明治時代覚え書き②

明治時代中期
征韓論を主張し、政府から下野した多くの士族は、軍事的な反乱を起こす。
しかし士族の中には、言論の力で民主主義国家設立を訴える者もいた。
憲法の制定、国会の開設、産業革命、国家主義・・・アジアの列強国になるための基礎は、この時期に固まったと言って良い。
生活様式では日本風と西洋風が混じり合い、大都市では鉄道馬車(レールを走るタイプの馬車)や電灯が普及したが、農村での生活はさほど代わり映えはしなかった。

不平士族
征韓論の背景には、版籍奉還で失職した上に、徴兵令によって軍人としても存在価値がなくなってしまった士族の不満があった。
つまり、このような不平士族を朝鮮征服の兵力として利用しようとしたのだ。
征韓論争によって政府から離れた者の中には、西郷隆盛のように士族反乱を起こすものと、板垣退助のように自由民権運動を起こすものがいた。

佐賀の乱
1874年に地元佐賀の不平士族にかつがれた元参議の江藤新平が起こす。士族反乱の先駆けになった事件。政府に鎮圧され、江藤新平は処刑された。

台湾出兵
不平士族の不満を和らげるために1874年に行った。

江華島事件
1875年。朝鮮の首都の近くの江華島で、領海を侵犯した日本の軍艦(日本の言い分では測量)を不審船だと思った朝鮮が、その軍艦に対して砲撃を開始、交戦状態になった事件。
この時の砲台は日本に焼き討ちにされてしまった。

日朝修好条規
江華島事件の翌年の1876年に結ばれる。これにより鎖国していた朝鮮が開国。
日本の領事裁判権を認めさせ、朝鮮に関税自主権を与えないなど、かつて自分がアメリカにやられた事をそっくりそのままやった不平等条約。
その一方で朝鮮の独立は約束された。とはいえこれも、朝鮮を清から引き離す目的があった。

廃刀令
1876年。武士の命である刀を持つことを禁止した。

秩禄処分(ちつろくしょぶん)
こちらも1876年。四民平等になってからも士族が受けていた特別報酬(秩禄)を全廃した。

士族反乱
廃刀令と秩禄処分のダブルパンチにより、士族の不満はさらに高まり、熊本の敬神党の乱や福岡の秋月の乱、山口の萩の乱などの反乱が相次いだ。

農民反乱
徴兵制度や学制に反対する血税一揆や、地租改正に反対する地租改正一揆などが士族反乱と同じ頃に起きた。
しかしこのような反乱は1877年に地租の税率を3%から2.5%に下げたことで沈静化した。

西南戦争
1877年に西郷隆盛が起こした最大の士族の反乱。
半年間に及ぶ戦いの末に鎮圧された。
自分が育てた屯田兵を引き連れて西郷討伐に当たった、同郷の黒田清隆(後の内閣総理大臣)はこの戦争があまりにショックで以後、酒に酔い荒れた生活を送るようになったという。

民選議員設立の建白書
士族反乱が起きた一方、武力ではなく言論の力で自由民権運動を起こした不平士族もいた。
愛国公党を立ち上げた板垣退助や後藤象二郎は1974年に、立法上の諮問機関にあたる左院に民選議員設立の建白書を提出した。
この主な内容は、有司専制(政府官僚による専制政治)の批判と、公の議論を行うための国会の設立要求だった。

立志社設立
故郷の土佐に帰った板垣退助が、片岡健吉、植木枝盛、林有造らとともに設立。
さらに立志社を中心とした全国組織を目指し、旧愛国公党の同志を集めて大阪に愛国社も設立された。

大阪会議
1875年。内務卿の大久保利通と板垣退助、木戸孝允が大阪で行なった三者会談。
これにより明治政府は国会開設の方針を決め、漸次立憲政体樹立の勅を発表した。
これと同時に、府知事と県令で組織される地方官会議や、大審院(最高裁判所)、元老院(立法諮問機関)を設置した。

元老院
左院が廃止されてできた。1876年には憲法草案の起草が開始された。
しかし、その一方で過度な自由主義者を、讒謗律(ざんぼうりつ。名誉毀損罪のこと)や新聞紙条例によって厳しく取り締まった。

三新法
1878年。郡区町村編制法(画一的な行政区画を定める)、府県会規則(府県予算案の審議の一部を府県会に任せる)、地方税規則(複雑な諸税を地方税に統一)の三つの新しい法律のこと。

紀尾井坂の変(きおいざかのへん)
1878年。内務卿の大久保利通が石川県の不平士族に暗殺された。
これにより大久保利通に取り立てられ、イギリス式の議院内閣制の早期導入を主張する大隈重信と、保守派で国会開設に反対する岩倉具視やイギリスよりも君主の力が強いプロイセンの憲法を導入したい伊藤博文が対立。
新たな内務卿には伊藤博文が就任したが、政府内の対立は続いた。

国会期成同盟
1880年に愛国社の呼びかけで結成。
国会開設の請願書を、太政官や元老院に提出しようとしたが受理してもらえなかった。
さらに政府は集会条例によって自由民権運動の政治結社を規制しようとした。

開拓使官有物払い下げ事件
1881年。
北海道の開拓長官だった黒田清隆が、薩摩藩の政商の関係する関西の貿易社に、北海道の開拓使が所有していた官有物を不当に安く払い下げようとした事件。

明治十四年の政変
開拓使官有物払い下げ事件により政府は世論の厳しい批判に合い、これに関わったとして大蔵卿の大隈重信を1881年に罷免、さらに政府は国会開設の勅諭を出して、10年後の国会の解説を約束した。
政治の世界から追放された大隈重信は、かの有名な早稲田大学(東京専門学校)を作っている。

欽定憲法
国民の総意に基づいた民定憲法を、天皇がその意志で採用し、定める憲法。
つまり君主によって国民に与えられる憲法。

私擬憲法
民間で作られた憲法案。
福沢諭吉:『私擬憲法案』イギリス式議院内閣制。
植木枝盛:『東洋大日本国国憲按』抵抗権や革命権を認める急進的な内容。
立志社:『日本憲法見込案』君主権を縮小。

自由党
1881年に国会期成同盟の一部が結成。党首は板垣退助。
フランス式の共和制を主張した。
板垣退助は「庶民派」のリーダーとして農村からの支持が高かった。

立憲改進党
1882年に結成。大隈重信が党首。
イギリス式の議院内閣制を主張する。
都市の実業家や知識人からの支持が高かった。

立憲帝政党
政府側の福地源一郎が結成した保守政党。
民衆の支持が集められず、すぐに解党した。

松方財政
大隈重信に代わって大蔵卿になった松方正義は、西南戦争と国立銀行の不換紙幣大量発行による政府の財政難を何とかするため、大規模な財政改革を行った。
まず政府の支出を軍事以外はすべて緊縮。さらに増税によって不換紙幣を集め、それを処分することでインフレを食い止めようとした。

日本銀行設立
1882年、松方正義が設立。翌年には国立銀行条例を改正、銀行券の発行は日本銀行のみが行えるようにした。

銀兌換紙幣
1885年。デフレ政策によって紙幣と銀貨の価値の差がなくなると、日本銀行券を銀と交換ができる銀兌換紙幣にした。

岐阜事件
1882年。岐阜を遊説していた板垣退助が暴漢に襲われて負傷した事件。
「板垣死すとも自由は死せず」はこの時の言葉。

福島事件
1882年。自由党最初の激化事件。
県道工事によって重い負担をかけられた農民が、自由党の支援の下、警察署に押しかけ約2000人の逮捕者を出した事件。

高田事件
1883年。新潟県で、政府高官の暗殺を計画したとして自由党の党員が逮捕、処罰された事件。この時の逮捕者はほとんどが冤罪で、政府による自由民権運動の弾圧だった。

群馬事件
1884年。自由党急進派が厳しいデフレによって貧困に喘ぐ農民、漁師、博徒を率いて高利貸の家を打ち壊した事件。
このような一部の自由党員の過激な行動は、板垣退助が政府に懐柔され(政府からの洋行の提案に板垣が乗った)、自由党の足並みが乱れたことが原因だった。

加波山事件(かばさんじけん)
1884年。若い民権家が栃木県令を暗殺しようとした事件。
この直後、自由党は解散した。

秩父事件
1884年。困民党を名乗る貧困農民が、負債の減免を求めて警察署、役所、高利貸を襲撃し、軍隊まで出動した事件。
こういった一連の事件の全てが自由党によるものではなかったが、自由党は支持者の信用を失っていった。

海坊主退治キャンペーン
海坊主とは三菱の岩崎弥太郎のこと。
自由党の機関紙の自由新聞によるキャンペーンで、立憲改進党が三菱から資金提供を受けていると暴露した。これにより大隈重信は離党、立憲改進党も事実上の解党になった。

大阪事件
1885年。元自由党員による朝鮮政府転覆計画が発覚した事件。
過激行動と弾圧の繰り返しで、自由民権運動は次第に勢いがなくなっていった。

大同団結
国会開設が3年後になると、自由民権運動は再び盛り上がり、後藤象二郎は自由党と立憲改進党の確執を忘れて団結しようと呼びかけた。

三大事件建白運動
片岡健吉が井上薫外務大臣の不平等条約改正交渉を失敗と批判、元老院に三大事件(外交失策の挽回、地租改正、言論集会の自由)の建白書を提出した。
これをきっかけに三大事件への陳情が各政府機関に殺到、政府は危険思想の持ち主(と思われる人)を皇居から12キロ以内から締め出すという保安条例によって三大事件建白運動の運動家を東京から締め出したが、この運動は東北地方を中心に継続、旧民権派の再結集が進んだ。

憲法調査
1882年にヨーロッパに来訪した伊藤博文は、ベルリン大学のグナイストやウィーン大学のシュタインなどから君主の権限が強いドイツ流の憲法理論を学んだ。翌年帰国。

華族令
1884年。公家や大名などでなくても国家に功績を残した人は華族として認められる(=世襲の爵位が与えられる)法令。
貴族院(上院)の基礎を作るために作られた。

内閣制度
1885年。太政官制に代わって制定。
内閣は天皇の輔弼機関であり、各省庁は天皇に対して助言を行うとともに、天皇の行為に対してはその責任を負う。
ちなみに現在の内閣は国会に対して責任を負う(議院内閣制)。
内閣の首班となるのが総理大臣で、初代総理大臣には伊藤博文が就任した。

憲法草案の作成
1886年。作成者は伊藤博文、井上毅(いのうえこわし)、伊東巳代治(いとうみよじ)、総理秘書官で日本法律学校(日本大学)初代校長の金子堅太郎など。顧問はドイツの法学者ロエスエル。彼は商法の草案作りにも関わった。

枢密院
1888年設置。天皇の諮問機関。
憲法草案の審議が天皇臨席の上で行われた。

市制・町村制
1888年。山県有朋らがドイツのモッセを顧問にして作った地方自治制度。
1890年には府県制・郡制もできた。

大日本帝国憲法発布
天皇が制定し、それを黒田清隆総理大臣に授ける形で1889年2月11日に発布。
天皇と内閣に強い権限があったことが特徴。
ドイツの憲法を参考にしたため、天皇の権限が非常に強く、官僚の任免権、国防の方針の決定権、軍の統帥権、条約締結権などは全て天皇にあった。
このような国会が関与できない天皇の権限を天皇大権という。
特に軍の統帥権は内閣からも独立し、天皇直属の権利とされた。

帝国議会
明治憲法下における国会。
貴族院と衆議院の二院制で、両議院は対等の権限があった。
貴族院は、皇族や華族、多額納税者銀、内閣の推薦で天皇に任命される勅撰議員など非公選の議員によって構成され、政党議員はいなかった。
内閣の予算案や法案は帝国議会を通さなければならないため、政党の力は強まっていった。

臣民
明治憲法下における国民。
所有権の不可侵、信教、言論、出版、集会、結社の自由を法律の制限付きで認められた(法律の留保)。また帝国議会を通して国政に参加する権利も認められた。

衆議院議員選挙法
大日本帝国憲法と同時に公布。
選挙人は満25歳以上。被選挙人は満30歳以上で、直接国税(地租と所得税)15円以上納入した(全人口の1%しかいない)男子に限る制限選挙。
議員出馬のための納税制限は、その後10円以上→3円以上と引き下げられ、1925年に撤廃された。

皇室典範
大日本帝国憲法とともに制定(公布はされなかった)。
皇室に関する基本的な法典。欽定の最高法規で国会が関与することはできなかった。

民法典論争
民法は「日本近代法の父」と呼ばれるフランスの法学者ボアソナードが起草し、1890年に発表されたが、フランス流の自然法思想が日本の保守的な伝統にそぐわないとして、その施行は無期限延期された。
とはいえ、ナポレオン法典をそのまま日本に導入すべきとは考えていなかったボアソナードは、日本の慣習法と折り合いをつけ、また民法の他にも、刑法や治罪法など国内法の整備に積極的に取り組み、不平等条約の改正に大きく貢献をした(日本は民法がないことを理由に治外法権を正当化させられていた)。

第1回衆議院議員総選挙
1890年。大勝したのは自由党が再結集して出来た立憲自由党や立憲改進党。
立憲自由党は翌年党名を再び自由党に改めた。
自由党などの反政府系政党は民党と呼ばれた(政府系の政党は吏党)。

第1回帝国議会
1890年11月25日。
衆議院の過半数を占めていた民党は、行政費を削減し人民の税負担を減らせと、政府予算案を激しく批判した。

超然内閣
黒田清隆が発表した、内閣は政党のあり方に左右されないという立場。
しかし時の山県有朋内閣は、過半数を占める民党の意見を無視できず、その後の第一次松方内閣も軍艦建造費の予算案を通そうとして民党の激しい攻撃にあっている。

第2回衆議院議員総選挙
松方内閣の内務大臣だった品川弥二郎は、民党候補者の当選を阻もうと、選挙干渉を行ったが、結果はやっぱり民党の圧勝だった。これにより松方内閣は退陣した。

元勲内閣
第2次伊藤内閣のこと。明治維新で功績を残した薩摩藩や長州藩の実力者たちがオールスターで入閣したためこう呼ばれている。しかしやっぱり、民党の勢いを止められなかった。
このため伊藤博文は、外務大臣の陸奥宗光を使って自由党に接近、切り崩しを図った。
これが成功し、政府と自由党のあいだに連帯が生まれた。
また伊藤博文は天皇の権限に頼り、議会に政府への協力を呼びかけさせた。これにより海軍の軍備拡張に成功した。
しかし、政府に擦り寄った自由党に反発した立憲改進党は、逆に吏党の国民協会などと同盟を結び、第5、第6回帝国議会では過半数を取ったため、伊藤博文はその後も厳しい内閣運営を強いられた。

企業勃興
1886~89年までの会社設立ブームのこと。
デフレ不況(松方財政)だった頃に、土地を安く買い叩いて大儲けした豪農や豪商によって、全国の会社資本は増加、金融機関の資金は不足するようになったが、1889年に凶作が起こると企業勃興は終わった(1890年不況)。
企業勃興で生まれた会社は、機械技術の導入で大量生産を図り、産業革命の原動力になった。

紡績業
綿花から繊維を取り出し綿糸を作る産業のこと。
幕末~1870年代までは、関税自主権が認められなかったために、外国の安い綿織物が大量に輸入され、国内の綿織物業は不振だったが、その後業者は外国から安い綿糸を大量に購入し、ジョン・ケイの飛び杼の原理を手織り端の技術に組み込むことで、生産量を上げた。
これにより綿織物を安く大量に生産できるようになり、綿織物業は復興、綿糸の国内需要も高まり、1882年には大阪紡績工場が設立した。

大阪紡績工場
「日本資本主義の父」とも呼ばれる実業家の渋沢栄一が設立。
イギリスから輸入した紡績機械を蒸気機関で動かし(それまでは水力が主流)、安価な綿糸の大量生産に成功する。
これにならった大阪の豪農や豪商たちが、企業勃興時に次々に紡績会社を設立したことで、1890年には、国内で生産された綿糸の量が、輸入綿糸の量を超えるまでになった。
ちなみに渋沢栄一は、みずほ銀行や東京証券取引所、また、王子製紙、帝国ホテル、東京海上火災保険、キリンビール、サッポロビール、東京慈恵会、日本赤十字社、理化学研究所なども設立している。
彼は私利私欲よりも公益を優先させたため、同時代の他の実業家と異なり財閥を作っていない。
幕臣時代には、パリ万博に行ったり、エジソンに会ったりもしている。

製糸業
こちらはカイコの繭から生糸を作る産業のこと。
生糸は幕末以来、日本で最大の輸出品だった。
これまでは木製の歯車を手で回して糸を巻き取っていたが(座繰り製糸。ガンジーシステム)、外国製の繰糸器が導入され、器械製糸が主流になった。農村ではカイコの養殖も盛んになった。

日本鉄道会社
1881年に華族が主体となって設立した民間の鉄道会社。
これも企業勃興の時期に次々に設立されている。

財閥の誕生
1884年から政府が軍事工場と鉄道以外の官営事業を民間に払い下げると、これを買い取った民間企業は莫大な利益を上げて財閥となった。
三井、三菱、古河などの政商は、優良鉱山を政府から買い取り、巻上機などを使うことで石炭や銅の生産と輸出を増やした。
また北九州の筑豊炭田では排水用ポンプが導入され開発が進んだ。
三井財閥:江戸時代の両替商、三井家の財閥。日本初の私立銀行を設立。
三菱財閥:土佐藩の通商、岩崎弥太郎が設立。海運業を独占支配。
安田財閥:安田善次郎が明治時代に創業した安田銀行をもとに創始。

不平等条約改正
岩倉使節団(1871~73年)から続く不平等条約撤廃のための外交努力。
寺島宗則→井上薫→大隈重信→青木周蔵→榎本武揚→陸奥宗光→小村寿太郎という流れでやっと改正されるが、これは日米修好通商条約からなんと53年という長い道のりだった。

寺島宗則
1878年。アメリカに対し関税自主権の回復に絞って交渉を持ちかけ、ほぼ成功したけたが、イギリスやドイツの反対によって惜しくも失敗した。
また同じ時期に日本にアヘンを持ち込んだイギリス人が治外法権で無罪になるアヘン密輸事件が起き、関税自主権よりもまずは領事裁判権撤廃が先だろ、と世論の声が上がった。

井上薫
1882年。領事裁判権の撤廃をメインに交渉を進めた。
寺島外務卿の失敗を生かして、欧米各国の代表者を集め改正に向けた予備会議を開き、1883年には日比谷に鹿鳴館を建て欧米の要人を接待した。
井上薫は1886年に入ると正式に改正交渉を始め、領事裁判権の原則撤廃を欧米諸国にだいたい認めさせたが、この改正案には、外国人を日本で裁く場合その判事には外国人を半数以上付けることや、外国人の行動範囲を居住地から全国に広げるなどの交換条件があったため、政府内外から批判が続出した。
同じ時期に三大事件建白運動が起こり、鹿鳴館外交も極端な欧化主義だと批判、こうして井上薫は辞任に追い込まれた。
ちなみに初代内閣総理大臣の伊藤博文とは同郷の親友でドスケベコンビだった。

大隈重信
明治十三年の政変で下野し、東京で専門学校(早稲田大学)を開いていたが、井上薫が辞任すると、彼に代わって外務大臣に抜擢された。
大隈重信は、不平等条約の改正内容を極秘にして、改正に好意的な国から個別に交渉を始め、アメリカ、ロシア、イギリスから条約改正の調印を受けることに成功する。
しかし1889年、この条約改正案にも、大審院の裁判の判事には外国人を任用するという日本にとって不利な条件がついていることが『ロンドン・タイムズ』に暴露され、右翼の青年の来島恒喜(くるしまつねき)から爆弾で右脚を吹き飛ばされた大隈重信は、外務大臣を辞任した。
大隈重信は、この事件を起こした来島恒喜について「全然憎んでいない。若い奴はこれくらいの元気がなくちゃ」と語ったという。

青木周蔵
大隈重信に代わって外務大臣に就任。
彼は交渉相手を最大の難関だったイギリス一国に絞った。
しかしこの時のイギリスはロシアの南下政策を警戒し、清に利権を持つイギリスは日本との協力体制を築こうとしていた。
これによりイギリスは日本に対等条約を持ちかけ、無条件での条約改正交渉はほぼ合意にこぎつけていた。

大津事件
1891年。青木周蔵の交渉がまもなく締結しようとした時、滋賀県の巡査の津田三蔵が来日中のロシア皇太子ニコライ(のちのニコライ2世)に切りつけた傷害事件が発生。
津田巡査は、政府の圧力に屈せず司法権の独立を守った児島惟謙によって死刑を免れたが、大きな外交問題となり、この責任を取って青木周蔵は辞職した。

榎本武揚
青木周蔵に代わって外務大臣に就任。
青木案に沿って交渉を進めようとしたが、国内の世論が「それよりも諸法典の編纂を優先しろ」となったため、結局交渉は進まなかった。

壬午軍乱(じんごぐんらん)
1882年、日本よりも清との関係を重視しようという親清派の大院君(テウォングン)を支持する軍隊が、親日派の閔(ミン)氏一族に反対して、漢城で反乱を起こし、この反乱に呼応した民衆たちが日本公使館を取り囲んだ事件。
この反乱は結局失敗に終わったが、親日派だった閔氏は日本ではなく清に依存することにした。

甲申事変(こうしんじへん)
日本と接近して朝鮮を近代化させようと考えていた、独立党の金玉均(キムオクキュン)ら親日改革派は、清仏戦争(1884年)で清が負けたのを見計らって、日本公使館の支援のもとでクーデターを起こした。しかし清の支援によって、このクーデターも鎮圧されてしまった。

天津条約
1885年。全権大使の伊藤博文が、清国全権の李鴻章(りこうしょう)と悪化した日清関係を修復すべく結んだ条約。
日清両国が朝鮮から撤兵すること、日本が軍事教官を朝鮮に派遣しないこと、今後朝鮮に出兵するときはあらかじめお互いに通告し合うことが約束された。
しかし壬午軍乱と甲申事変によって、朝鮮に対する日本の影響力は低下し、清の影響力は増大した。そのため、日本国内では清と朝鮮に対する感情が悪化し、どっちもまとめて武力制圧すべきだという世論が強まった。

樺太・千島交換条約
1875年。日本(駐露公使榎本武揚)とロシアが樺太と千島列島を交換した。
これにより樺太はロシア領、千島列島は日本領になった。

小笠原諸島
東京の南の果てにある島々。
1876年に日本の領土だということが国際社会によって確定。
内務省の管轄になった。

脱亜論
福沢諭吉が提唱。日本はアジアから脱却して欧米に肩を並べる列強国になり、植民地を獲得していくべきだと考えた。
しかし、まずもって国民の幸福を主張する平均的欧化主義や近代的民族主義論者は、こういった日本の大陸進出には慎重だった。

島地黙雷(しまじもくらい)
政府の神道国教化に反対した浄土真宗の僧侶。神仏分離や信仰の自由を主張し、廃仏毀釈で打撃を受けた仏教の独立を勝ち取った。

キリスト教徒の知識人
札幌農学校のクラークなどの影響で増加する。
内村鑑三や新渡戸稲造など。

教育令
1879年公布。地方の実情を無視した画一的で強制的な学制を緩和、自由主義的にした。

学校令
1886年。森有礼文部大臣の下、公布。
帝国大学、師範学校、中学校、小学校と近代的な学校の体系が確立された。

教育勅語
1890年。学校教育の基本が忠君愛国とされた。

坪内逍遥(つぼうちしょうよう)
評論家。1885年に発表された『小説神髄』において、西洋の文芸理論に基づいて人間の内面や世相を客観的かつ写実的に描くべきだと主張。
戯作や勧善懲悪は否定された。この主張を取り入れた作家として、『浮雲』の二葉亭四迷、『五重塔』の幸田露伴がいる。

『文学界』
1893年創刊。
啓蒙主義や合理主義に反発し、人間の個性や感情を重視したロマン主義の作家の文芸雑誌。

『舞姫』
森鴎外が『国民の友』に掲載。ロマン主義的な短編小説。
ベルリンに留学した主人公が、エリスという美少女に出会い同棲したが、ロシアに転職することになり、これを知ったエリスが発狂してしまうという話。
・・・すまん、よく知らん(^_^;)

東京美術学校
現在の東京芸術大学。1887年設立。
西洋美術を排除した学校で、校長は岡倉天心、第一回の卒業生には横山大観がいる。
アメリカから教授として招かれたフェノロサは、日本の伝統美術を大いに称え、一方の西洋絵画を有害文化だと考えた。

『収穫』
浅井忠(あさいちゅう)の作品。バルビゾン派のミレーを思わせるような西洋絵画。彼が中心になり1889年には明治美術会が結成された。

団菊左時代
1890年代に大人気だった、9代目市川団十郎、5代目尾上菊五郎(おのえきくごろう)、初代市川左団次の3人の歌舞伎役者にちなむ。

壮士芝居(新派劇)
自由民権思想を普及させるための劇。壮士とは自由民権運動の活動家のこと。
1888年に角藤定憲 (すどうさだのり) が中江兆民の支援を受けて大阪で旗揚げした。
1891年には、川上音二郎が政府や社会を愉快に風刺するオッペケペー節を流行させた。
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