奈良時代覚え書き

奈良時代の概要(710年~794年)
律令制を継承し、仏教中心の社会を作ろうとした。が、大仏を作るための大増税や飢饉で農民の生活は極めて不安定だった。また、平安時代に活躍する藤原氏が勢力を増大させようと頑張るが、この時点では全然磐石ではなく、ライバル(主に皇族)と激しい政争を繰り広げた。

元明天皇
710年に都を藤原京から平城京へ移した天皇で、天智天皇の娘。
和同開珎の鋳造もこの人が行わせている。これは、平城京を建ててくれた人に対価として支払うために発行されたもので、711年には蓄銭叙位令によって流通の促進を試みたものの、平城京や畿内(大阪、京都、奈良)以外ではあまり流通しなかった。

平城京
唐の都の長安をモデルに条坊制で作られた。
条坊制とは風水に基づき、東西と南北に走る道路で碁盤の目状に都市を区画する方法。
X座標が一~四坊大路(平城京には実は七大路まである)で、その中央には朱雀大路が南北に走り左京と右京を分けている。Y座標が一~九条大路。
朱雀大路の北に天皇の住まいの平城宮がある。平城宮には天皇が生活する内裏や、政務と儀式の場所の大極殿、朝堂院、二官八省の官庁が霞ヶ関的に置かれた。

官道と駅家
地方から平城京へ続く幹線道路を官道といい、16キロごとに官吏の駅家(うまや)が置かれた。
馬に乗って急行する公務員(駅使うまづかい)が使う施設(宿泊所、食堂、厩舎)なので、決して現代の道の駅的なものではない。
官道からは支線道路の伝路が引かれ、郡家に通じていた。

国府
地方政治の中心地。政務や儀礼を行う庁舎の国衙(こくが)、や役所や倉庫、国司の居館などがあり、付近には国分寺があった。

南都七大寺
代表的な七つの官立の大寺院のことで、朝廷から保護された大安寺、元興寺、薬師寺、興福寺、東大寺、西大寺・・・そして平城京からちょっと遠いけど斑鳩の法隆寺(法隆寺の代わりに唐招提寺にする人もいる)の七つ。

藤原不比等
飛鳥時代に大宝律令を作った人で、娘の宮子を文武天皇に嫁がせ、さらに文武天皇と宮子の息子(この子がのちの聖武天皇)にも、別の奥さんとのあいだにできた娘の光明子を嫁がせることで、その政治的主導権を固めていった。
藤原氏は天皇家と密接な関係があるものの皇族ではなく、大化の改新に貢献した中臣鎌足が、朝廷から「藤原」の姓を賜ったことで代々受け継がれていった。
ちなみに『竹取物語』において、かぐや姫におねだりされた宝物を偽物でごまかした車持皇子(くらもちのみこ)はこの人らしい。

長屋王の変
皇族でもない藤原氏が気に入らなかったのが、聖武天皇時代の左大臣で、天武天皇の孫の長屋王だった。
自分の娘の光明子を皇后にしようとする藤原不比等を、皇族の慣習を破るものだと批判、藤原不比等が亡くなると政治的主導権を藤原氏から剥奪した。
これに反発したのが、藤原不比等の子どもたちで、武智麻呂(むちまろ)、房前(ふささき)、宇合(うまかい)、麻呂の四兄弟は、729年に長屋王が呪いの力で謀反を企てているといいがかりを付け、居城を包囲、長屋王を服毒自殺させた。これを長屋王の変と言う。

橘諸兄(たちばなのもろえ)
長屋王を倒した四兄弟は祟なのか呪いなのか天然痘によってまとめて死んでしまう。
これにより主導権を握ったのが皇族の橘諸兄だった。
橘諸兄は、唐から帰国した学者、吉備真備(きびのまきび)と、僧侶の玄昉(げんぼう)を重用した。

藤原広嗣の乱(ふじわらのひろつぐのらん)
橘諸兄の人事に納得がいかなかった藤原広嗣が九州北部の大宰府で兵を挙げた乱。
結局鎮圧され、藤原家の勢力はさらに縮小した。

聖武天皇
こういった度重なる勢力争いにうんざりしていたのが平和主義者の聖武天皇だった。
蔓延する疫病や飢餓の発生にも心を痛め、首都を平城京から恭仁(京都)→紫香楽(滋賀県)→難波(大阪)と約1~3年周期で次々と移しながら、仏教で世の中を安定させる鎮護国家の思想のもと、国分寺や国分尼寺を諸国に作らせた。これを国分寺建立の詔と言う。
743年には近江の紫香楽の宮で大仏建立の詔を発し、平城京に戻ったあとも、大仏の建立は続けられた。

孝謙天皇(こうけんてんのう)
聖武天皇が退位すると、藤原不比等の娘、光明子の子である孝謙天皇が即位した。
これにより藤原氏は勢力を盛り返すことになった。

藤原仲麻呂
光明子の甥、藤原不比等の孫の藤原仲麻呂は、橘諸兄の子の橘奈良麻呂の乱を鎮圧し(つーか「な“か”まろ」と「な“ら”まろ」が戦わないでいただきたい)、自分の義理の娘(粟田諸姉あわたのもろえ。未亡人)を淳仁天皇(じゅんにんてんのう)と再婚させることで、経済的特権を手に入れ、恵美押勝(えみのおしかつ)と改名、太政大臣まで上り詰めた。
藤原仲麻呂は、朝鮮半島を支配していた新羅を従属国にしようと侵略戦争を計画していたりもした。そのため同じく新羅と対立する、中国東北部の国渤海と友好関係を結んでいる。

恵美押勝の乱
これで藤原氏も安泰かと思われたが、光明子が亡くなり、孝謙上皇は、藤原仲麻呂が即位させた淳仁天皇と対立、政権で孤立した藤原仲麻呂は、764年に恵美押勝の乱を起こすが返り討ちにあって殺されてしまった。
淳仁天皇は淡路島に島流し、孝謙上皇が称徳天皇として、再び天皇に返り咲いた。
これにより藤原氏はまた低迷した。ちなみに称徳天皇は自分に逆らう人間に「きたなまろ」など、小学生レベルのあだ名をつけたことでも有名。

道鏡
称徳天皇政権で主導権を握ったのが、称徳天皇の体調を念仏で回復させ、彼女に寵愛された僧侶の道鏡で、称徳天皇から強大な地位(法王)を授かると強引な仏教政治を始めた。
これにより律令制時は混乱し、国家財政は逼迫してしまう。
座ると膝が3つあると言われたほど、おちんちんが巨大で、称徳天皇とはただれた関係だったという週刊誌ネタもある。

光仁天皇
二回も天皇に君臨した女帝の称徳天皇が亡くなると、天智天皇の血筋を引く光仁天皇が即位することになった。
長いあいだ天武天皇の血を引く者が天皇に即位していたこともあって、この皇位継承は電撃的だった。
これを画策したのが藤原百川(ふじわらのももかわ)で、仏教政治で社会を混乱させた道鏡を左遷、復興事業に乗り出した。
以後、藤原氏の活躍は平安時代中期に絶頂期を迎えることになる。よかったね。

蝦夷の開拓
蝦夷とは東北地方より北の地域。
ここを開拓しようと政府は、8世紀初頭に日本海側に出羽国を置き、秋田城を築いた。
太平洋側には多賀城を築いた。
奈良時代終盤780年には伊治呰麻呂(これはりのあざまろ)がヤマト政権に対して反乱を起こし(宝亀の乱)、開拓はなかなか進まなかった。

南方の開拓
隼人という人々が南九州(鹿児島県、種子島、屋久島など)に大隅国を作り、薩南諸島の人々と交易を行なった。

掘立柱住居(ほったてばしらじゅうきょ)
飛鳥時代では民衆はいまだに竪穴式住居に住んでいたのだが、さすがに奈良時代になるともうちょい風通しのいい家に住みたくなって、高床式の掘立柱住居が普及するようになった。
これは基礎石はないものの(地面に直接柱を打ち込む)そこそこ頑丈で、豊富な木材さえあれば安上がりに作れるので民衆に広まった。

三世一身法(さんぜいっしんのほう)
723年。新たに灌漑施設を作って未開地を開墾した人は三世代にわたって保有を認めるという法律。旧来の灌漑施設を作って開墾した人にも、本人一世代に限って保有を認める。
税収を上げる効果はなかった。

墾田永年私財法
743年。開墾した田んぼは永久に開墾者のものとする思い切った法律。
この法によって耕地は拡大し、税収は一時的に上がったが、貴族や有力豪族の私有地が拡大し、東大寺などの大寺院にも大規模な開墾を許したことで、彼らに力をつけさせる結果となった。こうして出来た私有地を初期荘園という。
結局、農民の生活はますます不安定になり、貧富の格差が増大、口分田を捨てて逃亡する農民が相次いだ。逆に裕福になった農民は無許可で出家したり、貴族の従者になり税負担を逃れたりした。
奈良時代の終盤には、税は滞納し、兵士は弱体化。国家の財政や軍備に悪影響を及ぼした。

天平文化
奈良時代の文化で、特徴は唐の国際的な文化の影響と、律令国家確立後の貴族的な雰囲気。

『古事記』
天皇家の正統性をアピールするために国の歴史をまとめた国史。712年完成。
天武天皇の命を受けた太安万侶(おおやすまろ)が執筆し元明天皇に献上。
日本語を漢字の音と訓で表記したことで有名。
日本最古の歴史書だが、勅撰(天皇陛下責任編集のこと)で書かれたかどうか怪しいので正史認定をされていない。

『日本書紀』
これも国史だが『古事記』よりも対外向けで、ムチャな記述はひかえめ。720年完成。舎人親王(とねりしんのう)が編纂。

『風土記』
諸国に編纂させた地誌。
713年に完成したが、今ではほぼ完全に残っているのは『出雲風土記』のみ。

『懐風藻』
現存する最古の漢詩集。751年完成。

『万葉集』
最古の和歌集。大伴家持らが編纂。770年完成。
宮廷の歌人だけでなく、防人の歌や山上憶良の貧窮問答歌なども収録。

南都六宗
仏教理論の6つの学派のこと。

鑑真
中国の唐の僧侶で戒律の専門家。6度目の渡航でやっと来日。
自分で自分に誓うルールである戒、集団のルールである律を日本に伝えた。
律宗の中心となる唐招提寺を開く。

行基
僧侶の活動は僧尼令という法律で寺の中に限定されていたが、それを破って民衆への布教や慈善活動を行なったことで当局に弾圧された。後に大仏建立に貢献し、日本で最初に大僧正の位を授かったという振れ幅の大きい人生を送った人物。

奈良時代の建築
石の基礎や瓦を用いて壮大。東大寺や唐招提寺など。

奈良時代の彫刻
木の芯材に粘土をつけて作る塑像と、塑像の原型の上に漆や麻布をくっつけて原型を抜く乾漆像の技術が発達。乾漆像は手間とお金がかかった。
東大寺法華堂日光・月光菩薩像:塑像
東大寺法華堂執金剛神像:塑像。ギリシャ彫刻のヘラクレスとポーズが一緒。
東西寺戒壇院四天王像:塑像
東大寺法華堂不空羂索(ふくうけんじゃく)観音像:乾漆像。立像で手が4対ある。国宝。
唐招提寺鑑真像:乾漆像
興福寺八部衆像:乾漆像

奈良時代の文化財
正倉院鳥毛立女屏風:絵画。髪の毛や服や木の葉の部分に山鳥の羽毛が貼り付けられていた。
薬師寺吉祥天像:絵画。左手に宝玉を持つ女性の絵。
正倉院螺鈿紫檀五弦琵琶:楽器。現在手に入らないような大きい貝殻や琥珀がちりばめられている。
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