室町時代覚え書き

室町時代の概要(1392年~1573年)
南北朝を統一した足利義満と守護大名たちによる連合政権。
注目すべきは中国と再び国交を結んだことで、なんと菅原道真の遣唐使廃止以来500年ぶり。
その後、独裁的だった足利義教は殺され、文化に没頭しすぎて政治をないがしろにした足利義政は奥さんと弟による跡目争いをきっかけに11年も続いた応仁の乱を起こし、京都を火の海にしてしまう。
これにより下克上の戦国時代に突入、室町幕府自体は戦国時代も続いたが、戦国武将の織田信長によって終わりを遂げた。

足利義満
室町幕府3大将軍で、足利尊氏の子、足利義詮(あしかがよしあきら)の息子。
南北朝の統一を果たした足利義満は、諸国に課す税を徴収する権限、京都の政治を取り仕切る権限といった、朝廷の権限を幕府の管理下に敷いた。
また強大な勢力となった守護の統制を試みた義満は、山名氏、大内氏といった有力守護を挑発し、明徳の乱、応永の乱などの戦争を仕掛け、彼らを討伐していった(山名氏は中国・近畿を合わせて、なんと日本の6分の1を支配していた)。
こうして室町幕府は安定していったが、その安定は将軍と有力守護との勢力均衡によって保たれており、将軍の地位は相対的に低下していた。
そんな義満は、南北朝統一のわずか2年後に、将軍の地位を息子の足利義持に譲っているが、太政大臣になり出家したあとも実権を握り続け、天皇への野望も持っていたという(義満暗殺説があるのはそのため)。
ちなみにこの時代には珍しく、大変時間に厳しい人だったらしい。

管領
室町時代に新設されたポストで、将軍を補佐するという点では鎌倉時代の執権みたいなものだが、侍所、政所、評定衆といった中央機関をまとめて統括しながら、各国の守護に将軍の命令を伝えるという、将軍を凌ぐ幕府の影の支配者にまで発展した執権と比べて、よりサポート色の強いものになっている。
この役職は足利氏一門の、細川氏、斯波氏、畠山氏三管領として交代で任命された。ここら辺も北条氏がポストを独占した鎌倉時代と異なり、室町幕府が守護大名たちの連合政権だったということがよくわかる。

四職(ししき)
京都内外の警備や刑事裁判を担当する侍所の長官は所司と呼ばれ(その最高の地位が別当)、赤松氏、一色氏、山名氏、京極氏の4氏から任命される慣例になっていた。
これを四職と言い、彼らはみんな守護大名だったため、幕府での仕事の際は領国を留守にしなければならなかった。この時、守護の代役を務めたのが守護代だった。

奉公衆
室町幕府直轄軍のこと。
彼らは将軍の護衛や全国に散在する将軍直轄領である御料所(ごりょうじょ)を管理し、守護を牽制した。親衛隊的な。

鎌倉府(関東府)
東国を統治する地方機関で、リーダーは鎌倉公方と呼ばれ、初代鎌倉公方は足利尊氏の息子の足利基氏が務めた。
鎌倉公方の補佐役は関東管領と呼ばれ、こちらは上杉氏が世襲した。
鎌倉公方は当初は将軍に従っていたが、やがて幕府から独立して関東地方を支配、将軍と対立するようになった。

室町幕府の財政基盤
①御料所の収入
②守護の分担金
③地頭や御家人への賦課金
④京都の高利貸、土倉や酒屋への課税
⑤関所や港で徴収する関銭、津料
⑥京都五山の僧侶への課税
⑦公共事業の際に全国の守護に課す段銭、棟別銭
⑧日明貿易の利益

日明貿易
足利義満は1401年に明の呼びかけに応じ、『日本国王源道義』の返信用紙と明の暦を受け取り、平安時代以来となる中国との国交を500年ぶりに回復させた。
とはいうものの、これは「日本国王」である義満を、明の皇帝である朱元璋の臣下にしてやるというもので、対等な外交というよりは属国扱いだったのだが、これにより日明貿易は明への朝貢という扱いになったので、貿易にかかる経費はすべて明が負担し、日本は莫大な利益を得ることができた。
明は当時中国や朝鮮沿岸で暴れていた倭寇との区別をするために、日本からの遣明船に正式な貿易船であることを示す勘合を持参させたため、日明貿易は勘合貿易と呼ばれた。
これにより大量の銅銭(永楽通宝)が日本に持ち込まれ、このような外貨は日本の貨幣経済に大きな影響を与えた。
日本にはほかにも生糸や高級織物、書画が輸入され、逆に明へは金や銅、硫黄といった鉱物、刀剣や槍などの武器、鎧、扇、屏風といった工芸品などが輸出された。
日明貿易はその後、義満の政策に否定的だった4代将軍足利義持(あしかがよしもち)の時に「侮辱的である」と一時中止になるが、6代将軍足利義教(あしかがよしのり)の時に再開され結局150年間続いた。
ちなみに倭寇とは、もともと日本と明との貿易を要求していた密貿易商人だったため、日明貿易の実現によって沈静化した。しかし彼らによって高麗の衰退は早まった。

朝鮮外交
李氏朝鮮は1339年に李成桂(りせいけい)が高麗を倒して建国した国家で、義満はこちらとも国交を樹立した。
倭寇によって高麗が衰退したことを知る朝鮮は、うちもやられちゃたまらないと日本に倭寇の禁止を要求、義満はこれに応じた。
日朝貿易は対馬の守護大名である宗氏を通じて対等に行われ、幕府だけではなく、守護や国人、商人も参加した。
朝鮮からは木綿といった織物や大蔵経が輸入され、日本からは銅といった鉱物、工芸品、南洋諸島のコショウや香料などが輸出された。

応永の外寇
1419年に沈静化はしたもののまだ暴れていた倭寇に悩む朝鮮が、対馬を倭寇撃退という名目で攻撃した事件。これにより日朝貿易は一時中断したが、すぐに再開された。

琉球王国の成立
沖縄では北山、中山、南山の3つの地方勢力が覇権争いをしていたが中山(ちゅうざん)の王様の尚巴志(しょうはし)が統一、1429年に琉球王国を建国した。
室町時代中期には日本と琉球王国の国交はなかったものの民間レベルでは盛んに交易が行われた。

和人とアイヌ
畿内と津軽の十三湊(とさみなと)の日本海貿易が14世紀にはすでに行われていた。
その後、津軽の豪族、安藤氏の支配下に置かれた和人と言う本州人が津軽海峡を渡り、蝦夷が島(北海道南部)に進出し、道南十二館(どうなんじゅうにたて)などの居住地や港を建設した。
和人は北海道に古来から住んでいたアイヌと交易、しだいにアイヌの生活圏を脅かした。

室町時代の農業
生産性はより向上、農村は豊かになり、商品経済が浸透した。
桑、漆、藍、茶なども栽培。
三毛作:二毛作がさらにパワーアップ。米、麦、そばを生産。
米の品種改良:早稲(わせ)、中稲(なかて)、晩稲(おくて)など収穫時期の異なる稲ができた。
大唐米:大陸から伝わった災害に強く収穫量も多い品種。
下肥(しもごえ):肥料として使う人の糞尿。
水車:灌漑用水をくみ上げる。

室町時代の経済
連雀商人や振売:行商人。
大原女:炭や薪を売った女性。
桂女:鮎を売った女性。
六斎市:鎌倉時代では月に3回だったのが6回に増えた。
見世棚:さらに増えた。
座:さらに増えた。大寺社所属は神人、皇室所属は供御人。
米場:米を専門に扱う市場。
魚市:海産物を専門に扱う市場。
古式入浜:のちの入浜塩田。日本では岩塩がないので塩を作るための専用の砂田を作った。
貨幣経済:貨幣の流通量はさらに増えた。
永楽通宝:明銭。
私鋳銭:私的に造られた粗悪な貨幣。
撰銭令(えりぜにれい):私鋳銭などの悪貨と良貨を選別し、その基準や混入率を定めた法律。
酒屋:裕福な酒屋さんは高利貸(土倉)を営むことが多かった。
交通の発達:廻船(かいせん)、馬借、車借など。

北山文化
公家文化と武家文化が合体、禅宗などの中国文化にも影響を受けた文化。
足利義満が京都の北山に山荘(と金閣)を作ったことに由来する。
鹿苑寺金閣は、寝殿造と禅宗様の折衷様建築で修学旅行の定番。

臨済宗
鎌倉時代に生まれた禅宗だが、ストイックな曹洞宗と異なり、幕府の保護を受けたためかなり栄えた。
南宋の官寺の制にならった五山・十刹の制という寺のランキングが作られ、京都の南禅寺が最高ランクに認定され、それに次ぐ五山格には京都五山と鎌倉五山が、その下に十刹格のお寺、さらにその下に諸山のお寺が続いた。
京都五山は天龍寺、相国寺、建仁寺、東福寺、万寿寺。
鎌倉五山は建長寺、円覚寺、寿福寺、浄智寺、浄妙寺。
五山の僧侶は渡来僧や留学僧が多く、絶海中津(ぜっかいちゅうしん)や義堂周信(ぎどうしゅうしん)らが宋の研究や漢文詩の創作をした。

水墨画
渡来僧や留学僧によって技法が伝えられた。
如拙の瓢鮎図(ひょうねんず)や周文の寒山拾得図(かんざんじっとくず)など。

庶民文化
商工業者や農民の間にも、読み・書き・計算といったリテラシーが向上し、奈良には『節用集』という辞書を刊行した商人もいた。
また庶民のあいだでは、室町時代に流行った小歌を311首収録した『閑吟集(かんぎんしゅう)』が作られ、さらに格式高い能楽と異なり、風刺性の強い喜劇の狂言(コメディだったのか)や、一遍の踊念仏が発展した盆踊り、能や歌舞伎の原型と呼ばれる幸若舞(こうわかまい)、三味線を伴奏とする語り物である古浄瑠璃(有名な義太夫節ができる前の浄瑠璃をこう呼ぶ)なども楽しまれた。

お伽草子
庶民の間で広まった通俗的な短編小説集。
小人が打出の小槌によってコンプレックスを克服する「一寸法師」や、歌の才能に恵まれたニートが宮中に呼ばれる「ものぐさ太郎」など、身分や境遇に恵まれなくても、その人の能力次第では出世できるというアメリカンドリーム的な作品が多く、下克上の思想につながった。
ほかにも相対性理論を思わせるSF作品『浦島太郎』、ヤマタノオロチを父に持ち平安時代を恐怖に陥れた日本最大最強の鬼を描いた『酒呑童子』などが有名。


ここでいう「座」とは武田鉄矢一座的な、寺社の保護を受けて能を演じる専門集団のことで、興福寺を拠点とした大和猿楽四座の一つである観世座からは世阿弥・観阿弥親子が出た。彼らは足利義満に評価され、猿楽能を完成させた。
また世阿弥は『風姿花伝』という能楽書を著した。

永享の乱(えいきょうのらん)
なんとくじ引きで決まった衝撃の将軍、足利義教が将軍の権力強化を狙って、1438年に幕府に反抗的だった鎌倉公方の足利持氏を滅ぼした戦い。彼は比叡山や九州もこんな感じで平定しており、室町将軍家における最大領土を獲得している。
足利義教は突然怒りだしたり性格に難があったものの、十代で天台宗の大僧正になったという超エリートで、4代将軍家持が後継者を決めずに亡くなった為(※5代将軍義量は家持より先に亡くなった)、出家していたにも関わらずピンチヒッターで6代将軍に抜擢された経緯がある。

嘉吉の乱(かきつのらん)
有力守護を弾圧し続けた第六天魔王の足利義教が逆に、有力守護の赤松満祐(あかまつみつすけ)に殺されてしまった事件。
赤松満祐はすぐに幕府に討たれたが、義教の殺害によって将軍権力は大きく揺らぎ、室町幕府は衰退していった。室町時代版本能寺の変みたいなもの。

応仁の乱
世継ぎに恵まれなかった8代将軍足利義政は、弟の足利義視(あしかがよしみ)を次の将軍にすることを約束するが、その後妻の富子が男の子を出産、この時生まれた足利義尚(あしかがよしひさ)を推す富子と足利義視のあいだで家督争いが勃発した。
これに管領の細川勝元(ほそかわかつもと)が義視派として、四職の山名持豊(やまなもちとよ)が富子派として参戦したことで、家督争いは他の有力守護たちも巻きこむほどに拡大、1467年には細川方の東軍と山名方の西軍に分かれて争う応仁の乱に発展した。
応仁の乱は11年も続いたため、主な戦場だった京都は火の海になり(これで何回目だ)、1477年にやっと両者痛みわけで終結したが、各地での地域的な紛争はその後も継続し、室町時代の統治体制は崩壊した。

惣村の団結
室町時代後期になると、結束した惣村の農民たちが、悪徳荘官の免職や天災による不作などを理由に年貢の減免を求めて文書を送る愁訴や、荘園領主に大挙して押し寄せる強訴、惣村の全員が耕作を放棄して村から逃げ出してしまう逃散(ちょうさん)などを起こすようになった。
また、農民たちは傘連判状(からかされんばんじょう)に円環状に署名をしており、みんなが対等の立場で立ち向かうことを確認するとともに、事件の首謀者が処罰されることを防いだ。

土一揆
さらに惣村同士が結束して起こす土一揆も多発、なかでも売買や貸借契約の破棄を求める徳政一揆が多かった。
当初は簡単に徳政令を出さなかった幕府も、繰り返される一揆に負けて次第に徳政令を乱発、挙げ句の果てには徳政令を出す際に手数料を取っていた(分一徳政令)。
土一揆の「土」とは土を耕す農民が中心になって起こしたことに由来。

正長の徳政一揆
1428年。最初に起きた徳政一揆として知られる。
滋賀県の近江で琵琶湖を渡ってきた荷物を馬で京都へ運ぶ運送業の馬借らが、生活苦に耐え兼ねて蜂起。これに農民も加わり、高利貸を営む酒屋、土倉、寺院を襲撃した。
当時情勢が不安定だった幕府は徳政令を出さなかったが、畿内では守護大名によって地域ごとに徳政令が認められた。

嘉吉の徳政一揆
1441年。足利義教が殺された嘉吉の乱直後に勃発。
数十万もの惣村農民が京都を占拠した。
この時には幕府は押し切られる形で徳政令を出している。

山城国一揆
1485年。こちらは応仁の乱で戦争に明け暮れていた守護に代わって力をつけた、京都南部の山城国の国人たちが既得権を守るために結んだ一揆で、内部対立をしていた畠山氏をまとめて国外に追い出した。
山城国はその後、国人たちが8年間自治的支配をした。まさに住民自治。まさにイニシアティブ。

加賀一向一揆
1488年。一向宗(浄土真宗本願寺派)の信仰で結束した講という組織が、守護の冨樫政親(とがしまさちか)を自殺に追い込んだ一揆。
その後加賀は「百姓たちの国」となり、石山本願寺が支えた自治は100年も続き、戦国大名たちをも手こずらせた。彼らは死ねば極楽浄土の阿弥陀如来のもとへ行けると信じていたため、死をも恐れず戦ったのである。

寧波の乱(ニンポーのらん)
1523年。ニンポーとは中国の港の名前。
室町幕府が衰退したことで明との国交は途絶えてしまったのだが、日明貿易自体はその後も、堺商人とつながった細川氏と、博多商人とつながった大内氏によって続けられ、その両者が日明貿易の主導権を争った経済戦争。勝利した大内氏は日明貿易の利益を独占した。

嘉吉条約
1443年。対馬の宗氏と朝鮮の間で結ばれた貿易協定で、日本からの渡航者が増大したため負担が増えた朝鮮は、宗氏を通じて日本から派遣される渡来船を年間50隻に削減させた。これにより日朝貿易は縮小した。

三浦の乱(さんぽのらん)
1510年に在朝日本人が起こした暴動。三浦とは朝鮮が貿易のために開いた3つの港。

コシャマインの戦い
1457年。アイヌの大首長コシャマインが和人の居住地を襲撃した。
上ノ国の領主、蠣崎氏が反撃し制圧された。

東山文化
8代将軍足利義政は(度を越した)文化人として知られ、祖父の足利義満にならって京都の東山に慈照寺銀閣を作った。修学旅行の時に、金閣が本当に金ピカだったから、銀閣もさぞ銀ピカに輝いていると思ったら、割と地味でガッカリした記憶があるが、足利義政の時代には応仁の乱などによって幕府の財政はかなり逼迫していて、銀ピカにする余裕はなかった上に、もともと東山文化のモットーが禅の簡素の追求やわび・さびなので当初から銀ピカにする予定はなかったらしい(銀閣という呼び名も江戸時代以降に「あっちが金閣ならこっちは銀閣にしよう」みたいな感じで付けられた)。
また、有名な近代和風建築の原型である書院造(床の間)や、枯山水という庭園様式も禅宗の影響である。
さらに、茶道では、村田珠光(むらたじゅこう)が茶に禅の精神を取り入れ侘び茶を創始、生花では座敷の床間を飾る立花様式が定まった。

林下(りんか)
五山・十刹の制による臨済宗のヒエラルキーに入らなかった寺のことで、室町幕府衰退とともに衰えた五山に代わって地方武士や民衆の支持を得た。
この代表的な人物に宗純(一休さん)がいる。実際の一休さんは愉快な小坊主ではなく、ニヒルで自由主義的な反骨精神を持つ人物だったらしい。
ちなみにとんねるずのタカさんがリアル野球盤などでよく言う「花は桜木(男は石橋)」はもともとは一休さんの言葉。
ほかにも一休さんは後小松天皇の隠し子だったという説がある。まさかの皇族。
あと一休さんに「屏風の虎を捕まえろ」というディメンション的に無茶なことを言ったのは足利義満。

天文法華の乱
1536年。法華一揆が延暦寺と衝突し、寺を焼き討ちにされた挙句京都を追われた事件。
他宗派を厳しく批判することが特徴の法華宗の日親は『立正治国論』で足利義教を諌めてしまったので、幕府から迫害&拷問されたが、その後布教によって京都の商工業者に広まった。

蓮如
応仁の乱の頃に現れた浄土真宗本願寺の僧。
彼は布教の際に、読みやすい平仮名で書かれた御文(おふみ)を用いて、信者たちを講と呼ばれる団体に組織、北陸や東海を中心に信者が増えた。

東山文化の芸術
彫刻では能面、工芸では後藤祐乗の金工や、金箔をまいた漆工芸の蒔絵が有名。
また雪舟が日本的な水墨画の作画技術を集大成し、大和絵では応仁の乱のあとに土佐光信が土佐派の基礎を固めた。
土佐派の狩野正信と狩野元信親子は水墨画に大和絵の手法を融合し有名な狩野派を開始している。狩野元信の代表作は大徳寺大仙院花鳥図。

東山文化の文学
『新撰莬玖波集』:正風連歌を確立した宗祇(そうぎ)が編纂。
『犬莬玖波集』:より自由な俳諧連歌を作った山崎宗鑑が編纂。

東山文化の学問
『公事根源』をまとめた一条兼良など、政治や経済において力を失った公家が有職故実の研究を行った。
また、応仁の乱が終わると公家や僧侶は荒廃した京都から地方へ移り、地方武士たちに都の文化を伝えた。肥後の菊池氏や薩摩の島津氏に講師として招かれた桂庵玄樹による薩南学派や、中部や関東をめぐった臨済僧の万里集九が残した漢詩文などがそれである。

足利学校
平安初期に建てられ、鎌倉後期には既に廃れていたが15世紀半ば、関東管領の上杉憲実(うえすぎのりざね)が、校長先生に有名なお坊さんを呼んだり、蔵書の数を増やしたりするなど再興。
これにより足利学校は、室町時代から戦国時代における日本の最高学府となり、全国から集まった禅僧や武士が高度な教育を受けた。現在の復元は江戸時代に最も栄えた時のもの。
フランシスコ・ザビエルはここを「坂東の大学」と呼んだ。

寺子屋
地方武士の子弟の教育が行われる寺院のこと。
テキストは『御成敗式目』や、社会に必要な一般教養をやさしくまとめた『庭訓往来』だった。
足利学校同様こちらも平安時代には既にあったらしい。
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