平安時代覚え書き②

平安時代中期
かの有名な藤原一族による摂関政治の最盛期。めっちゃ栄えたが、藤原頼通の娘が子どもを産めなかったことから急速に衰退。あの欠けることのない満月のようにこの世はオレ様の思い通りだぜ!と歌った藤原家の栄華はわりとあっけなかった。
また10世紀に入ると、地方でないがしろにされた豪族や農民が武士化、一大勢力となっていく。

藤原家の外戚政治
外戚政治とは自分の娘を天皇と結婚させて、生まれた皇子を天皇にして、天皇のおじいちゃんとなることで、天皇をサポート(=操縦)する摂政(天皇が幼少時に国政を代行)や関白(成人した天皇を補佐)の地位につくこと。
奈良時代、文武天皇に娘を嫁がせ、その子どもを聖武天皇として即位させた藤原不比等以来、藤原家の常套手段になった。
しかし、古代からの慣習で母方の一族が力を持つものの、当時の天皇は一夫多妻制で、自分の娘がうまく天皇の目にとまり、さらにその間に男の子が生まれても、その子を天皇に即位させるためには激しい競争があったため、なんだかんだで経済力やコネがものを言った。帝に寵愛された『源氏物語』の皇子、光源氏も母方の実家の身分が低かったため、天皇にはなれなかったという経緯がある。
成功(じょうごう)は朝廷の儀式や寺社の造営に私財を投じる見返りに官職が与えられることで、重任(ちょうにん)は金を払うことで高収入の官職に再任(任期継続)してもらうこと。
このような政治腐敗が進み、地方の政治もないがしろにされた。

藤原北家
藤原不比等を父に持ち、奈良時代の長屋王の変で活躍、その後全員天然痘で死んじゃった藤原四兄弟を覚えているであろうか。
藤原百川が光仁天皇を即位させ、奈良時代末に磐石となった藤原家だったが、今度はその四兄弟の子孫たちが内輪揉めを起こしてしまう。
その中でも中心的な地位にまで上り詰めて平安中期に一人勝ちしたのが、次男の藤原房前の子孫である藤原北家であった。
ちなみに、長男の武智麻呂→南家、三男の宇合→式家、四男の麻呂→京家で、三男の式家は薬子の変で藤原冬嗣(北家)の働きによって失脚している(薬子兄妹は藤原式家)。あれも藤原四家の勢力争いだったのだ。

承和の変
842年。藤原北家で藤原冬嗣の子の藤原良房が、大伴氏(懐かしいな)の子孫の伴健岑(とものこわみね)を処罰した事件。
嵯峨天皇の時代はかなり平和だったものの、天皇の皇位を兄→弟→兄の子→弟の子という順番で回していたので、この慣習は外戚政治を試みる藤原家にとっては、じれったくて都合が悪かった。
また、嵯峨天皇は引退して上皇になったあとも実力があり、藤原家ににらみを効かせていたので、嵯峨天皇の息子の仁明天皇(にんみょうてんのう)に妹が嫁いだ藤原良房も、甥っ子の道康親王をいきなり天皇に即位させることができずやきもきしていた。これまでの慣例で言えば、仁明天皇の次の天皇は、嵯峨天皇の弟(純和天皇)の子、恒貞親王(つねさだしんのう)になるのが筋だったのである。

通例
嵯峨天皇(兄)→純和天皇(弟)→仁明天皇(兄の子)→恒貞親王(弟の子)

しかし政界の重鎮の嵯峨天皇が亡くなると、藤原良房は恒貞親王を飛び越して、仁明天皇の次に道康親王を即位させようと画策した。

良房の計画
嵯峨天皇(兄)→純和天皇(弟)→仁明天皇(兄の子)→道康親王(兄の孫)

この動きを察知し、警戒したのが恒貞親王の側近の伴健岑だった。
そこで藤原良房は彼ら恒貞親王派がクーデターを企てていると言いがかりをつけて、まとめて逮捕。これにより藤原良房はこれまでの慣例を破って、次の天皇は前の天皇の子どもがなれるという新たな流れを作ったのである。かなり強引だけど。

清和天皇と藤原良房
嵯峨天皇政権で秘書(蔵人頭)を務め、承和の変で恒貞親王派を処罰した藤原良房は、外戚政策で自分の孫を清和天皇に即位させると、自分は摂政となった。
摂政は聖徳太子など、代々皇族が担ってきたが、藤原良房は初の皇族以外の摂政だった。このように身内から摂政や関白を出した藤原家を藤原摂関家、摂政や関白に上り詰めた人を氏の長者と言う。

応天門放火事件
866年。清和天皇の家(大内裏)が誰かに放火されるというとんでもない事件。
事件後に大納言の伴善男が「犯人は嵯峨天皇の七人目の息子の源信(みなもとのまこと)だ」と告発、源信は「まったく身に覚えがない」と無罪を主張した。
当時高校生くらいだった清和天皇は、藤原良房の意見を聞いて、とりあえず源信の処分を保留。真相は闇の中かと思われたが、事件から五ヶ月が過ぎたある日、「伴善男が清和天皇の家に火をつけているところを見た」という衝撃的なタレコミがされて、清和天皇はお手上げ、藤原良房を摂政に正式に任命し、伴善男の取り調べをさせた。
さらに、伴善男の取り調べ中、タレコミをした人の娘が伴善男の家臣に殺されるという殺人事件も発生、その犯人に応天門の放火事件についても追求したところ、「伴善男が火をつけた」と自白。
伴善男は全財産を没収され島流しにされた。これによりヤマト政権からの有力豪族、大伴氏は完全に歴史から姿を消し、藤原家のさらなる躍進につながった。
ちなみに、この放火事件の様子は『伴大納言絵巻』にも描かかれており、本当どうでもいいけれど、中学校美術の教育実習の際、授業で取り上げたことがある。なんか4コマにまとめて、空欄のフキダシを追加して生徒にセリフを考えさせてた気がする。

光孝天皇と藤原基経
藤原基経(ふじわらもとつね)は藤原良房の養子で彼の後継者。
884年に仁明天皇の子の光孝天皇が即位すると関白となった。

阿衝の紛議(あこうのふんぎ)
光孝天皇の次に即位したのが光孝天皇の息子で藤原家を外戚としない宇多天皇(うだてんのう)だった。宇多天皇は自分を天皇に推薦してくれた太政大臣の藤原基経を関白から解任して(厳密には藤原基経が“形式的”に辞退した)、阿衝という形だけの名誉職にしようとしたが、これに反発した藤原基経が職務放棄(スト)、慌てて宇多天皇はこの辞令を撤回した。
この時、天皇陛下に対してマジギレした藤原基経に対し、怒りを収めるよう文章を送って諭したのが、文章博士の菅原道真だった。

宇多天皇と菅原道真
とは言うものの宇多天皇は藤原基経が亡くなると、摂政と関白を置かず、その代わりに学者の菅原道真を重用した。菅原道真は「唐から学ぶものはほとんど学んだ」と、遣唐使を廃止したことで有名。

藤原時平
894年に醍醐天皇が即位すると、藤原基経の息子の藤原時平は、901年に菅原道真を九州の大宰府に左遷させた(昌泰の変)。その後失意のうちに亡くなった菅原道真は、朝廷に大きな雷を落とし、祟りだとみんなをビビらせ、その後学問の神様として祀られた。

醍醐天皇
醍醐天皇は父親の宇多天皇同様、摂政と関白を置かなかった。
天皇自ら政治を行うことを天皇親政と言う。
醍醐天皇は延喜の荘園整理令で荘園の不正の撲滅に取り組み律令制度の立て直しを図っている。

朱雀天皇と藤原忠平
次に即位した醍醐天皇の息子の朱雀天皇には、藤原基経の息子で藤原時平の弟の藤原忠平が摂政と関白を務めた。これにより藤原家の勢力は維持された。

村上天皇
兄の朱雀天皇から引き続き藤原忠平が関白を務めたが、彼が亡くなるとやっぱりその後は摂政や関白は置かなかった。
政治家だけでなく、芸術家としての才能にも恵まれた村上天皇は、平将門や藤原純友が起こした承平天慶の乱によって逼迫した朝廷の財政を改善させるべく倹約に努め、あの清少納言も絶賛、醍醐天皇の治世と共に延喜・天暦の治とカリスマ的に称えられている。
当然、藤原家にとっては目の上のたんこぶ的な天皇であったことは言うまでもない。

安和の変(あんなのへん)
969年。左大臣で醍醐天皇の皇子の源高明(みなもとのたかあきら)源満仲(みなもとのみつなか)の策略によってやっぱり九州に左遷される事件。源高明は村上天皇派。
これによって藤原氏の政敵は誰もいなくなり、摂政や関白の職は彼らが独占するようになった。で、案の定、今度は藤原北家間の戦いが始まるのであった。
ちなみにこの事件によって源満仲一族は藤原氏に取り入り、以後多田源氏としてその勢力を拡大していく。多田とは兵庫県の地名。

藤原道長
藤原一族間の争いを収めたのが、ご存知、藤原道長で、後一条天皇、後朱雀天皇、後冷泉天皇はみんな藤原道長の外孫である。天皇親政を試みようとした三条天皇と対立した際には、三条天皇が火事にあったり目を悪くしていたとはいえ(不遇の天皇と言われる)、圧力をかけて三条天皇を引退させるまでの実力を持っていた。
文学の愛好家としても知られ、「早く続きを読みたい」と紫式部の『源氏物語』の原稿を催促したり、「この世をば わが世とぞ思ふ 望月の 欠けたることも なしと思へば」というオレイズム全開の歌を歌っている。
時代が割と平和だったこともあり、政治や軍事において藤原道長自身が特に手腕を発揮するようなことはあまりなく、満州の女真族が攻めてきた刀伊の入寇の際にも「ただ海賊が対馬で暴れているだけ」と何も手を打たなかった。地方の有力者が「朝廷は頼りにならない」と見限ったのも頷ける。
藤原道長は付き合いでの飲み会があまりにも多く、そこに運動不足も重なって深刻な糖尿病を患い62歳で亡くなっている。
ちなみに彼のお抱え陰陽師として安倍晴明がいる。

藤原頼通
藤原道長の息子で、50年もの間、摂政・関白を務めた人物。
また十円玉に彫られている平等院鳳凰堂を建立したことでも有名。
この時点で藤原家の摂関政治は最盛期を迎えるが、後冷泉天皇に嫁いだ娘の寛子が子どもに恵まれなかったため、藤原摂関家は絶頂から一気に下り坂になってしまう。
しかし寛子自身は明るく優しい皇后で後冷泉天皇と仲がよく、昭和天皇の皇后の97歳に次ぐ、長生きをした(92歳)。案外幸せだったのかもしれない。

荘園の発達
荘園の始まりは奈良時代の墾田永年私財法で、貴族や寺社が農民を使って開墾させた荘園を自墾地系荘園、既に開墾されていた土地を誰かが買収した荘園を既墾地系荘園といい、この二つをまとめて墾田地系荘園と呼んだ。

9世紀末、貴族や寺社、地方豪族が経営する荘園では、律令制度が機能不全に陥り、戸籍や計帳の記載をちょろまかして実際よりも少ない税を納める不正が横行した。
そこで醍醐天皇は延喜の荘園整理令において律令制度を立て直し、不正をなくそうとしたが、国司に荘園の整理を任せたため効果は薄く、税収は落ち込んだ。

10世紀前半、政府は一国の統治をやっぱり国司に任せ、その見返りに一定額の税の納入を国司に請け負わせるようになった。このような徴税請負人になった国司は受領(ずりょう)と呼ばれた。
受領は戸籍記載の不正に対抗するため、課税対象を戸籍(=人)ではなく田地に変更し、田地をという単位に分けて、田堵(たと)と呼ばれた有力農民に一年契約で耕作を請負わせた。
この時代には、祖調庸は官物、雑徭は臨時蔵役と名称が変更されている。
受領の中には、あまりの暴政で有力農民たちから訴えられた藤原元命など私腹を肥やす者もおり、赴任された国にろくに行かず、目代という代理人を派遣させるだけで収入を得る受領も多かったという。これを遙任と言い、まあ、とにかく地方には行きたくなかったらしい。今よりずっと僻地だっただろうし。

一方の現場型の田堵はやがて多くの下人を抱えて大規模経営を行うようになり、土地の所有権を示すために自分の土地に名前を付ける名主(みょうしゅ)に成長、さらに寺院や豪族に頼らず自ら開墾し土地開発を行なう開発領主にメガ進化した。

田堵→名主→開発領主→荘官

10世紀以降、律令制度の衰えを受けて、開発領主は国司ではなく、それよりも地位が上の中央貴族や寺社に直接年貢を納めたり田地を寄進するようになり、国司や周囲の領主から自分の土地を守ってもらう後ろ盾を得ようとした。これを寄進地系荘園といい、この時の開発領主を荘官、寄進を受けた権力者を領家と言った。
そして、その領家がさらに上位の階級の貴族や皇族に寄進をした場合、その権力者は本家という上級領主となった。

寄進系荘園のヒエラルキー
本家>領家>荘官

開発領主は政府や国司から税を免除され(不輸)、特権階級化し、その後不輸の対象や範囲をめぐって国司と開発領主は対立を始めた。開発領主は領家の後ろ盾のもと、国司が派遣する検田使を荘園に立ち入れないようにしたため(不入特権)、中央と地方の対立はさらに激化した。

武士の成長
9世紀末に律令制度が機能不全に陥ると、各地の豪族や有力農民、国衙(国司の役所)の役人、荘官などが、支配下勢力の維持と拡大を目指して武装。兵(つわもの)=武士へと成長した。
彼らは惣領と呼ばれた本家のリーダーを中心に、兄弟や子孫を家の子(分家)として従え、さらにその下に血のつながりのない家人や郎党を集めて武士団を形成した。

武士団のヒエラルキー
棟梁>惣領>家の子>家人・郎党

彼らは家同士で闘争を繰り返し、中央から派遣されてくる国司にも反抗した。
このような武士団を率いたリーダーが棟梁で、地方の大豪族や、任期を終えてもなお地方に残った国司、中央から武士の鎮圧に派遣された武官などがその地位についたが、中でも有名なのが桓武天皇の子孫の平高望(たいらのたかもち)を祖とする桓武平氏と、清和天皇の子孫の源経基(みなもとのつねもと)を祖とする清和源氏だった。
彼らは天皇の血を引くものの、母親の地位が低いことで出世競争に敗れた皇子たちであり、中央でくすぶっているよりは、地方で武士団を率いたほうがマシだと考えたのだった。

刀伊の入寇(といのにゅうこう)
1019年に、九州北部が満州に住んでいた女真族の海賊に攻められた事件。
藤原道長ら中央政府は、対馬で海賊による拉致・虐殺が起きているというのに、何ら手を打たず、とうとう女真族は博多湾にまで迫ってきた。
藤原道長との政争に敗れ、大宰府に左遷されていた大宰権帥(だざいのごんのそち。ぶっちゃけ閑職)藤原隆家は現地の九州の武士を率いてこれを撃退、これにより武士団の形成は九州北部にまで及んでいたことが分かっている。
ちなみに「刀伊」とは女真族のことで、朝鮮ではそのように呼ばれていたらしい。

承平・天慶の乱(じょうへいてんぎょうのらん)
さらに10世紀半ば、中学校の歴史の教科書にも取り上げられる大きな武士の反乱があった。
それが承平天慶の乱で、関東地方で起きた平将門の乱と瀬戸内地方で起きた藤原純友の乱のこと。

平将門の乱
東国の平将門が、常陸(茨木)、下野(栃木)、上野(群馬)など東国の大半を占領して新皇を自称した事件。
940年、同じ桓武平氏の平貞盛や、下野押領使(栃木県警)の藤原秀郷らによって、新皇自称後わずか二ヶ月で滅ぼされた。
ちなみに平貞盛は平清盛のおじいちゃんのおじいちゃんのおじいちゃん。
しかし平将門は、中央から派遣されてきた強欲な国司をやっつけてくれたと地元の人に英雄視され、神田明神の祭神となった。
また、はねられた首が空を飛んで落ちたという大手町の首塚は工事で移転しようとすると謎の事故が起こるというサンクチュアリーになっている。ちなみに「かんだ」とは平将門の首を失った「からだ」という意味らしい。

藤原純友の乱
平将門の乱と同時期に瀬戸内海で起きたのが藤原純友の乱で、彼はもともと伊予の国(愛媛県)の国司として派遣された貴族だったのだが、任期満了後も現地にとどまり、939年に地元の海賊たちを従えて、伊予の国府や北九州の大宰府を焼き討ちにしてしまった。
これは941年に源経基と小野好古(おののよしふる)によって鎮圧された。
平将門の乱との共通点は、どちらも力を持った武士の反乱で、さらに朝廷ではなく地元の武士がこれを鎮圧しているという点である。もはや朝廷は武士の力なくして、地方を平定することはできなくなっていたのである。
武士の実力を認めた朝廷は、彼らを侍として受け入れ、宮中や都、貴族のSPとして雇うようになった。天皇の身辺警護に当たった滝口の武士などがこれで、平安京内裏の清涼院の滝口という場所に詰所があったからこう呼ばれた。
また地方では受領(国司)直属の館侍や、国衙の軍事組織の国侍、警察職の押領使や追捕使に任命された。

平忠常の乱(たいらのただつねのらん)
1028~31年。平忠常が房総半島の上総で起こした乱で、これを鎮圧した清和源治の源頼信(みなもとのよりのぶ)は、清和源治の東国進出のきっかけを作った。
ちなみに源頼信は、安和の変で暗躍した源満仲の息子、藤原純友の変で活躍した源経基の孫に当たる。

前九年の役
陸奥(東北地方太平洋側)で国司にたてついた豪族の安倍頼時を、源頼信の息子の源頼義(みなもとのよりよし)が滅ぼした戦い。
9年続いたからこう呼ばれる。
この勝利の影には出羽(東北地方日本海側)の豪族の清原武則の援助があった。これにより清原氏は東北全体を支配できるようになった。

後三年の役
こちらは陸奥と出羽に勢力を伸ばした清原一族の内紛。3年続いた。
源頼義の息子の源義家(みなもとのよしいえ)が、藤原清衡(ふじわらのきよひら)を助けて活躍した。
藤原清衡は奥州藤原氏を起こし、前九年の役と後三年の役で亡くなった人々を弔うために中尊寺金色堂を建立(三万枚の金箔、沖縄の夜光貝、アフリカゾウの象牙を使うなど賢覧豪華)、京都を凌ぐ黄金都市を岩手県平泉に作ることを夢見た。
清原だったのになぜに藤原?って話だけど、馬や砂金を送って藤原家にそれだけ接近できる地位にまで上り詰めたっていうこと。あと藤原清衡って出自がけっこう複雑で、実は清原氏に滅ぼされた安倍家の子で、お母さんが清原氏と再婚したことで、清原氏の養子に入ったという波乱万丈の人生を歩んでいる。

源義家
朝廷から恩賞が出なかった際、自分の財産をなげうって部下の武士たちの労をねぎらったため人望を集め、東国武士の棟梁としての地位を確立した。
源義家の人気は東国にとどまらず中央にも届き、彼に荘園を寄進するものが相次ぎ、最終的には寄進を禁じていた朝廷も源義家を認め、中央からパージした源氏は再び中央でのし上がっていくことになったのである。

国風文化
平安時代中期は遣唐使が廃止されたため、国家としてはどこの国とも国交がなく、大和絵や日本風の書道(和様)など大陸文化を日本独自に熟成させた国風文化が栄えた。
貴族は寝殿造の邸宅に住み、男性は正装の束帯(普段着は衣冠と言う)、女性は女房装束(十二単)を着用していた。
男性の成人式は元服、女性の成人式は裳着(もぎ)と呼ばれ、元服は10~15歳で行われた。
この時代、渤海は10世紀前半に遼に滅ぼされ、朝鮮半島の新羅は高麗に滅ぼされた。中国の唐は907年に滅んでいる。みんな逝っちまった。

国文学
ひらがなやカタカナが開発され、文学表現の幅が広がったことで発達した。
かな物語:『竹取物語』(?)、『伊勢物語』(?)、『源氏物語』(紫式部)
日記:『土佐日記』(紀貫之)、『紫式部日記』(紫式部)、『更級日記』(菅原孝標女すがわらのたかすえのむすめ)
随筆:『枕草子』(清少納言)

『古今和歌集』
905年に紀貫之が編纂。初の勅撰和歌集。
あの「君が代」の歌詞も載っている(詠み人知らず)。
君が代はそもそも長寿を願う歌で、曲がついたのが明治時代(1880年に欧米に倣って日本も国歌を作った)、法的に正式な国歌になったのは、なんと小渕総理の時代で1999年(国旗国歌法)。

本地垂迹説
日本神話の神々を仏の化身と考える思想。明治時代に神道国教政策が取られると廃止された。

御霊会(ごりょうえ)
死者の祟りを防ぐために鎮魂をする儀式。それだけ政治的敗者が出ていたということらしい。

浄土信仰
阿弥陀仏を信仰し、念仏を唱えれば極楽浄土に往生できるという考え方。
10世紀半ばに諸国や京で教えを説いた空也(市聖)や、『往生要集』を執筆した源信(げんしん。みなもとのまこととは違う人!)がいる。
末法思想によれば1052年から仏法が衰え乱世になると考えられたことから、現世は諦めて来世で救われたいという人が増え、浄土教は貴族や庶民に大きく広まった。
法成寺(ほうじょうじ):藤原道長建立。
平等院鳳凰堂:藤原頼道建立。
阿弥陀如来増:平等院鳳凰堂の本尊。寄木造を完成させた定朝(じょうちょう)の作品。
高野山聖衆来迎図:来迎図(らいごうず)とは往生する人々を迎えに仏が来臨する様子を描いた絵。
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