『美術のちから 教育のかたち 〈表現〉と〈自己形成〉の哲学』

 著者は東京藝術大学名誉教授上野浩道さん。

 なぜ教育に美術が必要なのか?

 本書の帯にも書いてある、この疑問は大学時代ずっとずっと私を悩ませ続けてきました。

 別になくていいんじゃね?

 この私の主張を受けた大学の先生たちの反応は本当に人それぞれだった。温厚な先生もちょっとムカっとした顔をしたし(当たり前)、破天荒な先生はそのラディカルな姿勢を評価してくれた。また「キミと会話するのは面倒くさい」と逃げる先生もいたし「学生の分際で黙ってろ」というしょうもない奴もいた。
 私は前提を疑うタイプで、エスタブリッシュメントはそのスタンスがないから時に危険だと思っています。

 私が在学中、「学校教育における美術の授業時数削減反対に署名を!」という運動がありました。でもなぜ自分は反対に署名するのか?その理由がなければ賛成も反対も変わらない。
 詩人でもあるイギリスの芸術評論家「ハーバート・リード」は美術の技術的な教育「エッセンシャリズム」ではなく、美術に“よって”人格を陶冶する教育「コンテクスチャリズム」をとんでもなく分厚い本『芸術による教育』などで論じましたが、この本はとても難解だと言われていて(分かってみるとこの本は特に難しくはない)一部の論を拡大解釈する人もいた。

 上野さんはH・リードのファンなのか本書でリードのテーゼを分かり易くまとめている。リードの他、久松真一の芸道思想といった禅的な思想や、オカルトにハマったユングなど、ちょっと神秘的な思想も好きなのか引用してくるけど、基本的にこの本は最初から最後までリードの芸術教育論の考察をしている。
 私は論文でがっつりリードの芸術教育論を取り上げてしまった(しまったってなんだ)ので、そういう意味ではこの本を先に読んどけばリードのテーゼも理解しやすかったとは思う・・・ちょっと出会いが遅かった。この本初版2007年だしな。

 ただ上野さんは文章がとっても解り易く、まあ場所によってはもう少し掘り下げて詳しく説明して欲しいなあというところもあるけど、基本的に読みやすい。
 特に「第3章 社会に生きる」の近代教育史のまとめ方はうまい。カント、ルソー、ペスタロッチ、ホッブス、ロック、コンドルセ、デュルケムにハーバーマス・・・名だたる学者たちによる公教育形成の歴史をたった20ページでまとめ上げるのはまさに神業。

 私は「芸術に答えなんてないんだよ」という主張が嫌い。そんな事言っちゃうと芸術どころかこの世のすべてに答えなんかあるはずないし「答えがないからこそ答えを探求したり創作していくんじゃないんか」って思っていて、大学ではいろいろ先生と喧嘩ばかりしていました。
 芸術に答えはないって、それは作り手ではなく受け手、消費者の立場の考えの様な気もするし(受け取り方は人それぞれだから)、自分が表現したい答えがないのにものを作るってのは信じられない。プロの作家でそういうスタンスの人っていないんじゃないかな?って思うのですが。

 美術の先生って理論じゃなくて感覚的に物事を捉えるよくない傾向があって、だから宮崎駿さんとか口が悪いんだけど、大切なのは理論と感覚のバランス。
 「それが教育における自然な統合の形式であり、その統合に芸術教育が大きく関係している」だって言ったのがH・リードでその説自体は納得です。
 しかし問題なのは、その「自然な統合」というものが、どこまで先天的・・・教育(=他者の干渉)なしで発達するのか?
 またどこまでが「発達の最近接領域(教育者がちょっと背中を押してやると達成できる発達的課題のこと)」で発達するのか?
 そして道徳やモラル、ルールの遵守はある程度の社会的強制、圧力が必要なのか?・・・という「子どもと社会(他者)との相互作用のモデル」がリードはちょっと曖昧で「自然」という単語を免罪符にして逃げちゃった?点です。

 リードの論では「子供なんてある程度放っておいた方が、逆に成長すべき美しい形に人格を勝手に形成していくよ」って感じに取れてしまいますが、私はそれはちょっと楽天的すぎる気がしています。ただリードは当時(第二次世界大戦中)の全体主義の反動で、あえて自由や個人の重要性を過度に強調している可能性は大いにあります。
 これまでの教育は、子どもを社会に無理やり合わせるようにしていたが、これからは子どもたちの自然な成長に教育の方がケースバイケースで合わせるべきだというのがリードのスタンスです。子どもといっても色々な気質の子どもがいますからね。

 だから私はリードの主張は「自然」という言葉を都合のいいように使っているな、とは思いますが(つまり「子ども(主体)」と「社会をはじめとする外部環境(客体)」という二項対立的な概念に基づいた上で「外部環境」との相互作用を極力取り除いたら“自然に”子どもが美しい統合の形式に向かう。というのが考えられない。人間は社会的動物で「社会との相互作用こそが“自然”」なのだから)、だからといって全体主義的な厳しい社会的ルールを子どもに強制すべきだとは思っていません。
 日本は法治国家ですから、社会的ルールは大切ですが、それより大切なのは「道徳」だと思う。つまりいいか悪いかを「そういう決まりだから」っていうんじゃなくて、自分の頭で考えられる力。
 本来社会的ルールも道徳に基づいて決まっているんだろうけど、若干ずれはありますからね。ルールに抵触せずに悪いことしている人、特権階級の人に多いですから・・・

 そして言うまでもないことですが、道徳やモラルは他者から強制的に押し付けられるものではない。「こういう風にしたら人は喜ぶんだな」と自発的に親切にしたりする気持ちを、テストの点以上に親や先生が尊重して伸ばしてやることが、教育の上ではまずもって大切なのではないかと思います。
 そうすれば「人に優しくしなければパパはお前をぶっ飛ばす」と強制せずとも、人に親切にすれば褒められたり相手に喜ばれるんだから、人を好んで傷つけるような子にはならないと思うのですが・・・
 人間って他人が幸せになると自分も嬉しくなる動物ですからね。逆に他人が哀しいと自分も哀しくなるんだけど・・・
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