江戸時代覚え書き④

江戸時代末期
いわゆる幕末。
開国か攘夷かで、幕府と朝廷が内部分裂。
薩英戦争や四国艦隊下関砲撃事件によって、攘夷が不可能であることを知った薩摩と長州は、とりあえず幕府から倒してしまおうと朝廷やイギリスに接近、幕府の方もフランスと手を組み対抗したが、相次ぐ将軍の死で弱体化著しかった幕府は、とうとう政権を朝廷に返還、それどころか薩長が繰り出した王政復古の大号令で幕府という存在すら廃止されてしまう。
つまり現代に置き換えれば、民主党が自民党に政権を返したのが大政奉還ならば、下野した民主党を野党としても存在させないのが王政復古の大号令ということになる(多分)。
ここら辺の時代はファンがたくさんいる上に、私は『竜馬におまかせ!』の知識しかないので、かなり適当。

薪水給与令(しんすいきゅうよれい)
産業革命によって新たな国外市場を求めた欧米列強国は、アジア各国を次々に植民地化、イギリスがアヘン戦争で清を破り南京条約で開国させたことを知った日本は、異国船打ち払い令を緩和、1842年の薪水給与令で外国船を撃退せずに薪と水を与えて帰ってもらうようにした。

ジェームズ・ビッドル
アメリカ東インド艦隊の司令長官で1846年に日本に来航。
清米貿易船や捕鯨船の寄港地として日本の港を使わせて欲しいと要求したが、幕府は拒否し、ビッドルはそのまま帰っていった。

徳川家定
13代将軍。篤姫の旦那さんで有名。
彼が将軍に就いた1853年にペリーが来航している。
もともと体が弱く35歳で病死。ちなみに特技はお菓子作りだった。

マシュー・ペリー
アメリカ東インド艦隊の司令長官で1853年に軍艦4隻を率いて日本に来航。
フィルモア大統領の国書を提出し、開国しろと日本に強い圧力をかけた。
日本はとりあえず国書を受け取り、回答は翌年すると保留しペリーを帰らせた。

阿部正弘
当時わずか26歳で幕政を主導していた老中首座で、ペリーの要求についての意見を幕臣だけでなく、朝廷や大名、さらに庶民にまで広く求めた。
これにより幕府の権威は大きく落ち、後に倒幕運動をはじめる幕末の志士たちにも大きな影響を与えたが、もはや幕府の体制は硬直化しすぎており、それどころじゃなかった。
そこで阿部正弘は、前水戸藩主で徳川慶喜のお父さんの徳川斉昭(とくがわなりあき)を幕政に参加させるなど大胆な人事を断行、江戸湾に砲台を設置し、大船建造を解禁するなどの安政の改革を行った。

日米和親条約
1854年、ペリーは約束通り日本の回答を聞きに再び来航。
しかも今度は軍艦を7隻に増やしてやってきた。
幕府はペリーの圧力に屈し、アメリカ船への燃料や食料の提供、漂流民の救助や引渡し、伊豆半島の下田と、函館の開港などが盛り込まれた日米和親条約を結ぶ。
特に第9条の最恵国待遇は、日本と他の国がアメリカよりも待遇の良い条約を結んだら、その待遇が自動的にアメリカにも適用されるというもので、日露和親条約における長崎の開港がアメリカにも適用されることになった。
その後、幕府は同じ内容の条約をイギリス、ロシア、オランダと締結した。
ちなみにロシアとは択捉島とそれより南のエリアは日本の領土であること、樺太は両方の国のものとして国境を定めないことなどを確認している。

タウンゼント・ハリス
1856年に来日したアメリカ総領事。
ハリスは幕府の通称条約の締結を求め、これを受けた老中首座の堀田正睦(ほったまさよし)は朝廷に勅許(許可)を申請したが、当時の孝明天皇はこれを拒否。
江戸時代に天皇が幕府からの勅許を拒否したことは一度もなく、当然通商条約は締結できると見越していた堀田正睦は失脚、幕政の主導権は滋賀県東北部の彦根藩主の大老井伊直弼に移った。

井伊直弼
44歳で臨時職の大老に抜擢。
自分の意見をはっきりと言う性格で、当初は開国に反対していたが、やはり合理的に考えて西洋列強国に軍事力では勝てない。なら開国をして海外の進んだ技術を受け入れたほうがいいと、考えを改めた。
問題は通商条約を受け入れるとして、どのタイミングで締結するかになったが、堀田政権の側近の岩瀬忠震(いわせただなり)が1858年にさっそく日米修好通商条約を結んでしまう。
この条約はハッキリ言って日本にとって最悪の条件の不平等条約で、そのために孝明天皇や尊王攘夷論者の怒りを買った井伊直弼は、国内で内乱が起きないように安政の大獄という恐怖政治を始めたが、1860年の桜田門外の変で水戸脱藩の志士に暗殺されてしまう。

日米修好通商条約
おもに5つの内容を持っていた。
①函館に加え、新潟、神奈川、兵庫、長崎の開港と江戸、大阪の開市。
②関税などを廃した自由貿易であること。
③開港地に居留地を作り、一般外国人の国内旅行を禁止させること。
④領事裁判権を認めること。
⑤日本に関税自主権は認められない。
②と⑤が矛盾していて、極めてアンフェアなんだけど、長らく鎖国していた日本には国際法の理解に遅れがあり、こういう詐欺まがいの交渉に丸め込まれてしまった。
このような不平等条約はオランダ・ロシア・イギリス・フランスとも結ばれ、安政の五か国条約と言われている。

アロー号事件
日本が不平等条約にサインせざるを得なかったもう一つの理由がこれで、イギリスの船を海賊船と間違って臨検しちゃった清がイギリスとフランスの軍事制圧を受け、不平等条約(天津条約)を押し付けられた事件。
アメリカ総領事ハリスは、日米修好通商条約を結んだら、アメリカがイギリスとフランスから日本を守ってやるという日米安保的な条件を持ちかけ、清の二の舞にはなりたくなかった日本はこれにやむなく従ったのである。

勝海舟
オランダから贈られた軍艦を使って長崎に作られた海軍伝習所の第一期生。
彼は幕府建造の軍艦の咸臨丸(かんりんまる)の艦長になり、1860年に外国奉行の新見正興を乗せて日米修好通商条約の批准書を交換しにアメリカへ渡った。
ちなみに子どもの頃イヌに片方のキンタマを食いちぎられて死にかけたため、ワンちゃんが大の苦手だった。

開国の経済的影響
日本に開国の揺さぶりをかけたのがアメリカだからか、開国当時の最大の貿易相手国もアメリカだという印象があるが、実はこの頃のアメリカは南北戦争(1861~65年)で大変だったため、日本と最も取引が多かったのはイギリスだった。
貿易額では横浜港が最大だった。
日本からの輸出品の8割は生糸で、その他、茶、蚕卵紙(蚕蛾の卵が産み付けられた紙)など。
日本への輸入品は毛織物、綿織物、鉄砲、艦船など。
欧米列強国との貿易は日本の大幅な輸出超過ではじまり、国内の物価は上昇した。
これを受けて幕府は1860年に雑穀、水油、蝋、呉服、生糸の5品は必ず江戸の問屋を経てから輸出させるという五品江戸廻送令を出し、物価抑制をはかったが、5品を扱う商人や列強国が反発したので効果は上がらなかった。
また生糸や茶とともに日本から大量の金貨も流出した。
当時の金銀の交換比率は1:15だったのに、日本の交換比率は1:5で、日本で銀を金に交換するだけでボロ儲けができたのだ。
それに対して幕府は日本の金貨の質を下げることで対抗しようとしたが、この改鋳により物価はさらに上昇、庶民の不満はさらに高まった。

将軍継嗣問題(しょうぐんけいしもんだい)
病弱で子どもが作れなかった徳川家定の次の将軍を、一橋家の慶喜にするか、紀伊藩主の家茂にするかという問題。一橋慶喜を推薦していたのが越前藩や薩摩藩で、家茂を推薦していたのが井伊直弼ら南紀派だった。
大老に就任した井伊直弼は、強引に14代将軍を徳川家茂にしてしまい、また安政の大獄では、徳川慶喜のお父さんの徳川斉昭(とくがわなりあき)や徳川慶喜を処罰している。
一橋家の反発を受けたのは言うまでもない。

安藤信正
朝廷、一橋家、尊皇攘夷派と様々な勢力から反感を買ってしまった井伊直弼が暗殺されると、次に老中の安藤信正が幕政に当たった。彼は朝廷と幕府の融和を図る公武合体路線を取り、徳川家茂と孝明天皇の妹の和宮親子内親王(美少女)を結婚させた。
しかしこの策略結婚は朝廷に対する冒涜だと、尊皇攘夷派の神経をさらに逆撫でしてしまい、安藤信正も1862年の坂下門外の変で水戸脱藩の志士に襲撃され大怪我を負い、老中を退いた。

徳川家茂
14代将軍。
血筋、人格(誰に対しても優しい)、武勇、全てにおいて優れたパーフェクト将軍だったが彼も21歳の若さで病死してしまう。
ちなみに大の甘党でほとんどの歯はひどい虫歯だったらしい。

文久の改革
薩摩藩主島津忠義(しまづただよし)の父、島津久光は江戸にやってきて幕政の改革を要求、これにより幕閣の人事移動、西洋式軍隊の編成、榎本武揚(えのもとたけあき)、西周(にしあまね)のオランダへの派遣、参勤交代は3年に一度、江戸にいる期間は100日に緩和された。

生麦事件
1862年。薩摩藩の武士が、江戸から帰る途中の島津久光の行列を乱したイギリス人商人ら4人を斬った事件(一人死亡)。
生麦とは事件が起きた神奈川県の村の名前。

薩英戦争
1863年。薩摩藩がイギリスに生麦事件の報復を受けた事件。
この砲撃により薩摩藩はイギリス海軍の圧倒的実力を目の当たりにし、攘夷は不可能であることを悟った。

八月十八日の政変
考えを変えた薩摩藩は、朝廷内の公武合体派の公家や会津藩とともに朝廷の実権を奪い、攘夷にこだわる長州藩と公家の三条実美を1863年に京都から追放した。

池田屋事件
1864年。新選組が京都の攘夷派を殺傷した事件。
池田屋とは京都の旅館で、中は狭かったため、新選組は刀を振り回せず、沖田総司などは刀を突いて(天然理心流の奥義の三段突きで)攘夷派を成敗した。

禁門の変(蛤御門の変)
池田屋事件をきっかけに京都に攻め込んだ長州藩を、薩摩藩や会津藩が追い返した戦い。
このあと幕府は、第1次長州征討の兵を送った。

四国艦隊下関砲撃事件(下関戦争)
1864年。第1次長州征討のさなか、長州藩はイギリス、フランス、アメリカ、オランダから下関砲台を砲撃される。これにより、とうとう長州藩も攘夷を諦めた。

改税約書
1865年。兵庫の開港を嫌がった孝明天皇に(京都と近いから)、欧米列強国がその代わりに関税の優遇措置を要求し、その勅使を孝明天皇からとることで、幕府に調印させた。
この流れを見てイギリス公使のパークスは、幕府が無力であることを見抜き、天皇を中心とする雄藩連合政権が日本に実現することを期待した。

薩摩藩改革派
薩英戦争をきっかけに薩摩藩は下級武士の西郷隆盛や大久保利通が実権を握るようになった。彼らはイギリスに接近、武器の輸入、留学生の派遣、洋式工場の建設などを行ない、倒幕の準備をした。

長州藩改革派
同じく長州藩でも、改革派に転向した高杉晋作や桂小五郎が、幕府に擦り寄る上層部に兵(西洋式の歩兵隊である奇兵隊など)を挙げ、長州藩の主導権を奪った。
改革派は長州藩の意向を倒幕に転換させ、イギリスに接近、維新の十傑の一人、兵学者の大村益次郎の指揮で、倒幕のための軍事力を強化させた。
一方の幕府はイギリスと対立するフランスの援助を受け、長州藩に領地の削減を要求したが、長州藩はこれをはねつけ、1865年に第2次長州征討が行われた。

薩長同盟
幕府は長州藩のライバルである薩摩藩に長州征討の協力を命じようとしたが、この時には既に土佐藩の坂本龍馬と中岡慎太郎によって薩摩藩は長州藩と手を組んでいた。
日本初の商社(亀山社中)を作った坂本龍馬は、長州には薩摩の銃(アメリカ南北戦争で使った余り)を、薩摩には長州の米を送ることで、薩長同盟を実現させてしまったのだ。
そのため第2次長州征討に薩摩藩は参加せず、14大将軍の徳川家茂が急死すると第2次長州征討は中止された。

徳川慶喜
15代将軍。
イギリスと対立していたフランスの援助によって幕政の立て直しを図った。
公武合体路線を主張する土佐藩の前藩主山内豊信(やまうちとよしげ)は慶喜に、天皇への政権奪還を提案、これは薩長の倒幕の決意を知った土佐藩士の後藤象二郎と坂本龍馬が豊信に託したものだった。
こうして1867年の10月14日に慶喜は大政奉還の上表を朝廷に提出。これは薩長が朝廷の岩倉具視から討幕の密勅を受け取った日と同じだった。
ちなみに、四本足の動物を食べる習慣がなかった日本で積極的に肉を食べたことから「豚一将軍」と呼ばれ、文明開化の肉食ブームのきっかけを作った。
絵画やハンティングなど趣味が多く、明治に時代に入ると実業家の渋沢栄一の援助を受けて、悠々自適の生活を送った。あまり将軍に未練はなかったらしい。

王政復古の大号令
大政奉還によって薩長は幕府を倒すという大義名分を失ったが、もう今更止められず1867年12月9日に朝廷でクーデターを起こし、王政復古の大号令により天皇のもとに総裁、議定、参与の三職を起き、有力諸藩を参与とする新政権を樹立した。
これにより将軍職を始め、朝廷の摂政や関白も全て廃止、江戸幕府は滅亡した。

幕末の文化
世直し一揆:農村にも尊王思想が広まったことによる。
教派神道:民衆信仰。
ええじゃないか:1867年。東海から畿内一帯で民衆が踊り狂った。
蕃書調所(ばんしょしらべしょ):幕府が設立した西洋の自然科学を教える学校。のちの東京大学。

留学生派遣
西周(にしあまね)、津田真道(つだまみち)榎本武揚はオランダへ。
福沢諭吉は幕府使節団としてアメリカとヨーロッパへ。
薩摩藩の森有礼、長州藩の伊藤博文や井上馨はイギリスに。
彼らは明治維新による日本の近代化に活躍。
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