『愛するということ』

 愛は技術だろうか。技術だとしたら、知識と努力が必要だ。

 『自由からの逃走』でお馴染みのエーリッヒ・フロムが「今回だけは特別だよ!」と執筆した愛の本。こしさんから借りた。
 フロムって社会学ですごい引用されているからフロムの全てを知ったような錯覚に陥ってたけど、実はこの人の本ちゃんと読んだことなかったんだよw
 こんなに読みやすい文章の人なのね。もっと硬派な文章の人かと思ってた。ケインズとかマルクスとかパネエからな。
 でもよくよく考えれば、あまりに難解な文章だったら、みんな理解できないから、そこまで引用されないか。キャッチーさ大事だな!
 ということで、今回は第2章の『愛の理論』までで面白かった部分を覚え書き。というか、この本、半分以上が第2章。第1章なんてたった8ページなのに!

 うわ~愛だってよ、くっさ~と冷笑する人もいるだろう。私も女子中学生に愛を語ったら、プラトンのエーロスのところで大爆笑されたことがあります。でも、ご安心を。こんな一文からこの本は始まる。

 愛するという技術についての安易な教えを期待してこの本を読む人は、きっと失望するにちがいない。そうした期待とはうらはらに、この本が言わんとするのは、愛というものは、その人の成熟の度合いに関わりなく誰もが簡単に浸れるような感情ではないということである。

 よく、恋に落ちる、みたいな意味合いで「もう私のこと愛してないの?」とかいう人いるけれど、フロムによれば、愛というのは“状態”ではなく、能動的な行為である。アガペーである。
 そう言う意味で、西洋人だから当たり前なんだけど、すごいキリスト教の影響を受けているし(77ページの「愛の対象」という箇所でいきなり隣人愛が出てくる。ちなみにもちろん神への愛もかなりページを割かれて言及。人格を持つ神とかプログレ系とか、どんな段階の神を信仰しているかで、その人の成熟度がわかるという話は面白い)、カントやスピノザ、レヴィナスといった自分に厳しいタイプの哲学者にフロムもカテゴライズされるのかもしれない。
 実際、フロムの両親はラビ(ユダヤ教の律法学者)で、フロム自身も心理学者じゃなくて、もともとタルムードの学者志望だった。だからフロイトみたいに人間の心を物質的に捉えようとする理論にはちょっと抵抗があったらしい。もともと神学の人だからね。
 ちなみに第4章では愛のトレーニング方法をブートキャンプ的に紹介するんだけど、この内容はかなりカント(定言命法的)。

 たがいに夢中になった状態、頭に血がのぼった状態を、愛の強さの証拠だと思いこむ。だが、じつはそれは、それまで二人がどれほど孤独であったかを示しているにすぎないかもしれないのだ。

 上の文章でもわかるように、フロムは付き合ってだいたい三ヶ月くらいまでのイチャコラサッサを、孤独から目を背けたいがための虚しい依存に過ぎないと論じている。
 でも、注意して呼んでいくと、フロムは社会の構造なんかにすごい強い人だから、システム的に人間がそういう「愛するよりも愛されたい」みたいな受動的なスタンス、もしくは恋人を選ぶ際にまるでスーパーで商品を選ぶかのような、経済学的な等価交換に陥ってしまうのは、ある意味仕方がないと推察しているようにも思える(第3章で言及。むしろ精神的に成熟しないほうが現代の消費社会では最も適応的である、みたいな)。
 なんにせよ、一つだけ言えるのは、孤独との戦いっていうのは、いつの世においても普遍的な課題なんだよっていう。

 確かなのは過去についてだけで、将来について確かなことといったら、死ぬということだけだ。(略)そう、人間はたえず意識している――人は一つの独立した存在であり、人生は短い。人は自分の意思とはかかわりなく生まれ、自分の意志に反して死んでゆく。(略)人間は孤独で、自然や社会の力の前では無力だ、と。こうしたことすべてのために、人間の、統一のない孤立した生活は、耐え難い牢獄と化す。この牢獄から抜け出して、外界にいるほかの人びととなんらかの形で接触しないかぎり、人は発狂してしまうだろう(23ページ)。

  ここらへん、この前アップした『イノセントガーデン』のテーマとほとんど同じで、『ミスティックアーク』だけじゃなく、お前はフロムもパクったのか!ってマロさんに突っ込まれて、佐野デザイン事務所並みの騒ぎになっちゃうけれど、すまん、これも偶然。
 私がパクったかパクってないかは置いといて、つまり、フロムは社会的な孤立こそが、人間のすべての不安の根源であり、さらに孤独な人間は全くの無力で、外界に何も働きかけることはできないと、割とバッサリ断言する。
 結局、万物の霊長とか言いながら、本能によって自然と一体化することができない悲しい動物である人間は、不可抗力的に他者や社会にコミットしていくしかない。

 人間の最も強い欲求とは、孤立を克服し、孤独の牢獄から抜け出したいという願望である。この目的を全面的に失敗したら、発狂するほかない。なぜなら、完全な孤立という恐怖感を克服するには、孤立感が消えてしまうくらい徹底的に外界から引きこもるしかない。そうすれば、外界も消えてしまうからだ(25ページ)。

 よくさ、ネットとかで、あのダーウィンだってニートみたいなものだったじゃないか、ニートをバカにするな!みたいな発言があるけれど、まあ確かにダーウィンってあんまり働かなかったけどさ、絶対的に違うのは、社会に対する後ろめたさがないじゃないかってところなんだよね(あとお前ら生物学の研究なんかしてねーだろ!w)。
 だから、引きこもりやニートが、悠々自適に自信を持って有閑セレブみたいな生活をしてたら、なんかその強い“個”に惹かれるんだけど、そういう人を一人も見たことがない以上、やっぱり世間の目を気にしていたり、孤立して辛いんだろうなあって思ってしまう。
 きっと、この人らは社会にうまくコミットできたなら、社会に同調したかった人たちなんじゃないかっていう。
 私のほうが、そう言う意味じゃ天邪鬼というか、こじれてる気がするもん。多数派とか嫌いだしな。
 フロムはこういった“後ろめたさ”を旧約聖書を引用しながら、以下のように説明する。

 この神話(※アダムとイブの楽園追放のことです)の要点は次のものだろう――男と女は、自分自身を、そしておたがいを知った後、それぞれが孤立した存在であり、べつべつの性に属していることは認識しても、二人はまだ他人のままである。まだ愛しあうことを知らないからだ(アダムがイブをかばおうとせず、イブを責めることによってわが身を守ろうとしたことも、このことをよく示している)。人間が孤立した存在であることを知りつつ、まだ愛によって結ばれることがない――ここから恥が生まれるのである。罪と不安もここから生まれる(25ページ)。

 この部分って、禁欲的なヴィクトリア時代のイギリスとかだと、性道徳の単元的に読まれちゃうんだけど、フロムのこの解釈には膝を打ったね。なるほど!と。 

 しかし不思議なもんで、学問や仕事に関する知識や技術はいろいろ学ぶのに、人間が孤立しないための愛については、なんでそういうものと同一の枠組みで捉えて、努力して学んでいかないのか、いつから愛は学ぶもんじゃないドントシンクフィールみたいな風潮になっちゃってんだ、それはおかしい、多分近代に入って出てきたくだらんロマンティックラブのせいだ!恋愛結婚だぁ?昔はとりあえず社会に強制されて結婚させられて、そのあとに愛を事後的に作り上げて行ったんだカルビーこのやろう!みたいにフロムは考える(考えてねーよ)。

 さて、じゃあその孤立から逃れるために人間はどういう対応をとってきたんだろう?ってことで、フロムは以下のような手段があるよと論じる。

①興奮状態による合一体験
 ヒャッハー的なやつ。祝祭や儀式の乱痴気騒ぎがそれ。部族全員が参加してるし、祈祷師や祭司が執り行っていることなので、不安や罪悪感は感じない。
 しかし現代的な社会では、部族的な儀式はなかなかできないので、お酒や麻薬、性的な乱交をしたりする。
 これには三つの特徴がある。1.強烈。2.精神と肉体の双方に人格全体に起きる。3.長続きはしない。

②集団への同調
 ナショナリズムや信仰など。赤信号みんなで渡れば怖くない。
 ヒャッハーに比べて、穏やかで惰性的だという特徴がある。そのぶん、孤立から来る不安を癒すのには不十分だったりする。
 フロムはこの分野の研究で有名なんだよね。つまり、民主主義社会でも、ヒトラー独裁体制みたいな全体主義社会でも、結局人々は大きな集団に同調したいってのは変わらないっていう。なにも強制されなくても人間は進んで自由から逃走するよっていう。

 現代の資本主義社会では、平等の意味は変わってきている。(略)現代では平等は「一体」ではなく「同一」を意味する(33ページ)。

 この指摘ってラディカルフェミニズムとかの問題にもそのまま思考の補助線として使えそうだよね。さすがだよなっていう。

③創造的活動
 クリエイターは世界と一体化するって言っているけど、これは西田幾多郎の純粋経験と同じことをフロムも論じているのだと思う。クリエイティブな活動をやっているときは、もうそれだけに集中して周りが見えなくなってるからね。
 でもこれは、真にクリエイティブな活動じゃないとダメで、上から強制されるようなルーティンワークでは、仕事の対象との一体感はほとんど得られないという。確かに漫画家の人とか辛そうだ。

④愛
 共棲的結合(つまり依存し合う関係のことね)ではなく、成熟した愛とは、自分の全体性と個性を保ったままでの結合である。愛は、人間の中にある能動的な力であるという。
 愛によって、人は孤立感を克服し、しかも依然として自分のままで自己の全体性は失われない。しかも、愛においては、二人が一人になり、しかも二人でありつづけるという、パラドックスもOK!どうですか、奥さん。

 愛は能動的な活動であり、受動的な感情ではない。そのなかに「落ちる」ものではなく、「みずから踏みこむ」ものである・愛の能動的な性格を、わかりやすい言い方で表現すれば、愛は何よりも与えることであり、もらうことではない(43ページ)。

 意外だけど、これと全く同じセリフがつの丸先生の『モンモンモン』第3巻に出てきた。「うきょ~!」「まめまめ~」「うんこ~」「ぶっ殺す!」みたいな下品極まりないギャグマンガだったけど、実は「<愛>を知る全人類に捧げる―」漫画だったようだ。
 しかし、口で言うことは簡単だけど、いざ実践しようとするとこれはかなり厳しい。ここら辺で、もう、愛に対する甘ったるいイメージはほとんど払拭されるに違いない。
人を愛するっていうのは実は苦行なのか?フロムはこう続ける。

 与えるとはどういうことか。この疑問にたいする答えは単純そうに思われるが、じつはきわめて曖昧で複雑である。いちばん広く浸透している誤解は、与えるとは、何かを「あきらめること」、剥ぎ取られること、犠牲にすること、という思い込みである。性格が、受け取り、利用し、貯めこむといった段階から抜け出してない人は、与えるという行為をそんな風に受け止めている。(略)与えることは犠牲を払うことだから美徳である、と考えている人もいる。そうした人たちに言わせると、与えることは苦痛だからこそ与えなければならないのだ(43ページ)。

 厳格なキリスト教の考え方ってこんな感じだと私は思っていた。つまり、一部の聖人君子にしか本当の愛っていうのはできなくて、だからオレたち一般庶民には無理無理って諦めたくなるんだけれどさ、そういうことじゃなくて、せめてイエスさんの1%でもいいから、そういう愛に近づけるような努力をすることこそが大事なんじゃないかみたいな、解釈をしていたんだけど、フロムはここら辺で厳格だったカントとは違った論理を展開する。

 生産的な性格の人にとっては、与えることはまったくちがった意味を持つ。与えることは、自分のもてる力の最も高度な表現なのである。与えるというまさにその行為を通じて、私は自分の力、富、権力を実感する。(略)与えることはもらうよりも喜ばしい。それは剥ぎ取られるからではなく、与えるという行為が自分の生命力の表現だからである(44ページ)。

 この考えは、どっちかというとSNSの交流などに希望を見出しているIT起業家や、システムさえしっかり作れば、あとは割とほっといてもうまくいくという新古典学派エコノミストやリベラル派の政治家などに近い。性善説というか。
 例えば、法を破ってまで、著作権のあるアニメや音楽をネットにアップロードしちゃう人いるじゃん。あんなの自分には大してメリットないのに、なんでやるんだろう?何が楽しいんだろう?って思ってたんだけど、あれも、与えるという行為に、ある種の全能感を感じていたからなのかもしれない。
 ほいで、与えるのが楽しいなんてちょっと考えればわかるだろ、セックスがそうじゃんと、こっからエロフロムモードになるんだけど、確かに男は精液を女に与え、女は男や我が子に体を与えるんだよね。
 そう考えると、構造主義や内田のたつ兄が言う、人間っていうのは、与えるというか交換が好きなんじゃないの?っていう話にもなってきそうだけど、ここはあえて「与える」ことだけに絞って考えていこう。
 実際フロムはこんなことを言っている。

 物質の世界では、与えるということはその人が裕福だということである。たくさん持っている人が豊かなのではなく、たくさん与える人が豊かなのだ。ひたすら貯めこみ、何か一つでも失うことを恐れている人は、どんなにたくさんのものを所有していようと、心理学的に言えば、貧しい人である。

 貧困は人を卑屈にするが、それは貧困生活が辛いのではなくて、与える喜びが奪われるからである(45ページ)。


 さらにフロムは、与えるという行為の最も重要な部分は、モノを与えるのではなく(それだとアダムスミスの重商主義批判である)、自分自身の生命を与えることだという。
 これは別に悪魔に魂を売るとか、君は誰かのために死ねるか、みたいな話じゃなくて、自分の中に息づく、喜び、悲しみといった感情、興味や理解、知識、ユーモアなどのありとあらゆる表現のことである。
 このような意味合いで、人は自分の生命を他者に与え、他者の生命感を高めるのだという。すると他者も自分に・・・というフィードバックが繰り返される。

 愛とは愛を生む力であり、愛せないとは愛を生むことができないということである。

 で、そのあと聖書とかフロイトとかの言及(フロイトは愛を我慢できないかゆみのようなものと考えるけどそれってどうなの?)があって、ちょっと飛ぶけれど、92ページからの自己愛のところがちょっと興味深かった。
 というのも、自己愛と自己犠牲ってあちらを立たせばこちらが立たずみたいなもんで、真逆の考え方なわけじゃん。もし自己愛が尊いなら、自己犠牲は自分の命を粗末にする許されざる行為だし(たしかキリスト教は自殺はタブー)、逆に自己犠牲が尊いなら、自己愛は単なるエゴイズムと同じようなものだとみなされる可能性がある。
 つーか、そもそも、自分を愛することと他者を愛することは互いに矛盾するという考え方自体が心理学的な裏付けによって説明がつくものなの?とフロムは問う。そして、フロムは聖書を引用して、それは矛盾しないと答える。

 聖書に表現されている「汝のごとく汝の隣人を愛せ」という考え方の裏にあるのは、自分自身の個性を尊重し、自分自身を愛し、理解することは、他人を尊重し、愛し、理解することとは切り離せないという考えである。自分自身を愛することと他人を愛することとは不可分の関係にあるのだ(94ページ)。

 もしある人が生産的に愛することができるとしたら、その人はその人自身も愛している。もし他人しか愛せないとしたら、その人はまったく愛することができないのである(96ページ)。


 そして自己愛=利己主義?という問題についてはこのように論じている。

 さらに、現代人の利己主義は、ほんとうに、知的・感情的・感覚的能力を備えた一個人としての自分自身にたいする関心なのか。現代人は、その社会的・経済的役割の付録になってしまったのではないか。現代の利己主義は自己愛と同じものなのか。むしろ自己愛が欠如しているために利己主義的になっているのではなかろうか(93ページ)。

 利己主義は他人にたいする純粋な関心を一切排除しているように見える。利己的な人は自分自身にしか関心がなく、何でも自分のものにしたがり、与えることには喜びを感じず、もらうことにしか喜びを感じない。(略)利己主義と自己愛とは、同じどころか、まったく正反対である。利己的な人は、自分を愛しすぎるのではなく、愛さなさすぎるのである。
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