理して合わせた経験がない。自然体の自分を受け入れてくれそうなところにするするするって入っていっちゃうw
 これも子どもの頃、学校の先生とかに「しょうがねえか、田代だし」と、いい感じにラベル貼りを諦められたことが大きいと思う。「いいよ、お前はその路線で」って。それがありがたかった。教育とは矯正じゃないからね。放任じゃないか!って怒る人も今はいそうだけど、ルソー読んでみなよ。消極教育っていうのもあるんだぜ。
 でも、悲しいことに、エミリーは生まれた時から常に“条件付き”で愛されてきた。だからあの結末も、別のペルソナに取り替えただけで彼女の本質的な悲しさが何ら解消されていないから、カタルシスがないしゾッとしてしまう。
 『アナと雪の女王』が女性にあれだけ支持されたのも、きっと松たか子のレリゴーだけじゃないんだろう。

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