それでも夜は明ける

 「面白い度☆☆☆☆ 好き度☆☆☆☆」

 罰が下るだと?自分の“所有物”で遊んでいるだけだ。

 アカデミー作品賞の話題作!・・・なのに地元で見事にスルーだったので東京まで行って観てきました。お金がなくなりました(><)
 ま~最初から最後まで、ひょんなことから奴隷にされちゃった自由人ソロモン・ノーサップさんの一人称視点で、なかなか味わえない奴隷体験ができます。あの長時間の首吊りのシーンは、もう、偏執的でトラウマ必至・・・!
 映画の構造はそう言う意味で『ゼロ・グラビティ』(一人称視点をラストまで徹底)に近いんだろうけど、私は見終わったあと『キャプテン・フィリップス』を観たときの疲れを感じました。や~っと助かった~って(^_^;)まあ、『キャプテン・フィリップス』は後半は多少視点が移動するんですけど。

 しかし『42』といい『大統領の執事の涙』といい、ここんところ黒人差別を題材にした映画を割と観ている気がするんですが、なんだろ、今流行っているのかな。
 それとも前にも言ったけど、アメリカではこういう映画をヴァンパイアやゾンビ映画みたいにコンスタントに撮っていて(同列に語ってしまってすまない)ここんところいい映画が豊作なのだろうか。
 もっと穿った見方をするならば、今アメリカで再び差別が社会問題になっているとか?いや、逆に黒人差別はほとんどなくなったからこそ、こういう映画を冷静に作れるようになった??う~んどうなんだろう。
 少なくとも、わが国ではそれでも夜は暮れているよね。

 『シンドラーのリスト』や『アミスタッド』など、人種差別を扱った映画はこれまでにも、たくさん記事を書いたんだけど、今回印象に残ったのは、『スター・トレック』のカーンで艦隊を恐怖のズンドコに陥れたベネディクト・カンバーバッチさん。
 この人がまたいいんですよ。なにがいいって優しい奴隷主なのw
 優しかったら奴隷買わねえだろって感じなんだけど、まさにそこが当時の人を相対化できてうまいキャラクター。
 つまり、カンバーバッチの次の極悪奴隷主のファスベンダーも、奴隷から自由人になれたぜっていう黒人貴婦人もそうなんだけど、この人たちの共通点は南部の奴隷制を容認、適応しちゃっているってことなんだよね。
 これって今から考えれば同罪で、『ジャンゴ』の世界だったらタランティーノに全員ぶっ殺されている気がするんだけど、カンバーバッジさんがインタビューで素晴らしいことを言っていて、当時の人を現代の価値観で断罪するのは簡単なんだ、と。
 
 結局奴隷制がなくなった決定的理由は、奴隷制をやっていない北部の方が経済的に合理的だったって事で、それで南北戦争にも負けちゃった。社会主義も同じような感じで自由経済に負けたけど、みんなに自由を与えた方が結果的に社会は合理化するという自己組織化に気づいたんだよね。
 だから経済問題として考えると、あの映画の時代――『大統領の執事の涙』の大体100年前の時代――は、まだ奴隷労働に経済学的な合理性がある・・・と思っていた時代だったんだ。いや、もうちょい厳密に言うと、実際に合理性があったかどうかが分からなかった。
 例えばタイムマシンであの世界に行って「旦那、旦那。奴隷制をやめたほうが儲かりますぜ」なんておせっかいに言いに行っても、寛大なカンバーバッチさんもおそらく苦笑いで首をかしげるだろうし、ファスベンダーだったら「うるせえこっち来い」って鞭打ち百回だよ。
 なんでかって言うと、「奴隷制」なんていう、南部全域の信仰と結びついちゃっているバカでかい制度は、たとえ何人かに「間違ってるよ」なんて吹聴してもどうにもならないんだよね。
 じゃあ大統領に言えばいいのかって言えば、政治家だって世論のカセがあるからね。有権者が「奴隷制なんていうのは必要悪なんじゃないの?」とか思っていたら、大統領でも絶対難しい。まあ『リンカーン』観てよw

 ラディカルな意見っていうのは既得権益を守りたい支配階級どころか、理解力や想像力が弱い民衆にも理解されないわけで、だったら通るわけねえよっていう。
 頭の中の理屈だけでいくら正しいと確証を得ても、それをリアルに浸透させるっていうのは運とタイミングが物を言うわけだ。
 その不条理さに時代に恵まれなかった知識人は絶望する。だってそういう人にとってみれば、みんなが愚かでしか見えないし、それに対して何ら有効な手を打てない自分の無力感にも嫌になるだろう。そしてこういう人は、当たり前だが少数派だ。下手すりゃ数の暴力で圧殺されちまう。
 多分カンバーバッジも、ファスベンダーも、最後に出てきたさすらいのブラピ(こいつ一度ひょうひょうと主人公を裏切るのがおもろいw)も、奴隷制の異常さ自体には気づいてはいるんだよね。
 気づいているけど、どうにもならないって手を打たない。打ったところで今の時代じゃ絶対に変わらないって事を知っているから。

 それを現代の私たちは糾弾できるのか?日本の労働環境は割とシビアで「SUSHI」みたいなノリで「KAROUSHI」なんて言葉が世界に逆輸入されているらしい。
 だいたい労働基準法に週40時間までの労働とかはっきり書いてあるのに、みんな絶対守ってないじゃん。雇用の流動化かなんか知らないけど、時給700円前後のバイトを週40時間やって食っていけると思っているのだろうか。
 みんなが法律を堂々と破っているこの異常な状況に、私たちは誰も声を上げない。上げたところで絶対変わらないと思っているから。
 他にも学校のいじめだってそうだろう。現場経験のない教育学者がさも得意げに「あんなもんは学級制を廃止したらすぐなくなる」とか言っているけれど、問題の質はこの議論と全く一緒だ。
 したがって現在だって、未来の人が見たら「なんでこんな非人道的な社会をこいつらは容認し続けたんだろう?21世紀の人間ってバカじゃね?ワロスワロス」とか言われるわけだ。
 他の時代や他の国の人を批判するのは簡単だ。だが、いざ自分自身の置かれている状況も同じように批判できるのだろうか。私はできない。だから他の時代や他の国の人の境遇に、できるだけ共感をするようにしたい。

 幸せというのは、自分の身に降りかかる不幸をどう受け入れられるかによって大きく変わるのかもしれない。
 一度も不幸に遭遇しない人なんて皆無だ。不幸はかわせないし、人に代わりに押し付けることはできない。その究極的なものをハイデッガーは自分の死だとしたわけだ。死や不幸は他人事じゃない。つーか他人事にできない。
 ネットは幸せ者が不幸な人をさらに不幸にするだって?それは物事を一面的にしか見てないよ。
 幸せ者(リア充)が永久不変に幸せだと思っているのだろうか。
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