教育の歴史と思想覚え書き

参考文献:田中克佳著『教育史―古代から現代までの西洋と日本を概説』

古代ギリシャにおけるスパルタの教育
スパルタの社会は、支配階級のスパルタ人、田園地帯に住み、常時は自由を与えられていたが戦時中はスパルタ人に従う義務があったペリオイコイ、被征服民の奴隷ヘイロータイの3つの階級で構成されており、市民権のないペリオイコイとヘイロータイをスパルタ人が力で支配する図式であったが、非市民の人口はスパルタ人の人口を10倍以上も上回った。そのためスパルタ人は非市民に対する支配を維持・拡大するために、市民にその全てを国家に捧げることを求める政治と教育を行う必要があった。
スパルタの子どもは長老の評議会で検査を受け、将来の見込みがないと判断されると遺棄され、育てられる場合でも国家の厳しい訓練を受けることになった。
7歳までは家庭で母親の保護を受けるが、それ以降は国家の兵舎に収容されパイドノモスという教育監の監督のもと、身体的訓練、道徳的訓練が行われた。食べ物や衣服は満足に与えられなかったがこれも訓練のうちだった。
18歳になると、武技の訓練や軍事演習など戦争のための専門的な訓練を受け、20歳からの10年間は国境の駐屯地で軍務につき実戦的な訓練を受けた。こうして30歳になると完全な市民権が認められ、一人の市民として国家に奉仕した。
スパルタの教育は屈強な体に鍛えるための体操が中心で、知的訓練はあまり重視されず、必要最低限の読み書きや詩を暗唱させた程度に過ぎなかった。
女子も男子同様国家の兵舎に収容し各種体操を行わせて体を鍛え、丈夫な子どもを産んで育てることを求められた。しかし男子のような軍事訓練は行われなかった。
 
古代ギリシャにおけるアテナイの旧教育
アテナイの教育も奴隷制を経済的基盤とした上で、国家への奉仕精神を市民に求めた点ではスパルタと同様だったが、支配すべき非自由民の割合はスパルタほど高くなく、ソロンの改革以降、民主制が重んじられた為、教育を用いて極端な国家統制を加えることはなかった。
また、アテナイにおいて国家による教育は16歳~20歳までの体育と軍事訓練のみで、教育の責任は基本的には家庭にあるとされた点や、身体の調和的発達を目標に、身体的訓練だけではなく知的訓練も重視した点もスパルタの教育とは異なった。

さて、アテナイではペルシア戦争を境に伝統的思想の批判と新思想への受容が生じ、国家への奉仕を求める旧教育から、個人の利益を第一とする新教育への転換が求められた。これは人間に関心の中心を置く教育思想の誕生でもあった。
紀元前5世紀中頃までのアテナイの旧教育は以下のような過程を経た。
生まれた子どもは親の判断によって検査を受け、場合によっては殺された。
育てられる場合は7歳までは家庭で母親と乳母の保護を受けるが、その後、ディダスカレイオンという音楽学校(ここでの音楽には詩や歴史学、弁論術の歌唱も含まれる)と、パライストラという初頭体操学校(いずれも私学)に通って知的、道徳的、身体を調和的に発達させるための身体的訓練を受けた。
16歳になると、読み書きの教育を一切中止して国立の高等体操学校ギュムナシオンに入り、より高等な体操の訓練を受けるとともに、大人の討論や裁判の傍聴、市場や劇場の出入り、先輩との議論を通して市民になる準備をした。
18歳になると市民にふさわしい道徳と健全な身体をチェックされて、これに通ると、自由民の登録簿に「準市民(エフェベ)」と記入された。
その後2年間国家の官吏の監督のもと軍事訓練を受け20歳になって初めて正式なアテナイ市民と認められた。
このような旧教育は時代が進むにつれ、道徳的訓練や、厳しい身体的訓練の側面が薄れ、知的、文学的なものになっていった。例えば従来では体操と軍事教育がなされていた16~20歳においてすら知的訓練に多くの努力が費やされた。
アテナイの女子は、家庭の中で母親や乳母から読み書き、音楽、裁縫、家事を教わった。日常生活の用に足りる程度以上の高等教育やスパルタのような体操の訓練はなされなかった。

初期教会の教育
中世ヨーロッパを席巻したキリスト教社会では、古代の学問(哲学、文学など)を、キリスト教にとっての異端――そこで得られる教養は現世的な快楽と誘惑をもたらすものと見るか、キリスト教と同じように真理を求める有用なものであると見るかで解釈が割れていた。
特に東ローマ帝国のギリシャ人教父は古代の学問に友好的であり、その研究を奨励したが、4世紀ほどになるとギリシャ哲学はキリスト教にとっての異端な学問という見方が優勢を占め、教会発展を妨げるヘレニズム文化はほとんど消滅、暗黒時代が続くことになる。
キリスト教会は、ギリシャの諸学派に議論で打ち勝つために洗礼志願者問答学校を作り、教会指導者や牧師たちに理論武装を試みた。この学校はやがて、司教管轄教会の牧師の養成機関となり、西ローマ帝国では将来僧職につく児童が通う司教座聖堂学校と呼ばれた。これは後に大学の原型となる。

修道院学校
キリスト教の僧侶には、修道僧在俗僧の2種類のタイプが存在する。
修道僧は特別な誓いを立てて厳格な規則に従って生活し、在俗僧は人々の生活に親しく関わって生活する。
前述の司教座聖堂学校は在俗僧の養成機関であり、一方の修道僧は修道院学校で学んだ。修道院学校は7世紀~宗教改革(16世紀)までの西ヨーロッパにおいては最も重要な教育機関であった。
ベネディクトゥス戒律によれば、修道院は神への奉仕の訓練のために組織され、修道士は修道院長の下に共同生活を営み、清貧と貞節と服従の3つの誓いを守る義務があった。
修道僧は、自らの労働によって農民の規範になり、職人に技術を教え、商人に商業を刺激し、貧しい者、悩み苦しむ者に避難所を提供し、湿地を開拓し公衆衛生と公共生活の社会資本を整えた。
戒律には一日2~5時間の読書が規定され、聖書と教父の著作の読むべき箇所が指定されていた。その結果、読書用の写本の筆写、文献研究などが行われ、修道院が学芸の保存を担った。
このように中世の修道院は、専門教育の場であるとともに、大学・出版局・図書館を兼ねた学術研究の唯一の機関となった。ただしこのような仕事は怠惰防止のための仕事に過ぎず、極めて貧弱で、無学の修道僧も多かった。

スコラ学
キリスト教神学は聖書中心から論理中心に変わっていく。かつて禁欲主義の砦だった修道院は、その勢力規模を拡大させるとともに、世俗化の傾向を辿り、カロリング朝崩壊後は政治的無秩序のどさくさに紛れて略奪の対象になってしまった。
10~11世紀には、堕落に陥った修道院改革が叫ばれ、そこでは熱心な宗教生活の追求だけではなく、かつて異端とされた古代の学芸を宗教的教義に役立たせるという理解の下、失われた文化の復興がなされた。
このような古代の学芸に対する関心の高まりは、教会勢力の新たな対応を迫った。11世紀中葉においてその対応は3つに分かれた。一つ目が異端扱い、二つ目が世俗の学問の介入を一切禁止、そして三つ目が神学――スコラ学の形成である。
スコラ学最大の特徴は、大学における教師と学生の質疑応答(議論=弁証法)や厳密な文献研究をベースに、教会の権威、教義の学問的根拠を目ざし、哲学と神学の一致を試みる点である。
スコラ学のパイオニア、ラバヌス=マウルス(カロリングルネサンスの立役者アルクインの弟子)は文法よりも弁証法を重視し、アイルランドの哲学者ヨハネス=スコトゥス=エリウゲナは異教徒著作家に対して寛容な態度を取り、彼もやはり弁証法の研究を重視した。
以後400年の長きに渡る実念論(イデア、概念、普遍的実在が唯一の実在)VS唯名論(普遍は存在せず、実在は個々の具体的事物に内在)の論争は、彼とともに始まったと言える。
この論争は、アリストテレスの哲学が教会に採用されたことと、哲学と神学、理性と信仰を切り離したオッカムによって、唯名論こそが自然と精神の探求に不可欠なものであるという見解が決定的となった。

宗教改革
16世紀、ルターが宗教改革において主張した福音主義と万人司祭主義は、全ての人が聖書を読めるように民衆教育の必要性を導いた。ルターは聖書をドイツ語に翻訳し、ドイツ語の読み書きを教える学校を多数設立するように呼びかけ、この学校で男女、貴賎を問わず子どもたちに1~2時間聖書とドイツ語の初歩を学ばせた。
自分の子どもを就学させる義務を親に課し、都市政府に就学の強制を求めたルターの主張は、近代の公教育制度を先取りしたものである。しかしルターは家庭教育の意義も認めていた。実際ルターは聖職者の独身主義の慣習を破り子どもがいた。
農民の先鋭機化に反対したルターは、従来の領邦教会の枠組みの中で宗教改革の実現を目指した。この牽引者をになった巡察官は国家主義的に各地の教会を改宗させ、プロテスタンティズムの学校を新設していった。
教育課程はラテン語の学習、宗教、音楽の3段階で構成され、教科書は指定、子どもは6、7歳で入学したあと、4~8年の教育が続き、選抜による第二段階の教育が制度化された。これらの多くの学校では庶民教育よりも聖俗の指導者育成の性格が強かった。
中等教育を担ったギムナジウムは6歳で入学する9年制の学校で、信仰と学識と雄弁が教育目的のもと、古典語の文法・読解、弁証法、修辞学、古典劇、アリストテレスの哲学、数学、天文学などが教授された。
ギムナジウムの他にも修道院学校や貴族学校が作られエリート養成が行われていた。この時代には大学改革も行われ、ルターの聖書神学を基本としたカリキュラムに改訂がされた。

カトリックの教育改革
プロテスタントの宗教改革を受けて、カトリックのイエズス会でも民衆への学校教育が重視されるようになった。イエズス会は教皇庁から学校設立と学位授与の権限を認められ、中等教育を軸とするコレージュを各地に設立した。
イエズス会は教員の養成に精力的で、その教育内容はヒューマニズム的な人間的教養よりは、異端を知り、彼らを説得するための教養が重視された。
教師は権威主義的で、生徒同士の競争も盛んであった。このようにコレージュは厳しいヒエラルキーを形成していたが、授業料が安く、熱心な教育で有能な人材を輩出していたので、世間の信頼を勝ち取った。
イエズス会と対立していたポート=ロワイヤル派は小さい学校と呼ばれる初等中等教育機関を設立、ラテン語を絶対視せずフランス語の教育の意義を認めた。
ラサール派はキリスト教学校同胞会を作り、カトリックの再興を目指し、貧しい子どもには無償の初等教育を実施した。

啓蒙主義
17世紀後半~18世紀のヨーロッパにおいて大きな潮流となった啓蒙主義は、人間の理性(光)によって旧来の伝統や慣習、権威(教会や封建主義)を厳しく批判し、無知や偏見、迷信(闇)から万人を脱却させるという、普遍的な理性的存在としての人間と、その無限の進歩の可能性に対して絶大な確信を抱く思想運動であった。
現実の経験を尊重しつつ、理性による吟味を通じて合理的・科学的態度を形成し、新たな人間や社会秩序の実現を目指す啓蒙主義は、元来教育への関心があったため、その下で多様な教育思想の展開が見られることになった。

ロックの教育思想
ピューリタン革命から名誉革命までの怒涛の時代のイギリスを生きたロックは、近代自由主義や民主主義に立脚した市民社会こそが人間の自然な本性の発現であると論じた。
ロックによれば、人間は自然状態においてすでに自由かつ平等であり、生命や行為の自由のほか財産の私有権も自然権として有すると主張した。
近代な市民社会を担う理想的な人間像を「勤勉にして理性的」な人間に求めたロックは、デカルトの生得観念説を否定し、道徳観念を含め人間のすべての観念は人間の経験に由来すると論じた。
この精神白紙説は、人間の信仰や道徳の根拠を神の存在に求める旧来の考え方から、自由で自立的な人間の知性を尊重する考え方に道を開いた。
この考えは教育思想にも適用され、外からなんでも書き込めるまっさらな素材としての子ども観を提供するとともに、自律した人間形成への配慮、権威や伝統といった束縛からの解放を訴えた。
自由や平等を重視したロックの教育論はあくまでもジェントリ階級を対象にしたもので(紳士教育論)、救貧法の対象とされた3~14歳の貧しい子どもには、労働学校での織物作業や宗教教育を施し、勤勉で従順な精神を養うことを提案している。

ルソーの教育思想
啓蒙主義の思想家は基本的に、人類の発展や文明を普遍的かつ肯定的に捉えたが、人間の歴史を自由で自己充足的な自然状態から不平等な社会状況に生きる転落の過程と捉えた思想家がルソーである。
ルソーは、著書『エミール』において、人間はもともとは善の状態で生まれてくるが、社会の制度や慣習によってその自然の善性が失われていってしまうため、それを守り育てていくことが教育の使命だと論じた。
したがって教育とは子どもの内発的な発達を、大人の干渉によって阻害するようなものあってはならず、子供の自主性を尊重した消極教育を行うべきだと考えたのである。ルソーは「何もしないことが最大の教育である」「徳を授けないで悪徳から守り、真理を教えないで誤謬から守る」と論じたが、子どもの発達段階に応じて諸器官の成長を促し、感覚の練習によって理性への道を準備するという意味では、積極的な教育メソッドであった。
さて、ルソーの目指す理想的人間形成とは、絶対的存在としての自然人と(自己のアイデンティティが自分自身の中にある)、相対的存在としての社会人(自己のアイデンティティが他者や社会の評価にある)のジレンマを克服できるような社会に生きる自然人であった。
絶対主義体制という社会の現実に対して、人間本来の自然性をどこまで回復するかという困難な問題に立ち向かった点においてルソーの近代教育思想家としての独自性がある。

新人文主義
18世紀末、ドイツを中心に、啓蒙主義における合理主義的、主知主義的、功利主義的傾向に対して反動的な運動が起きた。
理性を重視した啓蒙主義とは異なり、人間の各素質の調和が取れた全面的完成を理想とする人間探求が行われるようになった。そのモデルとして人間の知徳美の統一を目指した古代ギリシャの文化があった。これを新人文主義という。新人文主義は、普遍的な人間の純粋性と、代替なき人間の個性をどちらも尊重し、啓蒙主義の遺産を継承した上で、その一面的な理性主義を超克し、感性も含む一層豊かな人間理解と人間形成を目指した。

ペスタロッチの教育思想
農村へのマニュファクチュアの侵入によって旧来の共同体的状況が変わっていったスイスにおいて、経済的にも精神的にも荒廃した民衆に対し、人間性の救済と生活者としての自立を目指し教育活動を行ったのがペスタロッチである。
青年時代にルソーの思想に傾倒し、社会変革は政治的経済的なやり方ではなく、自主的自立的な人間の形成以外にはありえないと考えたペスタロッチは、貧富、貴賎を問わず全ての人々に教育を展開することになった。
ペスタロッチは、知的、心情的、身体的な諸能力を内在する法則に従って自然に調和させるという基礎陶冶、認識対象の本質を捉える直観を基礎として訓練を試みる直観教授という教育理論の下、ナポレオン戦争の孤児に対する教育活動を皮切りに、場所を移しながら、生涯教育実践を試みた。ペスタロッチに直接私事した者の中には幼稚園の創始者フレーベルがいる。

フレーベルの教育思想
19世紀、幼児の発見者と呼ばれるのがドイツのフレーベルである。
幼児期は人間や外界の内的本質を把握するための最初の出発点であり、後のあらゆる発達の基礎的段階であると考えたフレーベルは、大人社会への準備期間ではない、幼児教育固有の内容と方法を確立した。この理念のもとに生まれたのが幼稚園である。
フレーベルはルソーやペスタロッチの影響の他、キリスト教神秘主義の影響も受けており、神的なものが宿る人間の本性は善で無垢であると考えるとともに、子どもの生命に創造力の源泉を見出し、大人はこれを子どもから学ぶことによって、近代文明によって抑圧された全体的生命を取り戻すことができると論じた。
このような子ども観に立つフレーベルは、大人の積極的干渉によって子どもの神性を妨害せずに、受動的、追随的、保護的な教育によって子どもの神性を引き出さなければならないと考えた。
そこでフレーベルは、子どものための楽しい花園を作り、そこで子どもを自由に遊ばせることにした。力いっぱい自発的に、疲れるまで元気よく遊ぶ子は、必ず逞しい、他人の幸福と自分の幸福のために献身的に尽くす人間になると考えたのである。
さらに彼は自身が考案した遊具恩物を用いて、子どもの遊びを体系化しようとした。
今の積み木につながる恩物は、神を中心に万物が統一されることを目的に作られ、子どもの神性を顕現させるアイテムであった。このようにフレーベルの教育には神が中核に置かれているが、当時の教会には受け入れられず、プロイセン政府からも危険思想扱いされ幼稚園は禁止されてしまった。
ルソーに始まりペスタロッチ、フレーベルと受け継がれた子どもの権利を尊重し、自然本性の固有な発達を促す教育思想は、19世紀末~20世紀初頭にエレン・ケイ、デューイ、モンテッソーリなどによって新教育運動として発展する。

イギリスの近代教育制度の成立過程
近代的な教育制度の特徴とされる「公教育」とは、国家や地方公共団体に管理される教育を言い、厳密には近代特有のものではないが、近代になると教育における公教育の割合が飛躍的に増大したことから、公教育が近代の教育の特徴となっている事情がある。
18世紀末から見られた近代市民社会とは国家が国防と警察のみを行ない、市民は自由で自立した存在であるべきだという夜警国家であった。
つまり教育も私事として考えられ、当時の公権力は市民の教育には直接干渉しなかったが、同じく近代の市民社会で展開された基本的人権(教育権)はあらゆる人に適用されるべきものであるという考え(自然法思想)から、無償の義務教育制度が成立することになる。
イギリスでは16世紀までは宗教団体が管理する基金学校の形で文法学校が運営されていたが、近代になると富を蓄積した商人によって経営、運営されるようになる。
しかし信教の自由に基づいた俗人管理になったとは言え、この時代の文法学校は宗教と無関係に存在はしておらず、国教会による学校教育の統制など極めて政治的色彩が強かった。
文法学校では、下級中産階級のジェントリやヨーマンの子弟がエリート教育を受け、市長、判事、弁護士などになり国政に参加するようになった。彼らは下院の勢力となり、貴族階級とともに絶対主義国家を支えた。つまり16世紀中頃以降の文法学校は絶対主義国家が信奉する国教会により統制されており、絶対主義国家を支える人材の育成機関となっていたのである。
しかし16世紀末になると、文法学校による古典語偏重教育は、重商主義のニーズに合致せず国語教育が重視されるようになった。
そして17世紀中葉から非国教徒は実務的な教育を提供するアカデミーを設立、国語教育や自然科学教育を重視し、新しい中等教育機関として時代が要請する人材を排出するようになった。
イギリスではドイツほどに民衆教育政策を国家が積極的に展開せず、主に教会や慈善団体のボランティアがその役割を担っていた。そこでは宗教を中心に若干の読み書き、計算が教えられた。しかし絶対主義国家による民衆教育政策が全くなかったわけではなく、救貧法など国家への民衆教育への関与の兆しが見られた。
18世紀末になるとイギリスは世界に先立って産業革命を成し遂げ、児童や女性が労働力の対象になる機会は増加、これをきっかけに様々な教育が展開された。
おかみさん学校は夫婦共働きの家庭の子どもを対象に、婦人が授業料をとって家に子どもを預かり簡単な読み書きを教えた。この学校は極めて不衛生で、学校機関というよりは託児所に近かった。
授産学校・ボロ服学校は家庭崩壊によって生み出された浮浪児が強制的に入れられる学校で、躾や職業訓練がされた。
ロバート・レークスが始めた日曜学校は、就労児童を日曜日に収容して無償で宗教・道徳教育、簡単な読み書きを教えた。休日開かれるため週日の労働とバッティングせず、産業革命期に大きく発展した。
不就労の児童を対象にした週日学校は、少数の教師と少額の経費で多数の児童に教育を施した。ここではベルとランカスターが考案した、優秀な児童が教師の指示に従ってほかの児童に指導をする助教法を採用していた。
空想的社会主義のオーウェンが始めた幼児学校は労働者階級の幼児の保護と初等教育を行った。
以上の教育はどれもが私学であり、イギリスにおける教育への国家介入は、児童を雇う雇用主に教育を義務付ける1802年の工場法に始まり、公教育そのものは1833年の民衆教育機関に対する校舎設立のための国庫補助金制度で開始される。
イギリス史上初の中央教育行政機構は1839年の枢密院教育委員会で、これは1856年に教育局に昇格するが、クリミア戦争の影響で財政難に苦しむ政府は、生徒の出席状況と読み書き計算の試験結果によって補助金額を決定する出来高払い制度を導入した。この制度は経済学的な自由競争の原理を教育に持ち込んだものであるが、読み書き計算以外の教育のおざなり、試験における不正、教員の質の低下などが表れ批判が相次いだ。
そこで1870年にフォスター法が作られ、学校委員会の設置、小学校教育の世俗化、5~13歳の子どもへの就学強制など、政府による近代的な公教育制度が不十分ながらも実施された。フォスター法で残った課題の無償教育と義務教育は1876年法、1880年法、1918年のフィッシャー法などによって徐々に改善された。
こうして、イギリスの近代公教育制度はボランタイリズムの伝統によって取り組みが遅れたものの、19世紀末にはほぼ成立した。
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