外国史各論2(西洋史)覚え書き

参考文献:木下康彦、吉田寅、木村靖二 編『詳説世界史研究』、中井義明 、佐藤専次、渋谷聡、加藤克夫、小澤 卓也 著『教養のための世界史入門』、まがいまさこ、堀洋子著『いちばんやさしい世界史の本』

古代ゲルマン社会と民族大移動
ゲルマン民族とはケルト人と言語的にも種族的にも異なる、インド=ヨーロッパ系のゲルマン語を喋る民族の総称で、寒冷化などによって現住地のスカンジナビア半島南部、デンマーク、北ドイツから南下し、紀元前200年頃には黒海に達した。
ローマとは紀元前2世紀以降接触、交易を行なったり、傭兵になったり、ローマに平和的に移住したりしていた。9年のトイトブルクの森の戦いでゲルマン民族がローマを破ると、ローマとゲルマンの境界はライン川とドナウ川になった。
この時のゲルマン民族の居住地域はゲルマニアと呼ばれ、小部族国家が50あまりあり、一人の王、もしくは数人の首長が支配していた。身分は貴族を含む自由民と奴隷に別れ、重要事項は武装能力のある成年男子の自由民からなる民会で決められた。ゲルマン民族は都市で暮らさず、鬱蒼とした森の中の沼沢池で暮らした。
彼らはケルト民族と違い、特権的な神官身分がなく宗教儀礼は年に3回行われる供儀祭であった。彼らはオーディンやトールといった人間とはかけ離れた形の神を崇め、トールにはヤギ、オーディンには人間が生贄に捧げられた。
2~4世紀にはゲルマン人の小部族国家は戦争や移動によって消滅し、それぞれの部族は離合集散を繰り返しその規模を拡大させていった。
4世紀になると、ゲルマン人は、ゴート族、ヴァンダル族、ランゴバルト人などが含まれる東ゲルマン、フランク人、ザクセン人、バイエルン人などが含まれる西ゲルマン、ノルマン人(後のバイキング)が含まれる北ゲルマンの3つに大きく分類されるようになる。
375年ロシア南部から西へ攻めてきたアジア系騎馬民族のフン族によって黒海の北にあった東ゴート族が征服されると、その西にいた西ゴート族がローマ帝国に移住を求め、ライン川を渡って大挙して押し寄せてきた。これがきっかけになり、諸ゲルマン民族が相次いでローマ帝国領内に侵入、この大移動は6世紀末までの約200年間も続いた。
西ゴート族はローマ帝国にトラキア(バルカン半島東部)への定住を認められたが、反旗を翻しギリシャやイタリア半島に侵入410年ローマ市を略奪した。西ゴート族はその後南ガリアに定住し、王国を築いたが、6世紀初めフランク族に敗れると王国をイベリア半島に移し、トレドを首都とする西ゴート王国を作った。
ヴァンダル族はカルパティア山脈やオーストリア(シュレジエン)から406年ライン川を渡りローマ帝国に侵入、イベリア半島へ進み、429年にジブラルタル海峡を渡って南下、カルタゴを占領して北アフリカと地中海を支配した。
フン族に支配されていた東ゴート族はその支配から脱し、東ローマと手を組んで西ローマ帝国を滅ぼしたゲルマン民族の傭兵隊長オドアケルを493年に破ると、イタリア半島に王国を作った。この東ゴート王国はゲルマン諸王国で指導的な役割を果たした。
これら東ゲルマンが作った国家は部族的な伝統を早くに失い短命で終わったが、西ゲルマンのフランク王国は部族的伝統を維持しつつ、10世紀まで続いた。
ほとんどのゲルマン民族は、キリストを神と同一化しなかったため後に異端とされるアリウス派のキリスト教を信仰していたが、5世紀後半にフランク王国の国王クロヴィスが、カトリックに改宗したことでローマ教会と接近、後のフランス王国の基礎を築き、西ヨーロッパのカトリックの発展につながった。

封建制度
中世ヨーロッパのフランク王国には首都が存在せず、中央行政は王国各地にある王宮で行われた。地方の統治において重要な役割を果たしたのが、俗人貴族から選ばれた伯(グラーフ)と呼ばれる地方官で、彼らは王の勅令の公布、貢祖の徴収、軍隊の召集、裁判の主催など地方行政を担当した。
メロヴィング朝末期~カロリング朝にかけてフランク王国は国内で独立しかけていたバイエルン、アキテーヌ、プロヴァンスなどや、近隣のフリーゼン人、ザクセン人、さらに進入してきたイスラーム勢力に対抗するため、高速で各地を転戦できる軍事力の増強を必要とした。その結果多数の騎兵が創設され、宮宰カール・マルテルは騎兵の装備に必要な土地を家臣に恩貸地として給付した。
これはやがて慣習化し、カール大帝(シャルルマーニュ)の時代には国家的制度としてフランク王国全体に普及した。家臣が主君から恩貸地を受ける代わりに、軍事的な忠誠を誓う、この制度は封建制(レーエン制)と呼ばれ、大量に創出された騎兵の家臣団は、カール大帝の時代における連年の征服戦争を可能にした。
またこの時代には古典荘園制という農業経営組織が出現した。その特徴は、領地が領主直営地農民保有地に二分され、保有地を持つ農民が週3日直営地を耕作することで(残りの3日は自分の保有地を耕作。日曜日は安息日)、その二つの土地が有機的に結合している点である。
古典荘園制以前は、マンキピアと言う直営地で労働を義務付けられた奴隷に近い非自由民、コロニと呼ばれる領主から土地を借り受けた自由農民の2種類の農民が存在したが、カロリング王権の支配が根付く頃には、マンキピアに保有地を貸与し、コロニを領主への隷属関係に取り込むことで、マンスと呼ばれる経営単位を基準とする農奴身分に統一がされた。
つまり、奴隷的非自由人の社会的地位は上昇し、自由保有民の社会的地位は下降したのである。カール大帝はマンス制を王国全土に広め、安定した貢租と賦役労働を確保し王国の財源をより強固なものとした。
また当時の荘園は自給自足的な現物経済が主流と言われていたがイスラーム世界から銀が流入したことでディナリウス銀貨の鋳造が進み、カロリング朝の農村では貨幣経済が浸透していたようである。

新航路の発見
15世紀末以来の数世紀は大航海時代と呼ばれる。十字軍以来ヨーロッパと東方世界との接触が活発化し、ヴェネチアを中心とするイタリア商業都市の東方貿易は、大きな富と東方の知識をヨーロッパにもたらした。
イスラム世界からは実用化した羅針盤や発達した造船技術などが伝えられ、ヨーロッパの航海術は発展、また、ルネサンスの学術は地理学的な知識を提供した(トスカネリの大地球体説に基づく地図など)。
15~16世紀はオスマン帝国がアジア、アフリカ、ヨーロッパにまたがる広域を支配していたので、従来の東西貿易路はほとんど押さえられていた。そこでヨーロッパは生活必需品だったアジアの香辛料をオスマン帝国を介さず、新しい航路で調達しようと試みた。このような経済的動機の新航路の探検は中央集権化した西欧諸国の王の支援のもと行われた。彼らはアジア諸地域との貿易や植民地の獲得によって一攫千金を狙ったのだった。
新航路開拓を先駆けて始めたのはポルトガルとスペインで、ついでオランダ。その後遅れをとってフランスとイギリスが続いた。
レコンキスタ運動でいち早くイスラームを駆逐し中央集権国家となったポルトガルは、バスコ=ダ=ガマの航海を支援、彼は喜望峰を回りアフリカ経由でインドに到達する。この功績によりポルトガルはアジアに大々的に進出し、香辛料貿易で莫大な富を築いた。
カスティリャ王国とアラゴン王国が合体してできたスペインは、1492年の1月、イスラム勢力最後の拠点グラナダを陥落させレコンキスタを完了。カスティリャ女王イサベルは、このレコンキスタをさらに海外にまで展開する目的で、コロンブスの大西洋横断計画を支援する。コロンブスは当初、太西洋を横断すればインドや中国、日本に到着すると思っていたが、カリブ海の島に上陸し、これをインドと勘違いする。
この新大陸発見によって、スペインはアメリカに進出し、先住民を武力で制圧、ローマ教皇のお墨付きをもらって植民地化を試みるが、これに抗議したポルトガルとのあいだで1494年トルデリシャス条約が結ばれ、南米ブラジルはポルトガル領となった。
ポルトガルに雇われ、ブラジル海岸を調査したアメリゴ=ヴェスプッチは、自身の著書『新世界』で新大陸の発見者とみなされたことから、彼の名が新大陸の名前となった。
実際には、コロンブスの方がアメリゴ=ヴェスプッチよりも早くアメリカには到達したのだが、当のコロンブスは自分が到達した場所はあくまでもインドだと思っており、アメリカが大陸であることを最初に指摘したのは彼だったのだ。
世界一周を初めて達成したのは、スペイン王カルロス一世の支援を受けたマゼランの探検隊だが、マゼラン自身はフィリピンに到達した際に現地の紛争に巻き込まれて死亡している。5隻の船、280人の乗員で旅立ったマゼランの探検隊だったが、祖国に帰ってくる頃には船は1隻、生き残ったものはたったの18人だった。この命懸けの冒険で地球が丸いことが実際に立証された。
アメリカ大陸のスペインの探検事業は次第に征服事業に発展、これはコンキスタドールという勇敢で残虐な男たちによって進められた。彼らはアステカ王国やインカ帝国を滅ぼし、中南米一帯を支配、重労働と殺戮、ヨーロッパ人が持ち込んだ疫病などによって先住民を激減させると、新たな労働力として黒人奴隷を連れてきた。
メキシコ、ペルーの征服は莫大な金銀宝石をスペインにもたらし、1545年にはボリビア高地で無尽蔵の銀鉱脈が発見、インディオの強制労働によって安価に採掘された。このように16世紀末までには2万トンにものぼる大量の銀がアメリカからヨーロッパに流れたのである。しかしこの安価な銀によってヨーロッパの経済はインフレとなり、南ドイツの銀山を所有していた富豪や、地中海貿易で活躍した南ヨーロッパの商業資本の没落を早めることになった。

絶対王政
15~18世紀のヨーロッパでは、封建制度の行き詰まりによる領主の没落、十字軍失敗による超国家的権威としての教皇権の衰退、イタリア戦争などの諸国家間の覇権争いを通じて、各国の国内の一元的支配が強められ、内外に対する絶対的権力として主権国家が形成された。当時力をつけつつあった市民階級(ブルジョワ)も単独で政治を動かす力は無かったため、権力は王の一人勝ち状態で、その絶対的権力は王権神授説によって正当化、このような体制を絶対王政という。
絶対王制成立のプロセスには二つの説がある。一つ目が15世紀頃から衰退を始めた領主(貴族)たちが領内の市民や農民に対抗するためその権力を国王に集中させたという説、二つ目が没落した封建勢力と、勃興した市民階級の勢力が拮抗したので、国王がどちらにつくかで物事が決定したという説である。
絶対王政期の国王は、封建貴族より下の市民階級から人材を登用して官僚制度を作り、封建契約で従えていた軍隊に代えて、賃金で雇った常備軍を設置し、近代的な国民国家の統合を試みたが、貴族や聖職者の特権も依然として残っており、国王自らがそれらに依存することもあった。
つまり絶対王政における国王の専制政治は、見かけ上は強力なものに見えたが、現実には危ういバランスの上に立つ、過渡的な性格のものだった。そのため国王は自分の支配権は神によって与えられたという王権神授説によって、自らの統治を正当化する必要があったのである。
絶対王政では官僚制と常備軍のための莫大な財源を確保するため、重商主義という経済政策が採られた。これは金銀こそが富で、これを蓄えることが経済発展であるという考え方であった。重商主義ではとにかく貿易収支の黒字を目指すため、輸出が推進され、逆に輸入は抑制される(貿易差額主義)。この重商主義によって国内産業が保護されたので、資本主義という経済体制の誕生が早まることになった。また、各国は貴金属や商品作物の供給源を海外から確保するために競って植民地を求め、ヨーロッパ各国で重商主義戦争が勃発した。
さらに、絶対王政は治安を維持するため、物価の安定、失業対策、労働環境改善といった多くの社会政策を採用し、国民の生活に介入した。絶対王政が後の福祉国家の先駆だとする見方もあるのはこのためである。こうした政策は資本主義の発達を促進したが、それを阻害する側面も持っていた。

ピューリタン革命
テューダー朝のエリザベス1世が未婚のまま亡くなると、1603年スコットランド王のジェームズ6世がイギリスの王位に即してジェームズ1世となり、スチュアート朝を始めた。これによりイギリスとスコットランドは同君連合になったが、国家自体は別個の王国だった。
ジェームズ1世の即位直後、カルヴァン主義的なプロテスタントであるピューリタン(ピュアな人、浄化する人という意味)が次第に経済的に豊かになるとともに勢力を増やし、イギリス国教会の改革と政治への発言権を求めた。一方のカトリックはメアリ1世の時代への復帰を目指していた。
しかし外国人の王であるということから国内支持基盤がもろかったジェームズ1世は王権神授説を貫き、イギリス国教会主義を徹底、あらゆる種類の非国教徒に弾圧を加えた。
これを受けてカトリック教徒の不満分子は国王暗殺を計画するなど(火薬陰謀事件)、宗教上の対立は政治的対立と密接に結びついて問題は複雑化した。
ジェームズ1世の息子チャールズ1世の時代ではさらに専制を強化、これを受けて1628年議会は、議会の課税承認権や、脱法的な逮捕や投獄をやめさせる権利の請願を提出した。すると王は議会を解散、以後11年議会を開かず専制政治を行った。
チャールズ1世はロード=ストラッフォード体制により、国家と国教会の結びつきを強化し、国民の不評を買い、さらにカルヴァン派の強いスコットランドに国教を強制したことで反乱が勃発、戦費調達のために議会を再び開かざるを得なくなった。
しかし議会は課税を拒否し、国王を厳しく批判し合っため、3週間で議会は解散され、新たな議会を開いたが対立は深刻化、42年議員を逮捕しようとして失敗したチャールズ一世はヨークに逃げてイギリスは内乱状態になった。
この内乱は初めは王党派が有利だったが、やがて議会派で頭角を現したオリヴァー・クロムウェルがピューリタン信仰の鉄騎隊を率いてマーストン=ムーアの戦いで形成を逆転させ、ネイズビーの戦いでついに王党派を破った。
しかし内乱に勝利した議会派内部において独立派と長老派の対立が起きた。クロムウェルは、チャールズ一世と妥協を提案する長老派を議会から追放、処刑し、共和制を打ち立てた。この一連の流れがピューリタン革命と呼ばれる。
国王の処刑後、クロムウェルは新政府の中枢に立って、君主制や上院を廃止して民主化を進める一方、カトリック教徒と王党派の拠点であるアイルランドを征服し、その植民地化のきっかけを作った。
また航海法によるオランダへの中継貿易妨害によって起こった第一次英蘭戦争で海外における威信を強めた。クロムウェルは終身護国卿となって軍事的独裁権を握り、劇場などの娯楽施設を禁じるなど厳格なピューリタリズムを国民に強いたが、58年にインフルエンザをこじらせて病死、跡を継いだリチャードが無力だったため、護国卿政治は崩壊した。

アメリカ独立革命
1620年、信仰の自由を求め北アメリカに移住したイギリスのピューリタンは、過酷な環境で生き抜くためにイギリス本国以上に強い自治意識を抱くようになり、古代アテナイのような市民による直接民主制を発達させた地域もあった。
18世紀前半までには、アメリカ東海岸には13のイギリス植民地が形成され、各植民地には住民代表による議会が設置された。また黒人を中心とする奴隷制度に支えられたプランテーション農業や海上での仲介貿易も発達し、イギリスから自給自足で独立する道を歩んだ。
しかし本国イギリスは海外植民地のさらなる拡大を目論み、アメリカ13植民地に対して支配権を強化したため、自立心のある植民地人の反発を買った。本国による砂糖や紅茶などの自由な交易、印刷物の課税の強制は、植民地の反イギリス的論調を増大させ(代表なくして課税なし)、1773年にはボストン港に停泊した東インド会社の商船を植民地人が襲撃するというボストン茶会事件が起こった。
イギリスはこのような植民地人に対して自治剥奪や軍事的圧力を試みたが、植民地側は第一回大陸会議を開催、13植民地が団結して本国と対峙することを誓った。
この対立は武力衝突を生み、1775年にアメリカ独立戦争に発展、植民地側はジョージ・ワシントンを総司令官に立てイギリス軍と戦い、愛国派のスローガンのもと、ついに独立を果たした。
世界最強と言われた当時のイギリス軍を破った背景にはトマス・ペインのベストセラー『コモン=センス』や、避雷針で有名なフランクリンがこぎつけたフランスからの軍事支援があった。
1776年に出されたアメリカ独立宣言はイギリスの市民革命の影響を受けたジェファーソンたちが起草、特にロックの影響(近代自然法)が強く「自然権(私有財産所有権有り)」「信託による政府の設立(社会契約)」「革命権」などが主張されている。
アメリカの独立はアメリカ革命とも呼ばれる。植民地が本国から自分の権利を守っただけの保守的な行動で真の革命でないとする見方もあるが、アメリカの独立は本国イギリスとの闘争であると同時に、植民地人の間の闘争でもあった。イギリスに忠誠であろうとした植民地人は本国やカナダに移住し、その財産が没収されたことで、植民地の富裕階級の数は相対的に減少、また植民地には本国のような農奴や領主、貴族、特権的教会は存在しなかったことから中流階級が力を伸ばした。
アメリカ革命はイギリス革命、フランス革命とともに市民革命としてまとめられるが、貴族的な地主が主導したイギリスや、広域な階層が参加したフランスとは異なり、アメリカの革命は小農・大地主・地方弁護士などが主体となった革命であった。アメリカ革命によって初めて近代政治思想の生存権、自由権、平等権、社会契約説を基盤とする近代国家の実現が宣言され、その後の近代民主主義思想や国民主義の発展が規定された。その点においてアメリカの独立はフランス革命と並ぶ大きな世界史的意義があった。

産業革命
18世紀後半からイギリスでは、生産活動に機械や動力を導入する工場製機械工業が展開され、これにより革命的に経済や人々の生活といった社会構造が劇的に変化、劣悪な労働環境で働く労働者が激増した。
都市にはスラムが広がり、この対策に当たったトインビーは、貧困、病気、犯罪は「産業革命」の弊害と呼んだ。しかし産業革命は、生産力を高め伝統的社会の貧困を解消する一面もあり、現代型の社会が生まれるきっかけでもあった。
産業革命は農業社会に変わって工業社会が出現したという意味で工業化とも呼ばれ、これまでの商人や農業経営者に代わって、工業経営者が有力な資本家になる産業資本主義の時代が到来したのである。
工場都市による大量生産は、熟練の技術を持つ職人やギルドを必要とせず、経営者は賃金の安い女性や子どもを大量に雇うことになる。職人への弟子入りがなくなったことで早婚の傾向が早まり、これが激しい人口増加の一員にもなった。
最初の産業革命がイギリスで起こった一つ目の原因は、7年戦争によってフランスを退けたイギリスが世界商業の覇権を握り、広大な植民地帝国を形成したという対外的なものである。イギリスは本国と西アフリカ、カリブ海・北米を結ぶ三角貿易を行っていたが、その際の莫大な収益が産業革命の資金源になるとともに、アフリカへの輸出品には綿布、カリブ海からの輸入品には綿花があったため、奴隷貿易の中心マンチェスター周辺に原材料の綿花を綿布に加工する綿工業が発達したのである。
二つ目の原因が、早くから第二次囲い込みや、ノーフォーク農法(17世紀に開発された冬に家畜用の餌としてカブを栽培する農法)などの新農法の開発が進んでいたイギリスの国内事情である。
農作物の生産量が上がったことと、ジェンナーの種痘法(天然痘の予防接種)など医療が向上したことにより、18世紀中頃から人口が急増、工業化を支える労働力を提供した。
土壌の性質上、農業改良が困難だった西北部では、すでに18世紀中頃までに毛織物業を中心としたマニュファクチュア(工場製手工業)が成立し、工業生産の伝統が築かれていた。
アイルランドでは、同じ面積で小麦の4倍収穫できるジャガイモがアメリカからもたらされ、18世紀末に人口が増加(ロンドンでは「貧民の食品」と敬遠された)、1801年にアイルランドがイギリスに併合されると、職を求めて多くのアイルランド人がイギリスに流入した。
この他、禁欲と勤勉を勧めたプロテスタントの信仰(ピューリタニズム)や、科学革命による自然科学の発達など、知的、精神的な条件も整えられ、決まった時刻で働く近代的な労働者と、合理的な経営を行う経営者が生み出された。
時間給の定着は、労働の時間とレジャーの時間の分離をもたらし、労働者はオフにはパブに集まって飲酒を楽しんだが、工場経営者はこのような習慣を非難し、旅行、読書、音楽といった上品な娯楽を強制、対立が起きた。
イギリスにおける産業革命は前述のとおり、綿工業の技術革新から始まる。1733年、ジョン・ケイが毛織物工業のために発明した飛び杼(織物を織るためのローラー)が、綿工業にも転用され、綿布を織る効率が上昇、このため生糸不足が起こり、これを解決するためにジェニー紡績機(ハーグリーヴスが発明)、水力紡績機などが導入。水力紡績機はやがて蒸気機関に接続され、その能率は飛躍的に向上した。
紡績部門の革新は1779年にクロンプトンによって開発されたミュール紡績機(ミュールとはウマとロバの雑種)によって一段落するが、織布部門での機械化は(カートライトの力織機などがあったがものの)、それほど急速には進まなかったので、多くの手織り工が必要とされた。彼らは労働者の参政権(普通選挙)を求めるチャーティスト運動で活動する。
この時代の経済や社会に最も大きな影響を与えたのは、重工業や交通手段の進歩である。18世紀初頭、ダービーによってコークスによる製鉄法が開発され、イギリス国内では枯渇しかけていた木炭から、豊富にある石炭へ工業料燃料が転換した。これに伴い鉄の生産量も増えて、鉄製の機械が普及した。
17世紀ニューメコンによって開発された炭坑用蒸気機関はワットによって改良、炭坑の他、紡績機にも取り付けられた。
価格の割に重い鉄や石炭を運ぶための交通手段も次々に開発され、マンチェスター周辺の運河は石炭の運搬にその力を発揮、1825年にスティーブンソンが試作した蒸気機関車は、急速に全国に普及し、19世紀後半には鉄道技術がイギリスによって重要な輸出品となる(イギリスは1825年に自国の機械の輸出を解禁)。
イギリスの産業革命は1859年前後にはほぼ完成し、1851年にはその発展の成果を海外にアピールするロンドン万国博覧会が開催された。
これはイギリスによる世界支配、パクス=ブリタニカを象徴する式典であったが、やがてドイツとアメリカが相次いで工業化を成し遂げると1870年代にはイギリスは世界の工場としての地位を失った。

ナポレオンの台頭
ナポレオンは『ゴッドファーザー』で有名なコルシカ島の貧しい貴族の家に生まれ、パリの士官学校に入って軍人になると、フランス革命において王党派の反乱(1795年)を鎮圧したことが評価され1796年にイタリア軍遠征の司令官に任命される。
フランス革命(=国王の処刑)が自分たちの国にも広がるんじゃないかと警戒した周辺諸国は第1回対仏大同盟を結成していたが、ナポ率いるフランス軍はイタリア遠征においてオーストリア軍を撃破。これによりナポは一躍英雄となる(高価な戦利品を革命の混乱で貧しかった祖国にめちゃくちゃ持ち帰った)。
ナポは次に最大最強の敵イギリスを攻略するために、イギリスの植民地貿易の中継地であるエジプトをその支配下に置こうと遠征に出かけた。あと純粋に遺跡を考古学的に探検したかった(古代エジプトの象形文字解読につながったロゼッタストーンはこの時発見)。
しかしアブキール湾の戦いでイギリスに敗れた上、第2回対仏大同盟が結ばれたことを知ったナポは、エジプトに軍隊を残したままフランスへ戻り、ふがいない総裁政府を倒し1799年、自身が独裁体制を取る総統政府を樹立した。フランス革命は一応ここまでとされている。
独裁者となったナポは、1800年に現在の中央銀行であるフランス銀行を設立し、フランスの通貨を統一すると、翌年の1801年にはローマ教皇と和解、フランス革命では徹底的な政教分離を推し進めていたが、とりあえずカトリックやその他宗教を寛容に認めることにした。現在のフランスでも信者の数はローマ=カトリックが人口の8割を占め最も多いという(でもそんな熱心じゃない)。
1802年、アミアンの和約でイギリスと休戦したナポは、国民投票によって独裁者の夢終身統領になる。
そして1804年にナポレオン法典を制定する。これはフランス革命の思想を定着させるために作られたもので、私有財産の不可侵や契約の自由、家族法などが規定されている。ナポ自身も「自分がしたことで一番歴史に残ると思うのは、40回に及ぶ戦争での勝利ではなく、このナポレオン法典だ」と語っている。実際ナポレオン法典は後の民法の規範になっている。
また、この時ナポレオンはフランス皇帝に即位、これにより第一共和政が終わり第一帝政の時代になる。
皇帝という地位は世襲制なので、これじゃあ民主主義じゃない、なんだったんだフランス革命ってなるんだけど、自由と平等を愛するナポはそこらへんもちゃんと心得ていて、皇帝に即位する際にもやっぱり国民投票を行っている。そして圧倒的大多数の賛成を受けて、“民主主義的に”民主主義的じゃない皇帝になってしまった。ここらへんヒトラー的。
ちなみに音楽家のベートーヴェンは最初はナポの大ファンで「ナポ」というタイトルの曲を作っていたが、調子に乗ったナポが皇帝になると、怒りのあまり楽譜の表紙を破いてタイトルを「英雄」と変更してしまった。
とはいえ、数々の国に戦争を仕掛けたナポレオンは皇帝である前に生粋の軍人だった。1804年には軍隊の携帯食料が腐らないアイディアを一般公募(賞金額12000フラン≒300万円)していて、そこでニコラ・アペールが缶詰の原型となる食料の保存方法(食料を瓶詰めしてコルクで密封)を考案している。

ナポレオン帝国とその崩壊
ナポが皇帝となったことに危機感を抱いた周辺諸国(イギリス、ロシア、オーストリアなど)は第3回対仏大同盟を結成。1805年ナポはイギリス本土に乗り込もうと艦隊を出撃させるが(トラファルガーの海戦)、ネルソン提督率いるイギリス艦隊に敗れる。トラファルガーはフランスとイギリスを結ぶドーバー海峡・・・じゃなくて、スペインの方のジブラルタル海峡の方にある岬の名前。
しかしその二ヶ月後のアウステルリッツの戦いではロシアとオーストリアを撃破(アウステルリッツはチェコモラヴィア地方の町)。
ナポレオンは1806年7月ライン同盟を結んで、長いことあった神聖ローマ帝国を滅ぼしてしまう。
さらにプロイセンとロシアとで締結したティルジット条約によって、プロイセンの半分はナポに奪われてしまった。その奪ったエリアにワルシャワ大公国を作りフランスの支配下においた。これは祖国の主権回復を期待してフランスに逃れていたポーランド人の支持をうまいこと利用していたが、ナポが失脚するとたった10年弱であっさりなくなってしまった。
ナポレオンは自分の兄を南イタリアナポリとスペインの王様に、弟をオランダ王にしてイギリス、ロシアを除くヨーロッパ全土を家族経営的に支配してしまった。
自由と平等の精神(と短期間の平和)をヨーロッパ各地にもたらしたナポレオンの大帝国だったが、皮肉にもその精神によってナポレオン支配に抵抗する民族意識が高まることになった。
1808年、まずスペインで反乱が勃発、泥沼のゲリラ戦に発展し(半島戦争)、領土を取られたプロイセンも打倒フランスを目指し立ち上がった。
ちなみにロマン主義の画家のゴヤが描いた(最近では違うという説があるが)進撃の巨人みたいな絵画は、この頃のスペイン人の心情を表現していると言われる。
ナポレオンはイギリスに経済的打撃を与えるために大陸封鎖令(ベルリン勅令)を出すが、イギリスに穀物を輸出し、イギリスから生活必需品や工業製品を輸入していたロシアが大陸封鎖令を破ったため、ナポレオンは60万もの軍勢でモスクワに遠征する。
しかしロシアはでかい上に寒いので、東に逃げながら焦土作戦を取るロシア軍を追って補給路を絶たれかけたフランス軍は散々な目にあい大失敗。
さらに1813年のライプチヒの戦い(諸国民戦争)でプロイセン&オーストリア&ロシアの同盟軍に敗れると、ナポレオンは退位してエルバ島(イタリア半島とコルシカ島のあいだにある小さな島)に島流しにされる。

ナポレオンの百日天下
ナポレオンがいなくなったフランスではルイ16世の弟ルイ18世が王位についてブルボン王朝が復活した。マジでなんだったんだフランス革命。
しかしルイ18世がまた国民に人気がない王様でヨーロッパ情勢はグダグダになった。これを知ったナポレオンはエルバ島を脱出、ルイ18世はフランスに侵入したナポを捕らえさせようとしたが、そのために派遣した軍もナポレオンに寝返り、ルイ18世はベルギーに国外逃亡、パリに入ったナポレオンは再び皇帝になった。
ちなみにエルバ島時代(1814年5月~15年2月)にナポレオンは最愛の前妻ジョセフィーヌを亡くしている。彼女とは子どもができず、1810年に別の女性(オーストリアハプスブルグ家のマリ=ルイーズ)と策略結婚するために多額の慰謝料(マルメゾンの宮殿含む)を支払って離婚しているが、ナポレオンは生涯彼女を愛し続けていたという。
さて、周辺諸国は、ナポレオン復活しちゃったよと第5回対仏大同盟(数え方によっては7回になる)を結成、1815年イギリスはワーテルローの戦いで敗北し投降してきたナポレオンを、今度はヨーロッパからかなり遠い南太平洋の孤島セントへレナ島に送った。
その島でナポレオンは1821年に生涯を閉じたが、死んだら死んだで、人々はやっぱりナポレオンってすごかったんじゃないかと再評価しだした。これがナポレオン伝説である。
虚栄と野心の独裁者は、善き皇帝、革命を世界に輸出した真の愛国者に姿を変え、1840年イギリスはナポレオンの遺体をパリに移すことを許し、現在ナポレオンはルイ14世が建てた廃兵院のドームに安置されている。
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