リアルとリアリティ新解釈

 よく漫画や映画、アニメで論じられる「リアル」と「リアリティ」の問題。私はせいぜい、リアルは客観的な事実で(リアリズムは美術では作者の主観を極力排除した写実主義ってことになる)、リアリティはフィクションにおけるリアルな度合い(逆にいえば作品に含まれる主観の度合い)、くらいにしか考えてなかったんだけど・・・
 例えば実際に起きた歴史的出来事は「リアル」だけど、それを元に体系化された歴史学は「リアリティ」の文脈でしかないよなあとか。

 そしたらパキPさんがすごい面白いこと言ってて

 ツッコむと作品世界の前提が崩壊するのが「リアリズム」、ツッコんでもいいけど好みの問題だよねそれ、っていうのが「リアリティ」?

 っていう新定義を発表してたんだよ。どういう流れでこんな話になったのか、仕事行っててよくわからないんだけど。
 でも、そういう切り口でも考えられるよなあ、頭いいよなあって。さらに続けて・・・

 大抵不満の槍玉に挙がってたり、作り手と受け手の感覚の祖語で悲喜劇が繰り広げられるのってリアリティの方?

 いずれにせよ、世の作品評を眺めてて、「こんなのリアルじゃない」「こんなリアル求めてない」と「リアル感あって素晴らしい」が並立してしまっているのになんかすげーモヤッとするのよなぁ。


 つまり、すごいマニアックなファンっていうのは、物語の本質的なテーマ、作り手がその作品で何を訴えたいのかとかじゃなくて、場合によっては交換可能な、すごい枝葉のところを喧々諤々と議論しているんじゃないかっていう、考察をしているのかもしれない。実際にパキさんがどう考えているかはわからないのですが。
 少なくとも私はそう勝手に解釈して、面白い定義だなって。
 
 例えば昨今恐竜マニアが集まっていろいろイベントできないとかって嘆いている人が多いけど(個人的には個人個人で楽しめばいいと思っている。べつにつるまなくてもアメリカの福音主義みたいなのでいいじゃんって)、『ジュラシック・パーク』なんかでブラキオサウルスはああやって立てないとか、ティラノサウルスが動かないものは見えないとかおかしいとか、そういうツッコミは「リアリティ」の話になるわけで、別に作品の本質的テーマにとってはディティールに過ぎないのかもしれない。もちろんディティールの積み重ねが本質的テーマを形成するのだろうから、おざなりにしすぎてもダメだけどさ。

 逆に作り手・・・クリエイター同士の議論って「リアリティ」じゃなくて、作品の背骨の組み方である「リアリズム」の是非で争われている気もする。
 言ってみれば作品って本来そこで勝負するものだし。ほとんどの人はディティールの是非は、その分野に詳しくない限り認識もされないから。
 厳密にはリアリズムもリアリティも不可分な気もするけど、優先順位という意味ではやっぱり作品を作る場合は「リアリズム」の方をちゃんと組み立てられなきゃいけないんだと思う。
 だからすっごいマニアックな人が作る作品って、あまり一般の人はついてけないんだよね。それは作品世界の前提の構成よりも、好みの問題を優先させちゃうから。
 もちろんプロはどっちもちゃんと組み立てることができて、『トイ・ストーリー4』やるぞってさっき発表したジョン・ラセター監督なんかはマニアックかつみんなが楽しめる作品を作っているわけで。

 あとさ、艦これみたいな本来ディープなミリタリーオタクしか受けないようなコンテンツが女子中学生とかにも受けてる秘密もこれでさ、戦艦はオタクしかわからないけれど、可愛い少女に興奮するのは普遍的なリアルなんだよ!
 私は「もしドラ」の時から、こういう美少女付け合せ商法に辟易していたんだけど、艦これもアイドルマスターもさ、女の子の種類がポケットモンスター並みに多いじゃん。そこがうまいんだよね。
 女性の好みこそ、人によって微妙に違うもんだからさ、その星の数ほどある「リアリティ」を、星の数ほどキャラクターを粗造乱造して、ひとつのコンテンツの枠の中で、対応させちゃうっていうのは、そりゃコンテンツの寿命も伸びるよなって。

 そういや、アンパンマンも、こち亀も、プリキュアも、マーベルなんかもそうで、コンテンツビジネスの永久機関はそれしかないぞ!って気づきだしたのだろうか。
 新しい作品よりは、かつてヒットした作品をうまく延命させる手法が確立した、というか。ただ「リアリズム」の部分をラディカルに脱構築し続けてしまうマーベルに比べて、アイドルマスターの「リアリズム」の調和性ってまだかつて(物語消費)のコンテンツ作りの枠組みに収まっているような気がする(マーベルよりはピクサーとかに近い)。それはマーベルとアイドルマスターの歴史の違いにもあるのだろうけど。
 アイドルマスターでアイドルに全く関係ない魔法とか兵器とか戦国武将が出てきたら、いよいよ「輝きの向こう側」に行ったなって感があるけどね。

 だから現代のコンテンツ消費のポイントは、何度か言うように、プロの腕の見せどころだった「リアリズム」よりも上位に、受け手の個人的なフェチポイントである「リアリティ」が来ちゃったってことなんだよね。
 昔は王様の下に法律があったけれど、今は王様の上にみんなが作った法律があるじゃん。つまり作家の絶対王制(夏目漱石の時代)から、立憲主義に民主化されたわけだ。
 もちろん民主化すればいいコンテンツができるとは限らないけれど(節操がなくなる)、ノージックによれば、コンテンツ作りに参加できる人数が増えれば増えるほど、名作が生まれる可能性は高くなるだろうから、なにより、作品の質どうこうよりも、みんなが楽しんで参加できる「場」ができるってのがいいんじゃないかって。

 で、その「場」に濃ゆいオタクが集まると、核弾頭に核弾頭がぶつかる悲劇が起きるわけ(^_^;)今回のよくわからない話も、なまじ恐竜が好きっていう人の絶対数が少なくて、「場」が狭いから生粋のオタクの吹き溜まりになってるんだよ。
 ライト化してしまったオタクにうんざりし『オタクはすでに死んでいる』を書いたオタキングこと岡田斗司夫さんは「どうやらオタク最後の楽園があったようだぞ!それは恐竜オタクだ!」って去年あたり感動してたけどな。だから誇りを持とうよ。
 私は、別に狭い世界でわいわいどうでもいいことで喧嘩してるのもエネルギーがあっていいんじゃないかなあって思う。別にそんなつるまなくていいじゃんって。オレらはアイドルマスターのプロデューサー連合にはなれねえよって。
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