不確定性原理と調査捕鯨

 今日とうとう海で活動する環境保護団体シーシェパードに、オーストラリアの現地警察の捜査が入り、パソコンなどが押収されたそうです。しかしシーシェパードの代表は、「今回の反捕鯨活動は大成功」であるとし、「次はクロマグロだ!」と全国大会に向けて決意を新たにするバスケ部のようにいきまいていました。
 これを受けて、オーストラリアの現地の人は「捕鯨はいけないけれど、シーシェパードのやり方はダメ」と冷静な反応なのが印象的でした。

 日本では「日本が行なっている捕鯨活動はあくまでも、科学的な調査捕鯨であって、商業的な捕鯨ではない。絶滅の恐れのないクジラをつかまえているから大丈夫」という主張なのですが、この日本の捕鯨に対する立場もなかなか厳しいものがあります。

 それは「科学的な調査は自然を変えてしまう」という「ハイゼンベルグ不確定性原理」が働くからです。この説はそもそも物理、量子力学の話で、量子の運動量と位置は同時には測定できない。測定に使う光の波長によって一方を調べると、もう一方の状態を調査に使う光が変えてしまう。という科学の客観的調査の限界を示した、重要な事例です。

 経済活動であろうが、科学的調査であろうが、良くも悪くも自然環境を変えてしまう。これは人類だって地球の一員である以上仕方がなく、こうなると何もできない、いや人類が絶滅するしか道はなくなるのですが、クジラを最終的に守るための調査捕鯨をやり過ぎて、たくさんのクジラを殺し(生物濃縮の度合い、その個体の年齢などといった詳細な調査はクジラを殺す必要があります)結局クジラがいなくなっちゃったら笑えません。

 捕鯨の問題は国際的な政治の話(そう言う科学者もいます。うちの大学の先生もそう言ってました)だけではなく、科学的な調査についてかなり考えさせるものがあります。
 調査の精度を上げるには、たくさんの標本を採取する必要がありますが、集め過ぎると環境を守るために行った科学的調査が、環境を変えてしまう。でも環境にほとんど影響を与えないように、ほんの僅かしか標本を採取しなければ、環境の全貌が分からない・・・
 主観や想像でなく、具体的で客観的なデータを重視する科学において、この本質的矛盾はたいへん重要だと思います。(さらに複雑系では、ほんの僅かな振る舞いが環境に大きな影響を与えることもあるそうで・・・もう何も出来ない!)

 日本の調査捕鯨の正当性の根拠となっているのが、国際捕鯨取締条約の第8条らしくて、これは国際捕鯨委員会の加入国は、自分たちの国が妥当とする調査捕鯨を行なう事が出来る、という内容なんですけど、日本はこの第8条の下、オーストラリアの方に行ってオーストラリアの経済水域内のクジラを捕獲、調査の後は食料などの資源に「ジャパニーズもったいない」の精神で利用しているので、オーストラリアにしてみれば「なんだこの国」という気持ちもわかります。
 
 いくら調査とは言え、あちらさんのクジラをつかまえるのですから、オーストラリアがダメと言ったら、交渉によって捕獲数を大幅に下げるか、中止するかすべきなんじゃないか、と思います(ただし南極の海はオーストラリアの経済水域ではないからOKという議論もあり、領土問題も絡んで入り組んでいるようです。南極条約です)。
 なぜか捕鯨問題に関しては、日本って強気で二国間のコンセンサスの下に妥協するっていう発想がないような気もするのですが、それは捕鯨を伝統文化と考えているからなのかな?
 日本の排他的経済水域内のクジラだったら、別にいいんだろうけれど・・・科学は国境を超えるって言っても、それで国際摩擦が発生してギスギスするのはなんか違うと思います。

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