平安時代覚え書き①

平安時代の概要(794年~1185年)
京都で貴族中心の優雅な社会が実現。
しかし貴族は地方をないがしろにしたため、勢力をつけた豪族(→武士団)が社会的地位を獲得。とても長い時代だったが最後はグダグダで源氏が平家を滅ぼして終わる。

平安時代前期
平安時代はとにかく長いので3部構成にします。
平安時代前期は仏教と律令制で国家を安定させようとしてイマイチうまくいかなかった奈良時代の軌道修正を桓武天皇や嵯峨天皇が試みた時期と言える。
新しいポスト(令外官)、追加の政令(格式)が作られ、山岳部に寺を立てる系の仏教や、現在の日本の仏教のスタンダードとなっている大乗戒壇もこの時代に現れる。

桓武天皇
781年に即位。藤原百川が擁立した光仁天皇の子。
天智天皇系の桓武天皇は、天武天皇系の干渉や寺院勢力の介入を断ち切るために784年に首都を京都の長岡京に移転、とにかく寺から離れたかったので東大寺も移転させずに奈良に置き去りにした。

長岡京
しかしこの首都移転計画に不穏な空気が流れる。長岡京の工事を主導していた藤原百川の子、藤原種継が暗殺され、その容疑が桓武天皇の弟の早良親王(さわらしんのう)にかけられたのだ。捕らえられた早良親王は無実を主張しハンガーストライキを試みたが、護送中に餓死してしまう。
すると桓武天皇の身内に次々と不幸が起こり、これは無実の罪で死なせてしまった弟の祟り的なものなんじゃないかと恐怖した桓武天皇は、陰陽道と風水を駆使して再び遷都を行なった。

桓武天皇の政策①平安京
長岡京のホラー的展開を受けて、平安京は風水学的にかなり立地条件が良い場所に建てている。
四神相応という考えのもと、南に朱雀(=盆地)、北に玄武(=山)、東に青龍(=川)、西に白虎(=大道)がある場所がズバリ平安京だった。「山と川による自然の砦」と呼ばれた平安京は、実際400年近い平安をもたらした。

桓武天皇の政策②蝦夷開拓
宝亀の乱などでなかなか開拓が進まなかった蝦夷に対して、797年坂上田村麻呂を征夷大将軍に任命、大軍を送り込んだ。
802年、坂上田村麻呂は蝦夷開拓の拠点を多賀城から岩手県奥州の胆沢城(いさわじょう)に移し、翌年には岩手県の盛岡に、より規模のでかい志波城を作ったが水害にあったことから、胆沢城が150年間東北地方の鎮守府となった。
坂上田村麻呂は蝦夷をほぼ平定するが、平安京の造営と蝦夷開拓は国家財政と民衆の負担が激しく、継続派の菅野真道と中止派の藤原緒嗣徳政論争が起き、最終的に藤原緒嗣の意見が桓武天皇に採用されて中止となった。
これにより坂上田村麻呂はお役御免になってしまうが、彼は解任後も臨時職の征夷大将軍を名乗っていたという。

桓武天皇の政策③農村立て直し
国家からの重税が嫌で農村から逃げ出す農民や、戸籍に嘘を書いて税の負担を軽くしようとする農民(女子の方が負担が軽いので女って申告しちゃう男とか)に対し、6年おきだった班田収授の手続きを12年おきに延長したり、公出挙の利息を3割に、雑徭の期間も年間60日から30日に減らすなど、負担を軽くした。これにより農民を農村に定着させ税収を安定させようとした。

桓武天皇の政策④地方政治改革
地方では増えすぎた国司や郡司が国家財政を圧迫し、不正も相次いだ。そこで律令になかった官職(令外官という)の勘解由使(かげゆし)を新設し、国司の不正を取り締まらせた。

桓武天皇の政策⑤軍事力増強
これまでは中国の府兵制に習って農民を兵役に付かせていたが、プロの軍人ではないため質が低く、軍事力は弱体化してしまった。そこで郡司の子弟や地方の有力豪族、有力農民から、弓馬に優れた人を集めて少数精鋭の部隊を作ることにした。これを健児の制という。健児は精鋭部隊の兵士のことで「けんじ」じゃなくて「こんでい」と読む。

平城天皇(へいぜいてんのう)
父親の桓武天皇が亡くなったあとに即位した天皇。
当初は積極的に政務に臨み、『続・日本記』で削除された長岡京藤原種継暗殺事件を再び掲載したが、病弱かつ桓武天皇との仲もあまりよくなかったので、即位からたった三年で、弟の嵯峨天皇に皇位を譲って、退場、太上天皇(引退した天皇のこと。略して上皇)になった。
ちなみに嵯峨天皇は、その後政界の重鎮として君臨、56年の生涯においてなんと50人もの子どもを作った日本史上最強の絶倫天皇となる。

薬子の変(くすこのへん
二所朝廷の対立とは都をもう一度平城京に戻そうとする平城上皇(平城京在住)と、このまま平安京でいいだろという嵯峨天皇のあいだで起こった兄弟喧嘩。
結局嵯峨天皇が勝利し、平城上皇は出家、国政に介入していた愛人は自殺、愛人の兄は殺された。これを平城上皇の愛人の名前をとって薬子の変という。

嵯峨天皇の政策①検非違使(けびいし)の設置
検非違使とは平安京の治安を守る令外官。大雑把に言うと京都府警。

嵯峨天皇の政策②蔵人頭(くろうどのとう)の設置
天皇の傍にいて、機密文書や詔勅の取次ぎを行う、秘書的ポスト。これも令外官。
薬子の変を受け、これまでどおりに太政官に天皇の命令を通すと情報が漏れるんじゃないかと設置。定員は二名で初代蔵人頭は、藤原冬嗣と巨勢野足(こせののたり)。

嵯峨天皇の政策③弘仁格式(こうにんきゃくしき)の編纂
時代の変化に合わせて官庁の実務を合理化するために作られた政令みたいなもの。
格とは律令を補完したり修正するもの、式は施行細則のことで、桓武天皇時代にすでに着手されていたが中断されていた。
格式は、後の清和天皇や醍醐天皇も編纂しており、まとめて三代格式と言う。

弘仁・貞観文化(こうにんじょうがんぶんか)
平安時代初期の文化。唐の影響を消化していった貴族中心の文化。

天台宗(本山:比叡山延暦寺)
最澄が開く。
著書『顕戒論』で、仏教を一般にも広く伝えるために、東大寺(→国分寺)主導の授戒制度を改めて比叡山にも大乗戒壇を儲けるべきだと考えた。これは国家公務員的なお坊さんや信者の既得権益に踏み込んだ主張だったため、奈良時代からの南部六宗を中心に波紋が起きた。
大乗仏教とは、釈迦は優しい人だろうからきっとみんなを救済してくれるという、ある種の希望的観測を試みる宗派(生前の釈迦がそういうことを言ったという記録はない)。
弟子の円仁と円珍は天台宗に、呪文(真言)を唱え、指で印を結ぶ密教(経典を学ぶのは顕教と言う)を導入したが、その後両者は対立。円仁は山門派、円珍は寺門派となった。

真言宗(本山:高野山金剛峰寺)
空海が開く。
著書『三教指帰』で、孔子の儒教、老子の道教(ありの~ままの~的な思想)、仏教の中で、最も偉いのは仏教だと論じた。
823年に嵯峨天皇から教王護国寺(東寺)を授かり、布教するための道場にした。
漢詩にも心得があり『文鏡秘府論』『性霊集』などの著作がある。
さらに庶民への布教のための私立学校、綜芸種智院(しゅげいしゅちいん)を京都に開校している。

天台宗と真言宗の共通点
①遷都するくらい従来の仏教が嫌いな桓武天皇にハマった。
②加持祈祷(呪文唱える系の祈祷)で病気や災いを避け現世利益を求めた。
③山岳信仰と結びつき修験道(山篭りの修行)の源流になった。

密教芸術
観心寺如意輪観音像:主要パーツを一本の木材でつくる一本造りの仏像。
薬師寺僧形八幡神像:神仏習合を反映。
園城寺不動明王像:絵画。
神護寺・教王護国寺の両界曼荼羅:仏や神は大日如来の分身だよという図
室生寺金堂:山間部にある寺院。

文章経国思想(もんじょうけいこくしそう)
文学で国家を栄えさせようとする考え方。
『凌雲集』、『文華秀麗集』、『経国集』:勅撰漢詩集。

三筆
書道が上手な嵯峨天皇、空海、橘逸勢(たちばなのはやなり)の三人を指す。

弘仁・貞観文化の学問
明経道(みょうぎょうどう):儒教を学ぶ。
紀伝道:中国の歴史を学ぶ。
大学別曹:貴族の子が通う私立の寄宿学校みたいなもの。藤原氏の勧学院、在原氏の奨学院、橘氏の学館院など。
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