明治時代覚え書き①

明治時代の概要(1868年~1912年)
一人の天皇につきひとつの元号になったので、期間としてはそこまで長くはないんだけど、近現代史ってことで、文明開化から日清・日露戦争まで盛りだくさん。
西洋型の近代国家となった日本は、国際社会と積極的に関わるようになり、世界史と日本史は合流していく。

明治時代前期
王政復古の大号令に納得がいっていない旧幕府軍との戦争によって明治時代は始まった。新政府は戊辰戦争を繰り広げながらも着々と明治時代のアウトライン(天皇親政、身分制度緩和、近代的な議会政治など)を描き、戦争が終わると破竹の勢いで近代化を実現させるが、幕末に結ばれた不平等条約によって関税自主権がなかったため、国内産業が苦戦、全体的に経済活動はあまり活発化しなかった。

小御所会議(こごしょかいぎ)
1897年12月9日、王政復古の大号令が出された日に行われた、公武合体派と倒幕派の会議。徳川慶喜の内大臣の辞退と、徳川家の領地の半分を朝廷に納めることが決まった。

戊辰戦争
しかし新政府の決定に納得しなかった旧幕府派は、薩摩藩の挑発に乗り新政府との対決姿勢を表明、旧幕府軍を組織した。これにより小御所会議の決定に一度は従った徳川慶喜も、旧幕府軍を支持することになった(自分が担ぎ上げられているわけだし)。
戊辰戦争は1年半も続いた。

鳥羽・伏見の戦い
1868年1月に京都の鳥羽と伏見で起こった1万5000人の旧幕府軍と5000人の新政府軍(官軍)の戦い。
人数的には劣っていた官軍が近代兵器を駆使して官軍が勝利したと言われるが、実際には武器の性能よりは、官軍の指揮系統や士気の高さが勝利につながったと言われている。
なんにせよ敗れた旧幕府軍と慶喜は江戸に逃亡した。

江戸無血開城
官軍の最高実力者の西郷隆盛は、慶喜を追って江戸を総攻撃しようとしたが、旧幕府軍陸軍総裁になっていた勝海舟との和平交渉に応じ、1868年4月に江戸城は無血開城、新政府の占領下になった。篤姫でそんなことやってたな。
ちなみにこれを不服とする旧幕臣(彰義隊)は上野で抵抗。アームストロング砲を撃ち込まれている。

奥羽越列藩同盟(おううえつれっぱんどうめい)
江戸城は新政府の手に落ちたが、地方では依然旧幕府派の抵抗が続き、会津藩などの東北や北越の諸藩は奥羽越列藩同盟を結成した。
しかし官軍によって9月に会津若松城は陥落、東北諸藩の抵抗勢力は撃破された。
八重の桜でそんなことやってたな。

五稜郭の戦い
旧幕府軍の海軍副総裁の榎本武揚は函館の五稜郭に立てこもったが、のちの総理大臣になる黒田清隆の腹を割った交渉などにより1869年の5月に榎本武揚も降伏。こうして戊辰戦争は終結し、全国は統一された。
ちなみに五稜郭とは大砲がいろんな角度へ撃てるように星型になった要塞。

新政府の政策
戊辰戦争中に新政府は9つの政策を実行した。

新政府の政策①諸外国への政権交代宣言
新政府が天皇中心の政権であることを海外に宣言。

新政府の政策②五箇条の御誓文の公布
新政府の基本方針。
1条:各地で広く会議を開き公開された会議で重要事項は決定されます。
2条:国民が一丸となって経済を振興しよう。
3条:身分に関わらず誰もが志を抱き、それを達成できるようにしよう。
4条:旧来の慣習はやめて、国際法に基づこう。
5条:新しい知識を世界に求め、天皇が国を治める基礎を作ろう。

由利公正(ゆりきみまさ)が原案を作成、福岡孝弟(ふくおかたかちか)と木戸孝允が加筆・修正。

新政府の政策③五榜の掲示の公布
国民が守らなければいけない儒教的道徳を示している(一札)。
また民衆の徒党や強訴(二札)、キリスト教(三札)、外国人への暴行(四札)も禁止された。最後は犯罪者が逃亡することを禁止している(五札)。

新政府の政策④政体書の公布
政府の組織を示したもの。国家権力を太政官という中央政府(機関であって役職ではない)に集め、アメリカ合衆国憲法の三権分立制も導入された。
立法機関は議政官で上局と下局で構成。
行政機関は行政官。
司法機関は刑法官。

これらは全て太政官に含まれる。

新政府の政策⑤東京への改名
江戸から東京に名前が変更され、首都は東京に。天皇の皇居は江戸城になった。

新政府の政策⑥一世一元の制の採用
天皇一代につき元号も一つということになった。

新政府の政策⑦府県設置
没収した旧幕府領のうち重要なものは「府」、その他は「県」とされた。
よって、この段階では藩地は府県にはなっておらず、藩の統治権は藩主が握り続けていた。

新政府の政策⑧版籍奉還
各藩の藩主が、領地(藩図)と領民(戸籍)を天皇に返還した。
まず薩長土肥が明治政府の求めに応じて先立って版籍を奉還、その他の藩もこれに倣った。
藩主は知藩事と言う地方長官に命じられ、石高に応じて家禄が与えられた。
徴税権と軍事権は知藩事が掌握していた。

新政府の政策⑨四民平等
藩主や公家は華族に、旧幕臣や旧藩士は士族になった。
農工商の人は平民になり、華族や士族と結婚したり、自分の好きな職業に就くことができるようになった。
しかし、えた・非人出身者の戸籍は「新平民」と分けて記載され、実質的な差別は依然として残ってしまった。

壬申戸籍
1871年に制定された戸籍法によって、その翌年作られた日本初の全国的かつ近代的な戸籍。

廃藩置県
明治政府の財源は、旧幕府直轄領(府県)からの徴税のみだったため、明治政府は財政難となり、府民の住民からの厳しい税の取立ては、各地で一揆を頻発させてしまった。
そこで明治政府は1871年に廃藩置県を断行、そのための軍事力として薩摩・長州・土佐から兵士を募集し御親兵(ごしんへい)を組織した。
明治政府は、藩制度を全廃し、全ての藩を府県にすることで政府の統治下におき、新たに増えた府県から財源を確保することができるようにした。
これにより藩主は知藩事を罷免され東京に移住、その代わりに中央から府知事や県令が府県に派遣され、地方行政にあたることになった。

中央官制
祭政一致と天皇親政の考えのもと、1868年(戊辰戦争中)に作られた太政官制を改正。
太政官の上に神祇官をおいた。
太政官は正院、左院(元老院。立法上の諮問機関)、右院(行政上の諮問機関)の三院制となり、正院の中に大蔵省、兵部省、外務省、文部省、工部省、開拓使などの各省を入れた。

富国強兵
経済を発展させて国家の軍事力を増強させる考え方。

殖産興業
国家を近代的にするための産業育成策。工部省が指導し、軍事は兵部省が担当した。
兵部省は1872年に陸軍省と海軍省に分かれている。
ちなみに陸軍はドイツ、海軍はイギリスをモデルに作られたという。

藩閥政府
政府の要職(正院参議や、各省の卿など)に薩長土肥の若い実力者がついた体制のこと。
薩摩藩:西郷隆盛、大久保利通、黒田清隆
長州藩:木戸孝允、井上薫、山県有朋
土佐藩:板垣退助、後藤象二郎、佐々木高行
肥前藩:大隈重信、副島種臣、江藤新平

岩倉使節団
1871年末、不平等条約撤廃と欧米視察のために派遣。
メンバーは岩倉具視(特命全権大使)、木戸孝允(副使)、大久保利通、伊藤博文、山口芳尚ら約50名。また津田梅子など40人の留学生も同行した。
不平等条約の改正自体は失敗に終わったが、欧米諸国の政治や産業を詳細に視察したことで、今後の明治政府の運営に大きな影響を与えることになった。

留守政府
岩倉使節団が帰国する1873年9月まで、留守を預かった政府のことで、西郷隆盛らが中心となって内政を行った。

留守政府の政策①学制の実施
1872年。
フランスの学校制度に基づき、文部省主導のもと、男女が等しく学ぶ国民皆学教育や小学校教育を実施した。

留守政府の政策②徴兵制の実施
騎兵隊の大村益次郎は農民主体の軍隊の方が武士の軍隊よりも強いという点に目をつけて、国民皆兵を唱えた。
これを受けて、1872年に山県有朋が徴兵告諭を発表、1873年には徴兵令が公布。
満20歳以上のすべての男子の兵籍編入が原則だったが、役人や官立学校の卒業生といった支配階級は除外された上に、お金(約700万円)さえ収めればどんな人でも兵役が免除されたので、8割以上の人が徴兵をまぬがれ、結局兵役に就いたのは農村の次男以下がほとんどだった。

留守政府の政策③地租改正条例
1873年。不安定な収穫高ではなく地価を基準に課税することにした。
また税は物税ではなく金納で、地券所有者を納税者とした。
地券とは地主の土地所有を証明する権利証。
しかしその厳しさは、江戸時代の年貢と変わらず、その上大切な働き手の子どもを学校や軍隊に取られたので、全国の農民は反対一揆を起こした。

明治時代前期の産業
電線:1869年に東京~横浜間に初めて敷かれ、その5年後には北海道と長崎が結ばれた。
北海道開拓:開拓使が主導し、アメリカ型の大農場や畜産技術が広められた。
屯田兵制度:1874年。失業した士族を北海道に派遣。開拓と対ロシア防衛が目的。
札幌農学校:1876年。アメリカの教育者クラークを北海道に招き開校。
新貨条例:1871年。金本位制に基づき円、銭、厘を単位とする新しい貨幣ができた。
政府紙幣:金や銀と交換できない不換紙幣だった。
郵便制度:前島密によって1871年に発足。飛脚に取って代わった。料金は全国一律。
鉄道:1872年に新橋~横浜の間に初めて敷かれた。
官営事業:工部省は鉱山、炭鉱、造船所など旧幕府から事業の経営を引き継いだ。
富岡製糸場:官営模範工場の先駆け。主力の輸出品だった生糸の生産拡大を狙った。
政商:岩崎弥太郎の三菱に政府は特権を与えた(有事の際に輸送を行わせるため)。

日清修好条規
1871年。日本が外国と結んだ初の対等条約。開港と領事裁判権が両国の間で承認されたが、日本に有利な不平等条約を結べばよかったのにと不満を持つ日本人もいた。

琉球漂流民殺害事件
台湾で琉球の漂流民54人が殺された事件。
当時台湾は清の領土だとされていたため、日本は清に賠償請求をしたが、清はまず琉球はそもそも清の属国だし(名目上として日本もこれを認めていた)、台湾は清の法的拘束力の外にあるとして賠償を拒んだ。
これに対抗して日本は強硬手段として1872年に琉球藩を置いたが(琉球処分)、清はこれを認めなかったため両国の関係はギクシャクした。ちなみに琉球藩の王は尚泰(しょうたい)。

征韓論争
鎖国政策を取り明治政府と国交を結ぶことを拒んだ朝鮮に対して、留守政府首脳の西郷隆盛や板垣退助は武力で朝鮮を屈服させる征韓論を唱えた。
朝鮮は、江戸時代の頃に窓口になっていた宗氏を廃し、宗氏と結んだ条約を一方的に破棄した明治政府に不信感があったらしい。
その後、征韓論は帰国した岩倉使節団に「いや、まずは国内の政治システムを整えたほうがいい」と拒否されたことで(内治優先論)、政府を揺るがす大論争に発展した。
結局、征韓論を主張した参議、軍人、官僚など約600人が辞職。これを明治6年の政変という。
これをきっかけに大きな権限を持つ内務省が設置され、それを統括し政府の最高権限を持つ内務卿には大久保利通が就任した。

明治時代前期の文化
儒教や神道の考えが廃れ、欧米的な自由主義や個人主事が流行った。
人間は生まれながらに自由で平等で幸福を追求する権利があるという天賦人権説はそれを象徴とするものだった。
1872年には太陽暦が導入、1日は24時間になり、日曜日は休日になった。
洋服、ざんぎり頭、レンガ造りの建物、ガス灯、牛鍋やポークカレーライスなどの洋食などは文明開化の象徴だった。その反面、これまでの日本の文化はあっさり捨てられてしまったが、錦絵や歌舞伎など一部の文化は、文明開化の時期にも流行をした。

大教宣布の詔(だいきょうせんぷのみことのり)
1870年。寺社制度や祝祭日を制定。

神仏分離令
1868年。神仏習合を否定し、仏像を破壊する廃仏毀釈が全国で行われた(沖縄は例外)。

禁止の高札(こうさつ)の撤廃
1873年。浦上信徒弾圧事件(1868年)などに対する欧米諸国の抗議によってキリスト教は黙認されるようになった。

ジャーナリズム
1869年に本木昌造が導入した鉛製の活字鋳造によって、日本初の日刊新聞である『横浜毎日新聞』など、様々な印刷物が出版された。
福沢諭吉らの明六社は『名六雑誌』を刊行し、近代的な西洋思想を普及させた。
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