明治時代覚え書き③

明治時代後期
近代化を果たした日本は、日清戦争と日露戦争という本格的な対外戦争を始める。
ほとんどの国民は戦争に賛成したようだが、軍事費捻出のための増税策や、国家主義に批判的な社会主義者に対する思想の弾圧などが実施されると、一連のミリタリズムに疑問を持つ人々も増えていった。
しかし、これらの戦争によってアジアの小国だった日本が列強国の仲間入りをしたことは確かで、日清戦争時の全権大使の陸奥宗光は領事裁判権を撤廃、日露戦争時の全権大使の小村寿太郎は関税自主権を回復し、幕末の古傷である不平等条約はとうとう改正された。
・・・いや~歴史にドキリは勉強になるなあ。

甲午農民戦争(東学党の乱)
1894年。朝鮮の農民が減税と日本排斥を訴えて起こした反乱。
この反乱の鎮圧を朝鮮政府(閔氏政権)から要請された清は、天津条約で約束したとおり、日本に通知してから朝鮮に兵を挙げた。
議会運営に苦しむ日本(第2次伊藤内閣)も、戦争が起これば国もまとまるだろうと、日本人居留地の保護という建前で朝鮮に兵を送り込んだが、農民軍はすぐに朝鮮政府と和解。
日本軍が朝鮮に到着した時には、すでに戦争は終わっていた。
ちなみに東学とは排外主義を掲げる民族宗教のことで、この宗教の信者が朝鮮の農民軍を率いたことから東学党の乱という。

日英通商航海条約
1894年。外務大臣の陸奥宗光が締結。
日本軍の朝鮮駐留に対するイギリスの支持を取り付けた。
またついに領事裁判権の撤廃も実現した。

大院君
陸奥宗光は清に対して、日本と共同で朝鮮政府を変革しようと持ちかけたが、これを断られ絶縁状を突きつけられた。
そのため日本軍は漢城に進軍し、閔氏を倒すと、日本のために壬午軍乱を起こしてくれた大院君に政権を握らせ、清を追い払うように仕向けた。

日清戦争
1894年8月。
朝鮮政府の要請という大義名分を得た日本は、清国へ宣戦布告した。
日清戦争が始まると、政党の政権批判は止み、議会は戦争関連の予算案や法案を全て承認した。
豊島沖海戦の勝利や、遼東半島や威海衛(いかいえい。清の北洋艦隊の基地)占領など、戦局は日本軍の圧倒的有利だった。
こうして日清戦争に勝利した日本軍は清軍を朝鮮から追い出した。

下関条約
1895年。伊藤博文と陸奥宗光が、清の李鴻章と結ぶ。
その内容は以下の四つ。
①清が朝鮮の独立を認めること。
②遼東半島と台湾と澎湖諸島(ほうこしょとう)を日本に割譲。
③2億両(約3億円)の賠償金の支払い。
④新たな港(沙市、重慶、蘇州、杭州)を開くこと。

この時に得た多額の賠償金によって、日本には再び企業勃興ブームが起こり、資本主義が本格的に確立した。

三国干渉
東アジアに南下したかったロシアは、フランスとドイツを誘って、日本が得た遼東半島を清に返せと圧力をかけた。
この三国に勝てるほどの軍事力がなかった日本は、清からの3000両の支払いと引き換えに遼東半島を手放した。
これにより日本の対露感情は悪化、軍事力の強化が課題になった。
伊藤内閣は自由党の板垣退助を内務大臣として入閣させ、自由党の協力で軍事拡張の予算案を議会で通した。
また、そのあとの第2次松方内閣も、立憲改進党から結党し、衆議院の3分の1を占めていた進歩党と手を組み(党首の大隈重信を外務大臣に入閣)、軍事力強化をさらに進めた。
しかし軍事拡張のための増税を試みると進歩党が猛反発。その背景には賃金労働者による労働運動の高まりがあった。
このため進歩党党首の大隈重信が辞任、松方内閣は今度は自由党と連携しようとしたが、結局うまくいかずに1897年に総辞職した。

貨幣法
1897年。総理大臣兼大蔵大臣だった松方首相が制定。
貿易の発展と貨幣価値を安定させるため、銀本位制ではなく国際基準の金本位制に変更した。金本位制に必要な準備金は、下関条約の賠償金があてがわれた。

労働組合期成会
高野房太郎や片山潜が1897年に結成。
彼らの指導のもとに鉄鋼組合や日本鉄道矯正会といった労働組合が組織された。
この年には全国で40件あまりのストライキが起きている。

憲政党
第3次伊藤内閣の軍事増税に反対するために、自由党と進歩党が合体して出来た。憲政党は衆議院の絶対多数となり、第3次伊藤内閣は退陣した。

第1次大隈内閣
憲政党党首の大隈重信が首相に就任。
これが日本初の政党内閣である。
外務大臣に大隈重信(首相と兼任)、内務大臣に板垣退助が就いたため、隈板内閣(わいはんないかく)とも呼ばれた。
しかし内閣発足してすぐに憲政党が内部対立、演説中の失言(共和演説事件)で辞任に追い込まれた文部大臣(尾崎行雄)の後任人事をめぐる争いが決定的となり、憲政党はあっけなく分裂した。
これにより第1次大隈内閣はたった4ヶ月で退陣した。

第2次山県有朋内閣
松下村塾で学び、幕末期~明治初期には奇兵隊を率いた生粋の軍人で「国軍の父」と呼ばれる。日本の軍国主義を作った張本人として評価が低かったが、外交、安全保障、大陸政策などには慎重派であり、軍人ならではのリアリストだった。
自分の命は、なにか重要なことに使いたいと考えていたため、万が一に備えてふぐすら食べなかった。
山県有朋は軍部、官僚、貴族院に太いパイプを持っていたため、憲政党から協力を取り付け、以下の四つの政策を行った。

山県有朋内閣の政策①文官任用令の改正
高級官僚になるための任用資格規定を作った。
これにより専門官僚としての知識や経験がない政党員は高級官僚になれなくなった。
テクノクラート。

山県有朋内閣の政策②文官分限令と文官懲戒令の制定
国務大臣以外の官僚の身分を保障するもので、政党は官僚に影響を与えられなくなった。

山県有朋内閣の政策③軍部大臣現役武官制
現役の大将、もしくは中将でないと陸海軍の大臣にはなれない制度。
シビリアンコントロールの逆。

山県有朋内閣の政策④治安警察法
1900年。労働運動、農民運動、社会主義運動を弾圧するための法律。
民衆の声を反映させようとする政党の影響力を抑えるものだった。

立憲政友会
山県内閣の政策は、そのどれもが政党弾圧的な側面があったため、憲政党は山県有朋ではなく伊藤博文に接近した。
一方の伊藤博文も政党の重要性を考え新党の発足の準備を進めていたため、両者の利害は一致し、伊藤博文を党首とする新しい政党、立憲政友会ができた。
その後、強引だった山県内閣が総辞職すると、第4次伊藤内閣が発足するが、発足まもない立憲政友会が母体だったため力が弱く、提案した増税案の否決が相次ぎ、約7ヶ月で総辞職した。

第1次桂太郎内閣
1901年発足。桂太郎は戊辰戦争で戦った軍人で、山県有朋の後継者的な人物だった。
この頃から、日本を取り巻く国際情勢が悪化したため、桂太郎は日露戦争が終わるまで政権を維持し続けた。
ニコニコしながら相手の背中をポンと押して人の心をつかむのでニコポン宰相とも呼ばれる。
西園寺公望と安定した政治を行なったのも、軍人らしからぬ彼の人柄によるものだったのかもしれない。

八幡製鉄所
1901年操業。国内最大の筑豊炭田の近くに政府が作った官営製鉄所。
のちの日露戦争時に鉄の需要が増えたためコークス炉を導入してからは大活躍することになる。鉄鋼の国内シェアの8割を占めた。

西園寺公望
立憲政友会総裁。伊藤博文からバトンタッチされた。
フランス留学経験のある公家で、自由主義や立憲政治の重要性を理解していた彼は、巨大化する軍部の力を抑えようと尽力することになる。

元老
天皇の補佐役。伊藤博文も山県有朋も政界の第一線から退いたが、元老として首相の選任権は握り続けた。特に山県有朋は「元老中の元老」と呼ばれた。

中国分割
清は「眠れる獅子」と呼ばれていたが、日本ごときに負けちゃうんじゃ実は大したことないんじゃないか、と考えた列強国は次々に中国に領土を築いた。
アメリカの国務長官のジョン=ヘイは門戸開放、機会均等、領土保全の3原則を列強に呼びかけ、この原則のもとに各国は中国を分割していった。
パイ(清)をイギリス、フランス、ドイツ、ロシア、日本が切り分ける風刺画は有名。

義和団の乱
義和団は清の宗教団体。「扶清滅洋」(清を助けて列強国を追い出そう)のスローガンのもと、民衆とともに反乱を起こし、北京の公使を包囲した。

北清事変
義和団事件に乗じて清政府が列強国に宣戦布告をしたこと。
これを受けて列強国は連合軍を組織し、日本も1900年にこれに参加し清に軍隊を送った。
連合軍は北京から義和団を追い出し、清を降伏させ北京議定書を結んだ。

北京議定書
清は多額の賠償金を列強国に支払うことになった。
また北京の公使館周辺は治外法権となり、公使館守備隊が駐留することになった。

大韓帝国
1887年に建国。ロシアが朝鮮に大院君政権を倒させて作った親露的な国家。
ロシアは北清事変の際に満州へも進出していたので、日本のロシアに対する危機感はさらに高まった。

満漢交換論
ロシアとの付き合いをこれからどうするかについては、大きく二つの立場があった。
一つが平和的共存、もう一つが徹底対決だった。
伊藤博文は前者の立場で、満州の権益をロシアに譲る代わりに、日本が持つ韓国の権益はロシアに認めてもらおうという提案をした。これを対露協商論と言う。
しかし桂内閣は対露強硬論を取り、イギリスに接近した。

日英同盟協約
1902年。
清と韓国における日英両国の権益を互いに了承し、同盟国が戦争になった場合は、他方の同盟国は中立を守り、さらに第三国が他国側に参戦した場合には、同盟国側に参戦することを決めた。
こうしてイギリスを味方につけた日本は、ロシアに対して満州から撤退するように求めたが、ロシアはこれを無視、日本はロシアと交渉を続けながら戦争の準備を進めた。

非戦論
キリスト教徒の内村鑑三や、社会主義者の幸徳秋水、片山潜が主張。
しかし世論は1903年に結成された対露同志会や、戸水寛人(とみずひろんど)ら帝国大学教授、また『国民新聞』を主宰したジャーナリストの徳富蘇峰(とくとみそほう)主戦論に影響され、開戦はやむおえない雰囲気になった。

日露戦争
1904年。日本はイギリスとアメリカに公債を買ってもらい、莫大な戦費を調達した。
対するロシアは革命運動が起こり、ロシア皇帝ニコライ2世は、日本と戦争をしている場合じゃなくなっていた。これには陸軍きってのロシア通の田中義一の裏工作があった。
日露戦争は、機関銃や速射砲(無煙火薬を使ったため大砲の中のススを掃除する必要がなく早く撃てる)などの新兵器が導入された本格的な近代戦だった。
また政府が民間の重工業を奨励したため、鉄鋼業や造船や旋盤技術は世界基準に追いついた。

日韓議定書
韓国政府に対して日本軍に便宜を図らせた。

第1次日韓協約
1904年。韓国政府内に日本が推薦した財政と外交の顧問を置くことを認めさせた。

日本海海戦
1905年5月。
東郷平八郎率いる日本の連合艦隊が、ロシアのバルチック艦隊を全滅させた。
東郷平八郎はブシドウを感じるということで欧米の人気が高い人物。

桂・タフト協定
1905年7月。
桂太郎とアメリカのウィリアム・タフト陸軍長官(後に大統領になる)との協定。
アメリカのフィリピンの支配を日本が認める代わりに、日本の韓国に対する指導権を認めさせた。
同じ年には日英同盟を改定しイギリスとも似たような協定(イギリスのインド支配を認める代わりに、日本の韓国保護国化を認めさせた)を結んでいる。

ポーツマス条約
1905年9月。全権大使は小村寿太郎。
アメリカのセオドア・ルーズベルト大統領の仲介で結ばれた。
ポーツマスとはワシントンの近くの軍港。
その内容は以下の四つ。
①ロシアは日本による韓国の指導権と監督権を認める。
②清から日本へ旅順・大連(遼東半島南端)と南満州鉄道を譲渡すること。
③南樺太とその付属諸島を譲渡すること。
③沿岸州とカムチャッカにおける日本の漁業権を認めること。

しかし、賠償金が取れなかったために国民が反発、日比谷焼き討ち事件などの暴動が各地で起きた。

韓国統監府
韓国から外交権を奪い、ソウルに置いた。
初代総監は伊藤博文で、彼が韓国の外交を司った。

桂園体制
1901~1913年までの期間は桂太郎内閣と西園寺公望内閣が交互に政権を担当した。
1906年にできた第1次西園寺内閣は迅速な軍事輸送を可能にするために鉄道国有法を定めて、民間の鉄道のほとんどを国有化した。
立憲政友会を母体とする西園寺内閣は桂内閣に比べて穏健だった。社会主義に対しても寛容な姿勢を見せたため、日露戦争中に下火になっていた社会主義運動は再燃した。

関東都督府
関東州を統括する機関。関東州とは日本の関東地方のことではなく、日露戦争で日本が手に入れた旅順や大連を含む遼東半島南端のエリアのこと。

南満州鉄道株式会社
大連に設置。半官半民の会社。鉄道沿線の炭鉱も経営した。
このような満洲の権益は国際社会の批判にあったが、日本政府は日英同盟と日露協約によってこれを押さえ込んだ。

ハーグ密使事件
1907年。韓国の皇帝である高宗が、ハーグで開かれた第2回平和会議に密使を送り、日本の支配に対する不満を訴えた事件。列国はこの密使を無視した。
日本は高宗を退位させ、第3次日韓協約で韓国の内政権を握り、韓国軍を解散させた。

日本社会党
片山潜の日本社会党と、西山光次郎の日本平民党が合体してできた。
もともと西園寺内閣は社会主義に寛容だったが、山県有朋など官僚勢力の非難があがり、結局解散させられた。

赤旗事件
1908年。社会主義者が赤旗を振って逮捕された。
天皇制すら反対する社会主義者に明治天皇は不快感を示し、第1次西園寺内閣は総辞職した。

戊申詔書(ぼしんしょうしょ)
第2次桂内閣が発布。国民の教化(世論の引き締め)を図った。
その背景には国家主義を疑問視する風潮があった。

地方改良運動
行政単位を新しい町村に再編し、内務省の町村に対する影響力を高めた。

帝国在郷軍人会
1910年に設立。町村ごとに存在した在郷軍人会をまとめた。

大逆事件
1910年。幸徳秋水らが天皇暗殺を計画、これを受けて政府は社会主義者や無政府主義者に大弾圧を加えたが、その大半は天皇暗殺計画に無関係だった。
以降、社会主義運動は第一次世界大戦まで再興せず冬の時代と呼ばれた。

特別高等課
思想の取締りの中枢で、大逆事件を受けて警視庁内に設置された。略して特高。

工場法
1911年。日本初の労働者保護法。
このように第2次桂内閣は、社会主義者を弾圧する一方、労働者への配慮も行った。
ビスマルク体制のアメとムチと似ている。

義兵運動
第2次桂内閣の頃に韓国で起こった植民地化の抵抗運動。
第3次日韓協約で解散させられた韓国軍の元兵士が参入し本格化した。
桂内閣は軍隊を増派して鎮圧に乗り出したが、その最中の1909年に、初代韓国統監の伊藤博文が韓国の運動家である安重根に駅で射殺されてしまった。
ちなみに安重根は韓国では英雄視されており(記念館があるほど)、日中韓が協力して西洋と戦おうという汎アジア主義を掲げていた彼は、日本でも右翼勢力を中心に賞賛の声があったと言う。実際、安重根は日本の天皇を敬愛し、旅順の日本人とも仲が良かったのだが、根も葉もない陰謀論(伊藤博文が孝明天皇を暗殺した)を間に受けて、韓国併合反対派の伊藤博文を殺してしまったことは、彼にとって最大のミスだったと言えよう。

韓国併合
1910年。伊藤博文暗殺をきっかけに、韓国に併合条約を強要し韓国を植民地化した。
さらに漢城を京城と改称し、統治機関の朝鮮総督府を設置した。
初代総督は、3代目韓国統監の寺内正毅が引き継いだ。

日米通商航海条約
1911年に小村寿太郎が締結。条約改正の最大の悲願、関税自主権が回復した。
これにより日本は欧米諸国と対等な立場を獲得した。

国家主義
対外膨張主義。日露戦争勝利後に主流の思想となった。
日本の大陸進出を肯定した高山樗牛(たかやまちょぎゅう)の日本主義など。
キリスト教徒や社会主義者はこれに反対したが少数派であり、逆に圧迫された。
その後日露戦争で日本が列強国の一員になると、国家論よりも地方の利益や自分の人生のほうが深刻な悩みだと、国家主義は疑問視されるようになる。

帝国大学
1886年の帝国大学令によって作られた国立大学。
東京大学、京都大学、東北大学、九州大学、北海道大学、京城大学(※現ソウル大学)、台北大学、大阪大学、名古屋大学。

ロマン主義文学
与謝野晶子が活躍した雑誌『明星』が中心となった。
樋口一葉:『たけくらべ』『にごりえ』
泉鏡花:『高野聖』
島崎藤村:『若菜集』詩歌。

自然主義文学
フランスやロシアの影響を受ける。
人間社会の暗い現実をありのままに描く。
国木田独歩:『武蔵野』
田山花袋(たやまかたい):『蒲団』
島崎藤村:また出た。『破戒』
石川啄木:『一握の砂』『悲しき玩具』詩歌。

夏目漱石
現代文学は全てこの人の影響を受けているといってもいいほどの言わずもがなの大作家。
自然主義とは別に人間の内面を社会や国家のあり方になぞらえた。
『吾輩は猫である』『坊ちゃん』『草枕』『こころ』『三四郎』
読んだことあるけど、私にはむつかしくて(特に『草枕』)よくわからなかった。
村上春樹とかも何がいいんだかわからないしな。

岡倉天心
1898年に日本美術院を創設。
彼が設立した東京美術学校は伝統美術を重視したが1896年には西洋画科も新設された。
文部省も伝統美術と西洋美術の共演を図ろうと1907年に文部省美術展覧会を創設している。

黒田清輝
フランスの印象派の画風を学んだ洋画家。西洋美術団体の白馬会を創立した。

高村光雲
『老猿』で有名な彫刻家。
フランスでロダンに学んだ彫刻家の荻原守衛(おぎわらもりえ)と対立したが、やがて共存した。

新劇
日露戦争後に西洋の近代劇が翻訳されて上演されるようになった。
坪内逍遥の文芸協会や、小山内薫の自由劇場など。
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