大正時代覚え書き

大正時代の概要(1912年~1926年)
明治天皇が崩御し、大正天皇が1912年7月に即位したことで始まる。
大正デモクラシーをはじめとする社会運動や、普通選挙の実施、マスメディアや大衆文化の発達など、今日の現代社会にも通じるような、いわゆる「大正ロマン」の時代。
また、ヨーロッパ全土を焦土と化した第一次世界大戦は、日本に大戦景気をもたらしたが、戦争が終わるとすぐに株式市場が暴落(戦後恐慌)、さらにダメ押しで関東大震災も起こり、結局社会は混乱した。ちなみに大正時代は15年しかない。

大正天皇
1912年7月に、明治天皇の崩御を受けて即位する。
抽象概念(理系科目)が苦手で、病気を理由に学習院大学を中退しているが、文系科目は得意だったらしく漢詩を作ることが趣味だった。
苦手な政務を無理をして行ったために病気が悪化、47歳の若さで崩御した。
ちなみに大正天皇は、学校に行くときにカバンを背負ったのだが、これがランドセルの原型になったという説がある。

孫文
中国の革命家で、もともとは医者。なんと三国志に登場する呉の孫権の子孫。
革命三段階理論や三民主義の考えのもと、中国を(最終的に)民主主義の国にしようとしたが、その思想には一貫性がなく、国の財産を勝手に抵当に入れたり、清王朝を内部崩壊させるためとは言え軍閥(袁世凱)と手を組んだりと、研究者によってかなり評価が割れている人物。逆に考えれば、それだけ柔軟な思考や決断が出来る人だったのかもしれない。短気だったらしいけどね。
ちなみに犬養毅と仲良しで、これが五・一五事件が起きた原因の一つにもなっている。

辛亥革命
1911~1912年。
孫文先生が清王朝を倒した中国の民主主義革命。
これにより中国初の共和国である中華民国ができ、臨時大統領には孫文が就任したが、その後すぐに清の大統領で軍人の袁世凱にバトンタッチした(孫文は一ヶ月ちょっとしか大統領をやってない)。
10月10日に始まったのでダブルテン革命と呼ばれる。
またジャッキー・チェンは辛亥革命を題材にした『1911』という映画を撮っている。
ちなみにジャッキーが演じたのは孫文の相棒の黄興(こうこう)。

第2次西園寺内閣
日本の陸軍は辛亥革命や朝鮮の抗日運動を受けて、朝鮮に駐屯させる2個師団の増設を要求したが、緊縮財政をとる西園寺内閣はこれを拒否。
そもそも日露戦争は、外国から借金をして戦った上に賠償金が出なかったため、日本の国家財政は逼迫、これ以上軍備を増強する余裕はなかったのだ。
国民も陸軍を非難し、西園寺内閣を支持したため、へそを曲げた陸軍大臣は大正天皇に辞表を提出、しかも後任の陸軍大臣を指名しなかった。
これにより陸軍大臣がいなくなり内閣が作れなくなってしまった西園寺内閣は総辞職に追い込まれてしまった。
このように明治憲法下では、内閣総理大臣の権限が今よりも弱く(同輩内の主席。閣僚任免権は総理にはなく天皇にあった)、軍部大臣現役武官制を利用してストライキ的なことをすればすぐに内閣が潰れたため、軍隊の政治介入は容易であった。

第3次桂内閣
1912年。陸軍と長州藩閥の長老であった桂太郎がまたまた総理になった。
しかし、打倒藩閥政治を掲げていた立憲国民党の犬養毅や、護憲運動の草分け的存在である立憲政友会の尾崎行雄といった野党からの反撃を受け、わずか62日で退陣した。これを大正政変という。

第1次護憲運動
「閥族打破・憲政擁護」を掲げる運動。
桂太郎総理は当時、天皇の侍従長と内大臣も兼任していたため、内閣と宮中の区別が曖昧になり、これは軍と藩閥の横暴を許すものだと、議会勢力に批判されたのだ。
この運動は、犬養毅や尾崎行雄ら野党勢力や、全国の商工業者、民衆などに広まり、憲政擁護大会には2万人が集まった。

第1次山本権兵衛内閣
1913年。大正政変の原因になった軍部大臣現役武官制を改正し、軍部大臣の資格を現役以外の予備役・後備役(現役を退いた兵士)まで広げた。
また文官任用令も改正し、政党員に高級官僚になる道を開いた。
つまり山県有朋内閣の政策を修正し、官僚や軍部に対する政党の影響力を拡大させた。
これにより野党や民衆の不満を抑えようとしたが、海軍高官の汚職事件(ジーメンス事件)が起こり1年ちょっとで退陣を余儀なくされる。
ちなみにジーメンスとはドイツの会社ジーメンス=シュッケルト社(今もあるコングロマリット)のことで、造船会社ヴィッカース社に発注した巡洋艦金剛の仲介をしていた。多分ロッキード事件的なものだと思う。

第2次大隈内閣
1914年。政界激震の汚職事件が発覚し、山県有朋ら元老たちは緊急事態として、政界を引退していた当時76歳の大隈重信を再び担ぎ出した。
大隈重信が総理の椅子に座るのはなんと16年ぶり。
第2次大隈内閣は、長州閥や陸軍の支援を受け、1913年に65歳で亡くなった桂太郎(立憲同志会)の跡を継いだ。

第一次世界大戦
1914~1918年までの4年間続いた。
ドイツ、オーストリアなど4カ国の同盟軍VSロシア、フランス、イギリス、アメリカ、イタリア、日本など27カ国の連合軍の戦い。
ヨーロッパ全土で繰り広げられた、機関銃、毒ガス兵器、戦車、飛行機、潜水艦、塹壕戦なんでもアリの総力戦で「アイウォンチュー」でお馴染みのアメリカ陸軍兵士募集ポスターもこの頃印刷されている。
第一次世界大戦が始まると、国内ではこれをチャンスにして中国に進出しちゃえという雰囲気になり、1915年の総選挙では与党の立憲同志会が圧勝する。
こうして大隈内閣は議会で陸軍の2個師団増設案を通したが、これは国民負担軽減を掲げる内閣の方針とは大きく矛盾したものだった。
さて、日英同盟を理由にドイツに宣戦布告をした日本は、その軍事行動の範囲についてイギリスの合意を得ないまま戦争に突入、ドイツの権益だった青島と山東省を接収し、赤道より北のドイツ領の南洋諸島を占領した。

二十一ヶ条の要求
日本が中国の袁世凱に突きつけたひどい要求。主な内容は以下の5つ。
①山東省のドイツ権益の継承
②南満洲と東部内蒙古の権益の強化
③旅順・大連、南満州鉄道の租借権を99年延長(長え)
④日中合弁事業の承認
⑤中国政府の顧問に日本人を採用すること

日本は戦争をちらつかせて、この21個の要求のうち⑤以外のほとんどを認めさせた。
当然中国国内では日本に対する反感が高まり、これを受け入れた5月9日は国恥記念日となった。
ただ、長い交渉と修正の末、中国側もこの日本の“希望”におおむね同意していたらしく(中国側から提案されたものもあった)、袁世凱はこの条約に同意してから日本に一方的に要求を突きつけられたと海外にアピール、これに日系移民を排斥したいアメリカが「日本はひどい」と同調したという説がある。

第4次日露協約
1916年。中国での権益拡大への列強の批判を抑えるために結んだ。
極東における権益をロシアと相互に擁護しているわけだから、中国の利益拡大に列強各国は文句を言うなというロジックだったらしい。

寺内正毅内閣
1916年。戦時中の超然内閣。
前大隈内閣の与党各派は、合同で憲政会を作ってこれに対抗しようとしたが、寺内内閣は1917年に衆議院を解散、その後の総選挙で寺内内閣を支えた立憲政友会が第一党になった。
寺内正毅は頭がとんがっていて目がつり上がっていて、通天閣のアレにそっくりだったのでビリケン宰相と呼ばれた。ビリケン宰相は、藩閥と官僚だけで組閣したため、非立憲内閣・・・ヒリッケン内閣・・・ビリケン内閣と言うわけ。
ちなみにビリケンさんはもともとアメリカの芸術家プリッツが作った像。

西原借款
寺内内閣は、1916年からの3年間にわたって、袁世凱の跡を継いだ段祺瑞(だんきずい)に総額1億5000万円ものお金を貸した。西原とは寺内総理の私設公使、西原亀三のこと。
これにより中国での権益拡大を狙った。

石井・ランシング協定
特命大使石井菊次郎がワシントンでアメリカの国務長官ランシングと結んだ協定で、日本の権益拡大に批判的だったアメリカを牽制した。

ロシア革命
1917年。レーニン同志がニコライ2世を退位させロマノフ王朝を滅ぼした。
これによりソビエト社会主義共和国連邦が誕生。ちなみにソビエトとは「会議」という意味。

シベリア出兵
1918年にソ連は第一次世界大戦から離脱、世界初の社会主義国を警戒した列強国はロシア革命に干渉を始めた。
日本も連合軍の主力となってシベリアに兵を送り込んだが、イギリス、フランス、アメリカが引き上げる中、日本だけが第一次世界大戦が終わっても兵を引き上げなかったため(1922年まで出兵してた)、国内外から批判を受けた。

大戦景気
第一次世界大戦が起こると、ヨーロッパへの軍需品供給とアジアやアメリカへの製品(主に織物)輸出で日本は大儲け、1914年時点で11億円あった日本の借金は吹き飛び、1920年には日本は逆に27億円以上の債権を持つようになっていた。
特に躍進したのが海運業と造船業で、第一次世界大戦で不足した船舶を供給し続けた日本はアメリカ、イギリスに次ぐ世界三位の海運国になった。この時現れた金持ちは船成金と呼ばれた。
この他にも、ドイツからの薬品や化学肥料の輸入が途絶えたことで発達した化学工業や、大規模な水力発電事業を中心とした電力業も躍進した。
その一方で大戦景気は、物価を高騰させたため民衆の生活は苦しかった。

米騒動
重工業の発展に伴い農業従事者は減り、1918年のシベリア出兵では米の需要が上がると見越した投資家が米を投機的に買い占め、米の価格が高騰した。
またこの頃の農家は、麦やヒエではなく白米を食べていたので米の需要自体もそもそも高かった。
これに対して富山県の漁村では、奥様方が船への米の積み込みを妨害し、米屋に押しかけるという、富山の女一揆が起こり、これが全国に波及、時の寺内内閣は適切な対応を取れずに軍隊を出動させ、責任を取って総辞職した。

原敬内閣
マダムの力を思い知った元老たちは、農村を支持基盤にする立憲政友会の原敬を首相にした。彼は爵位を持たなかったことから、平民宰相と呼ばれ(でも家系自体は盛岡の上級武士)、国民からの期待度は高かったが、普通選挙法の実施を「時期尚早である」と見送り、選挙権の納税資格を3円以上に引き下げただけだった。
これにより原敬内閣の人気は急落したが、衆議院を解散した後、鉄道の拡充や高等学校の増設などを公約に掲げると、人気が回復、解散総選挙で圧勝した。
しかし原敬内閣は、大戦景気の終焉と1920年の戦後恐慌によって財政難に陥り、大きな成果を上げる前に東京駅で政治腐敗(立憲政友会の汚職事件)に怒った駅員に暗殺されてしまう。
これに大きなショックを受けたのが、意外にも軍閥の重鎮の山県有朋で、程なくして彼も後を追うように亡くなってしまった。
ちなみに原敬内閣は日本初の本格的な政党内閣と呼ばれている。つまり衆議院の第一党の総裁が組閣し、陸軍、海軍、外務大臣以外のすべての閣僚が立憲政友会の党員で構成されていたのである。

14ヶ条の原則
1918年。「平和は勝利なき平和でなければならない」と語ったアメリカ大統領ウッドロー・ウィルソンがドイツに提案した原則で、これまで乱発された秘密外交の廃止や、民族自決などを定めた。この民族自決の精神は東ヨーロッパの多くの国を独立させることになった。
なんにせよこれをドイツが受け入れたことで第一次世界大戦は終わった。
短期間で終わると思っていた戦争は「落ち葉が散る頃までには」「クリスマスまでには」・・・と結局どんどん長引き、全世界で6300万人もの兵士が動員され、990万人もの犠牲者が出てしまった。この死者数は過去100年のすべての戦争で亡くなった死者数の合計をはるかに超えるものだったという。

パリ講和会議
1919年。ヴェルサイユ条約が調印され、これに基づく新秩序をヴェルサイユ体制という。
日本は、山東省のドイツの権益の継承と、赤道より北の旧ドイツ領南洋諸島の統治権を獲得した。アメリカはこれに反対したが、ヴェルサイユ条約自体には調印している。

国際連盟
ウィルソン大統領の呼びかけで、国際連盟もこの時に発足した。日本はイギリス、フランス、イタリアとともに常任理事国になった。
しかし国際連盟結成を呼びかけた当のアメリカが、モンロー主義を掲げる上院議会の反対によって加盟できず、またソ連も加盟しなかったので、影響力はそこまで大きくなかった。
モンロー主義とはアメリカはヨーロッパ情勢に首を突っ込まないよという考え。

人種差別撤廃案
パリ講和会議で日本が出した世界初の人種差別撤廃法案。
国際連盟が白人ばかりで占められてしまうのは人種差別だと主張したが、移民排斥を展開していたアメリカ上院やイギリス、オーストラリアの猛反対にあって廃案にされた。

三・一独立運動(万歳事件)
朝鮮の独立を求める大衆運動。
その背景にはロシア革命の成功や、ウィルソンの民族自決思想、日本による併合を最後まで拒んだ大韓帝国初代皇帝高宗の死などがあった。
3月1日にソウルで行われた独立宣言書の朗読会(&万歳)がきっかけだった為にこう呼ばれる。この運動の中心になったのは東学党やキリスト教徒、仏教徒などの宗教勢力で、中国のナショナリズム(五・四運動)に影響を与えた。
日本は朝鮮総督府を通じて弾圧をするが、その一方で朝鮮総督の資格を文官まで拡大したり、憲兵警察を廃止、言論、出版、集会の自由を認めるなどをして、朝鮮の民衆に譲歩、国際社会からの批判をかわそうとした。
また日本のマスコミはこの運動を「朝鮮で起こった暴動」と伝えたが、吉野作造や石橋湛山は一定の理解を示している。

五・四運動
1919年。ヴェルサイユ条約に不満を持つ中国が山東省の返還を求めた運動。
5月4日の北京の学生による街頭運動がきっかけだった為にこう呼ばれる。
中国はヴェルサイユ条約には調印していない。
ちなみに、この時の学生や労働者によるデモ行進やゼネスト(全国的なストライキ)、ボイコットなどが中国共産党に高く評価されている。

ワシントン会議
1921年。アメリカの呼びかけで行われた、戦争の再発防止と列強国の協調を目指す国際会議。日本からは加藤友三郎と幣原喜重郎(しではらきじゅうろう)が派遣された。
加藤は軍縮関連の交渉を、幣原はそれ以外の交渉を担当した。
アメリカの狙いはこの会議によって日本の膨張を抑えることだった。

四カ国条約
1921年。日本、イギリス、フランス、アメリカで結ばれた条約。
太平洋諸島を現状維持し、太平洋で起きた紛争は話し合いで解決することが決められた。
この締結に伴って、日英同盟は破棄された。
日英同盟破棄の背景には、日本とイギリス両国のロシアに対する脅威が低下したことが挙げられるが、アメリカの思惑もあった。アメリカにとっては世界最強の軍隊を持つイギリスが日本と手を組んでいる状況は、たいへん都合が悪かったのである。
実際この条約は日英同盟を破棄さえできればよかったので、国際法としては全く役に立たないものだった。

九カ国条約
1922年。日本、イギリス、フランス、アメリカ、イタリア、ベルギー、ポルトガル、オランダ、中国で結ばれた条約。
各国が持つ中国の領土と主権を尊重し、中国の経済的な門戸開放と機会均等を確認した。
これにより石井・ランシング協定は破棄され、日本は中国に山東省を返還した。

ワシントン海軍軍縮条約
1922年。日本、イギリス、フランス、アメリカ、イタリアで結ばれた条約。
今後10年間、主力艦の建造をやめ、その保有量を制限するという内容。
これにより日本の主力艦保有率はアメリカとイギリスの6割ということにされた。
これは日本を封じ込めるとともに、莫大な軍艦建造費に悩む各国の負担を軽減する目的があった。ちなみに当時日本は国家予算の半分を軍事費に使っていたが、この条約によりたった5年で27%にまで下がった。

ワシントン体制
四カ国条約、九カ国条約、ワシントン海軍軍縮条約を基礎とする体制。
中国の主権を尊重するとか言っておきながら、中国が結ばされた不平等条約や、中国に駐留する各国の軍隊はそのままだった。

高橋是清内閣
1921年。暗殺された原敬の跡を次ぐ形で任命される。
恰幅のいい総理大臣で、バランスのとれた政治を行ったことからダルマ宰相と呼ばれていた。
彼は7回も大蔵大臣を経験した財政のプロで1億円以上の歳出抑制に成功、国家財政を立て直した。

幣原外交
高橋是清内閣はワシントン体制を受け入れ、協調外交路線をしばらくの間とることにした。また、その後の加藤友三郎内閣、第2次山本権兵衛内閣も同じ路線をとった。
この一連の協調路線は、外務大臣を務めた幣原喜重郎に因んで幣原外交と呼ばれている。

大正デモクラシー
日露戦争のあとから大正時代末まで起きた民主主義的な一連の運動。
護憲運動、普通選挙運動、労働運動、社会主義運動など。
天皇機関説と民本主義が思想的バックボーンになった。
ちなみに民主主義を求める風潮は日本だけでなく世界的なものだった。
世界各国が悲惨な戦争にはもうウンザリしていたのである。

天皇機関説
憲法学者の美濃部達吉が提唱。
天皇は国家の最高機関だが、その統治権の行使は憲法に基づくという考え方。
言ってみれば立憲君主制で、となると天皇の統治権に対して立法機関である議会が制限を加えられるという解釈も成り立つので、1935年に軍部を中心に波紋が起きた(天皇機関説事件)。

民本主義
政治学者の吉野作造が提唱。
ぶっちゃけ民主主義(デモクラシー)と一緒なんだけど、一字変更している。
これは民“主”って言っちゃうと国家の主権者が国民になってしまい、大日本帝国憲法の天皇主権と矛盾してしまうからである。
なんにせよ天皇は日本国の主権者ではあるけれど、国民の意向を重視すべきだという考え方で、もっと具体的に言うと普通選挙制度を実施しようぜってこと。
吉野作造は1918年に思想啓蒙団体の黎明会を結成し、平和と協調を訴えた。
この影響を受けた学生たちは東大新人会などの思想団体を作り、労働運動や農民運動と連携を深めた。

戦後恐慌
第一次世界大戦による大戦景気は戦争とともにあっさり終わり、ヨーロッパの市場が回復すると、日本は大幅な輸入超過(貿易赤字)に悩まされるようになった。
さらに1920年には株式市場が暴落、戦後恐慌が発生し、アジアやアメリカに売っていた綿糸と生糸の価格は半値以下まで下がってしまった。

労働運動
第一次世界大戦による産業の発達で急増した労働者による賃上げ運動。
鈴木文治が1912年に組織した友愛会は全国組織へと発展し、大日本労働総同盟友愛会に改称、1920年に労働者の祭典であるメーデーを日本で初めて主催した。
メーデーはもともとアメリカの労働者が8時間労働を要求した運動。毎年5月1日。

日本労働総同盟
1921年に大日本労働総同盟友愛会がさらに改称して出来た。
これまでは労働者と資本家の協調路線をとっていたが、階級闘争へと路線変更、各地の労働運動を指導するようになった。
これにより八幡製鉄所や、三菱造船所、川崎造船所などで労働争議が多発した。

小作争議
小作料の減免を求める運動。これを背景に1922年に、小作人組合の全国組織、日本農民組合が結成された。

社会主義運動
大逆事件以来、冬の時代だったが、またまた盛り上がり出した。
1920年に、日本社会主義同盟が結成、1922年には堺利彦らが日本共産党を非合法に結成した。ちなみに現在活動している政党で、この共産党が一番古い。
またロシア革命の影響で、マルクス・レーニン主義(共産主義)も台頭した。

女性解放運動
1911年に平塚雷鳥が女性の地位向上のために結成した青鞜社が先駆け。
この運動は、市川房枝との新婦人協会によって引き継がれ、彼女たちは女性の参政権を要求する運動を行った。
1922年には、女性の政治運動を禁止した治安警察法が改正され、女性でも政治的アジテーションができるようになった。

部落解放運動
1922年に西光万吉(さいこうまんきち)を中心に全国水平社が結成された。

普通選挙運動
1919~20年に労働者たちの友愛会や学生を中心に盛り上がり、これを受けて加藤友三郎内閣や第2次山本権兵衛内閣は普通選挙の導入を検討したが、関東大震災や虎の門事件が起こって社会は混乱、山本内閣が総辞職してしまったので実現しなかった。

関東大震災
1923年。マグニチュード7.9の巨大地震。この未曾有の大災害により決済ができなくなった手形(震災手形)が大量に出回ることになり、山本内閣は日銀に各銀行への特別融資をさせたがうまくいかず、日本の経済危機は深刻化した。
ちなみに、ワシントン海軍軍縮条約でスペックをごまかした曰くつきの戦艦の長門はこの時、救援物資を運んでいる(山本総理は海軍出身)。
また、この地震の際に在日朝鮮人が井戸に毒を入れたというデマが広がり、民衆はおろか警察や自警団までもが朝鮮人を無差別に虐殺するという痛ましい事件が起きた。

虎の門事件
アナーキストの難波大助が、裕仁親王を狙撃した事件。
幸いなことに銃弾は当たらなかった。
裕仁親王はのちの昭和天皇で、難波大助は大逆罪で死刑になった。
この責任を取る形で山本内閣は辞職した。

清浦奎吾内閣(きようらけいごないかく)
1924年。貴族院と官僚の勢力を背景にする超然内閣。
これに反発した、憲政会、立憲政友会、革新倶楽部は第2次護憲運動を起こした。
ちなみにこの3つの政党を合わせて護憲三派と言う。
清浦内閣は対抗措置として議会を解散したが、総選挙で護憲三派に敗北し総辞職してしまった。

加藤高明内閣
1924年。護憲三派の連立内閣。
1925年に以下の3つの政策を行なった。
加藤内閣は、連立を組んでいた立憲政友会が陸軍の田中義一を総裁に迎えて革新倶楽部と合体すると連立を解消、憲政会のみの単独政権になった。

加藤高明内閣の政策①ソ連との国交樹立
幣原喜重郎の協調外交によって実現した。後に弱腰外交と批判される。

加藤高明内閣の政策②普通選挙法の成立
納税額の制限が完全撤廃、満25歳以上のすべての男子が衆議院議員の選挙権を与えられた。
これにより有権者数は4倍の1240万人になった。

加藤高明内閣の政策③治安維持法の成立
天皇制や私有財産制度などの廃止を目的とする結社や参加者を処罰する法律。

憲政の常道
憲政会と立憲政友会による政党内閣が続く、加藤高明内閣~犬養毅内閣までの8年間を指す。しかし議院内閣制が制度化されたわけではないのに注意。

第1次若槻礼次郎内閣
1926年。加藤高明の病死を受けて、憲政会の若槻礼次郎が総理になる。
憲政会はその後、立憲民政党と名前が変わり、立憲政友会と立憲民政党は昭和初期の二大保守政党となった。

インテリの増加
日露戦争後の時点で日本の就学率は97%に達し、ほとんどの国民は文字を読み書きできるようになっていた。第一次世界大戦後には旧制中学校の生徒数や、高等教育機関も増加、これに伴い都市部を中心に高学歴者、インテリが現れた。
彼らは給与生活者、いわゆるサラリーマンとなった。
また女性の社会進出も進み、1924年にはバスガールという女性車掌が誕生、他にも電話交換手、市電、タイピスト、ウエイトレスなどの仕事を行った。

大衆文化
男性から洋服が普及し始める(サラリーマンの背広)。また銀座ではアメリカのシネモードスタイルを真似たモダンガールが見られた。
食文化ではトンカツやカレーライスなどの洋食が普及した。あと食文化かわからないけどグリコやカルピスも登場した。
他にも松竹や日活といった国産の映画や、宝塚少女歌劇団などもできた。

丸ビルと東京駅
丸の内などの都心では鉄筋コンクリートのビルが建てられるようになった。
また赤レンガ作りの東京駅もこの頃(1914年)にできた。最近Suicaで珍騒動が起きたけど、あの駅舎のデザインは大正時代の東京駅の復元である。

文化住宅
和洋折衷様式の住宅のこと。とりあえず最新のものには「文化」と付ける風潮があったらしい。文化鍋とか文化包丁とか。

セーラー服
今やJKの定番だが、これが女学生の制服に採用されたのも大正時代(9年)から。
男子学生が陸軍の制服である詰襟を着ていたので、なら女子学生は海軍でいいやってことになった。

マスメディア
1925年に東京、大阪、名古屋でラジオ放送が開始。
1926年にはNHKが設立。
新聞では『大阪朝日新聞』や『大阪毎日新聞』が100万部の発行部数を叩き出した。

雑誌
『東洋経済新報』:経済の週刊誌。普通選挙法を主張。主幹はなんと石橋湛山。
『中央公論』:社会評論や思想、文芸を扱う総合月刊誌。
『改造』:社会改造を求め、民本主義や社会主義の論文が掲載された。
『キング』:講談社が出したオールジャンルの大衆娯楽雑誌。発行部数で100万部を突破。
『赤い鳥』:鈴木三重吉の児童雑誌。

マルクス主義
河上肇:『貧乏物語』
野呂栄太郎:『日本資本主義発達史講座』
森戸辰男:東大の助教授。ロシアのアナーキストを研究して休職させられた。

自然科学
野口英世:医学者。スピロヘーターや黄熱病の研究。
本多光太郎:物理学者。KS磁石鋼の発明。KSとは支援者の住友吉左衛門の頭文字。
磁石鋼とは強い磁性を持った特殊な鋼。

人文科学
西田幾多郎:『善の研究』を発表。純粋経験。
柳田国男:『遠野物語』を発表。民俗学を確立。

白樺派の小説
雑誌『白樺』を中心に発表された、都会的かつ西洋的な作品。
有島武郎:『或る女』『カインの末裔』
志賀直哉:『暗夜行路』
武者小路実篤:『人間万歳』

耽美派の小説
美を追い求める享楽的な作品。
永井荷風:『腕比べ』
谷崎潤一郎:『痴人の愛』

新思潮派の小説
夏目漱石の門下が『新思潮』に発表した、理知的で技巧的な作品。
芥川龍之介:『羅生門』『鼻』
菊池寛:『父帰る』『恩讐の彼方に』

新感覚派の小説
既成の精神主義的伝統を否定した作品。
川端康成:『伊豆の踊り子』『雪国』
横光利一:『日輪』

プロレタリア文学
階級闘争の理論に基づく作品。
小林多喜二:『蟹工船』なぜか最近ベストセラーになった。共産主義思想を喧伝するとして掲載誌が発売禁止になったことがある。
徳永直(とくながすなお):『太陽のない街』

大衆文学
江戸川乱歩:探偵小説。
吉川英治:『宮本武蔵』

西洋絵画
安井曾太郎:『金蓉』。驚異的なデッサン力で写実的な人物画を数多く描いた。
梅原竜三郎:『紫禁城』。ルノワールの指導を受けたが、色使いはフォービスムっぽい。
岸田劉生:『麗子微笑』。東洋のモナリザ。夢に出てくる。
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