日本史各論2覚え書き②

参考文献:小林一岳著『元寇と南北朝の動乱』

箱根・竹之下合戦
得宗北条高時を自殺に追い込んで鎌倉幕府を滅ぼした新田義貞が、同じ御家人の足利尊氏を討つという噂は、義貞と尊氏の対立を表面化させ、尊氏は義貞の守護職を解任し、上杉憲房に与え、逆に義貞は越後や播磨などで足利一族の荘園を奪って家人に与えた。
新田義貞は、後醍醐政権で足利氏よりもワンランク下の扱いをされたことにいたたまれなくなって鎌倉を捨てて上京、高い位を持つ足利尊氏をライバル視していたのである。
足利尊氏の弟、足利直義は、新田義貞を討伐するために各地で軍勢を集め、尊氏は義貞討伐を後醍醐に持ちかけるが、後醍醐はこれを無視して、逆に新田義貞を大将とする尊氏追討軍の派遣を決定する。
これを知った尊氏は「私は後醍醐天皇のそばにいて、その恩を忘れたことはない。あんまりだ」と政務を弟の直義に譲って、鎌倉の浄光明寺にこもってしまう。この予想外の敵前逃亡の理由として、尊氏は躁うつ病を患っていたんじゃないかという説もあるらしい。
なんにせよ、この時期の尊氏は、後醍醐天皇と直接対決はせずに、後醍醐政権のもとで鎌倉を拠点に東国支配をさせてもらえるんじゃないかという可能性や、朝敵にされた時の戦いの困難さを考えていて、今後の路線の選択にとっても悩んでいた。
しかし事態はどんどん進み、建武二年11月、尊氏追討軍が京都を出発。対する鎌倉からは尊氏派の高師泰を大将とする軍が西へ向かい、愛知県の三河矢作川で追討軍と戦うが、敗北、その後の合戦でも負け続ける。
後醍醐天皇は、足利尊氏、直義の官位を剥奪、足利兄弟ははっきりと朝敵にされてしまった。
翌月の12月、直義軍は大軍を率いて静岡市で戦うがこれも敗北。朝敵とされた足利兄弟の軍は正統性がなく結束がもろかったため、新田義貞側に寝返る者も多かった。
直義は箱根まで軍を後退させ、高師直、高師泰の兄弟とともに堀切(尾根を仕切る堀)を掘り、最後の防衛ラインを作った。
直義の敗戦の報告を受けた尊氏は、「弟がここで死んだら、自分は生きてても仕方がない。でもこれは弟を守るためであって、決して天皇に歯向かうこと(違勅)じゃないよ」とエクスキューズをつけながらも、ついに重い腰を上げる。鎌倉を発った尊氏は、箱根の直義とは合流せず、箱根の北を迂回して神奈川県足柄市へ向かう。
全軍で箱根の堀切で戦っても苦戦は間違いない、それなら箱根山を越えて新手で参戦したほうが敵の意表をつけるんじゃないか、と考えたわけだが、新田義貞はこれを読んでいたかのように、軍隊を箱根と足柄の二手に分ける。
激しい戦いになったが、次第に尊氏軍が優勢となり、静岡県三島市の戦いで大友貞載は降参、これを尊氏は許し、大友は尊氏側で大奮戦、結果、追討軍は敗退した。
この勝利は、敵軍も自軍に取り込んでしまうという尊氏の方針と、足利兄弟の密接な連携プレー――兄尊氏の弟直義への深い信頼が勝因だった。

京都攻防戦
尊氏は逃亡した新田義貞を追って、京都へ向かう。尊氏軍は京都の東と南に布陣を敷き、宇治でついに尊氏VS義貞の直接対決となる。
宇治の攻防戦は激しく、尊氏軍はなかなか義貞軍の防衛を突破できないでいたが、西国の援軍が京の西に到着すると、それを知った義貞軍は撤退、京都を東、南、西から攻められたことで後醍醐軍からは降参者が続出、京都はパニック状態になった。後醍醐による京都の平和はたった二年半しか続かなかった。地政学的に守るのが難しい都市が京都だったのである。
後醍醐天皇は比叡山に移り、京都に入った尊氏は、ここで、持明院統の誰かを天皇につけて後醍醐とは別の朝廷を作るアイディアを思いつく。
しかし守るのが難しい京都は尊氏にとっても同じだった。新田義貞と、後醍醐から援軍を要請された奥州の北畠顕家の大規模な連合軍が東から京都へ攻め入ると、血で血を洗う悲惨な戦い(糺河原の合戦ただすかわらのかっせん)が始まり、尊氏は京都を奪い返されてしまう。

二つの重要指令
京都から西へ逃げ、兵庫県に陣を敷いた尊氏は、ここで今後の戦況に大きな影響を及ぼす二つの重要な指令を出す。
一つ目がこの合戦の正当性を尊氏側も得るために、後醍醐天皇の対抗勢力、持明院統の担ぎ出しを要請したこと。京都の合戦に負けたのは尊氏らが朝敵にされたことで、人々から支持が得られなかったためだと考えたのだ。そこで鎌倉時代後期から続く朝廷内の王権の分裂を利用しようとした。
二つ目が元弘没収地返付令で、元弘の乱(鎌倉末期に後醍醐が起こしたクーデター)の際、後醍醐によって没収された北条氏の所領を鎌倉時代の状態に戻すという法令を出し、新たな味方を増やそうとした。この徳政令により、所領を失った多くの武士が尊氏のサイン(花押)を求めて集まり、尊氏がピンチの際は参戦してくれることになった。
尊氏は、兵庫県や大阪府で楠正成や新田義貞と戦うが、敗北し、2月12日には兵庫から船に乗り西の播磨室津に行くと、ここで室津の軍議という会議を開き、室町時代の守護制度の基礎となる西国の防衛と支配の基本方針を決定する。
さらに尊氏が広島に着いた時、持明院統の光厳上皇から院宣(上皇からの公式な書類)が下され、尊氏は正式に「私は朝敵ではない」と宣言することができるようになり、錦旗を掲げることを国々の大将に命じた。

多々良浜合戦
2月29日に九州の福岡県に尊氏が到着すると、尊氏側についた少弐貞経が、後醍醐側についた肥後国(熊本県)の菊池武敏に敗北し、自害したという知らせが入る。九州では既に戦争が始まっていた。
九州入りした尊氏は、宗像大社や香椎宮などの神社に陣を取り、尊氏が神に守られていることを大々的にアピール、香椎宮では神人(神社職員)が御宝としている杉の木を軍勢のシンボルとして尊氏軍に提供し、浄衣を着た見ず知らずの翁も将軍の鎧の袖に杉の葉を挿した。そのお礼に尊氏は翁に白い刀をプレゼントしたのだが、後に尊氏が「あの人誰?」と神人に尋ねると、「そんな人誰も知らない」と言うので、「神が化人を遣わしたんだ!」と解釈、軍勢は大いに奮い立ったらしい。
逆に言えばここまで凝った演出をしなければならないくらい、尊氏は追い詰められていた。『梅松論』によると尊氏軍はいろいろ合計しても1000騎あまり、対する菊池率いる追討軍は60000騎で、『太平記』では尊氏軍は半分くらいは馬にも乗れず、鎧も付けられなかったと書かれている。まともに考えて絶対勝てないが、少弐頼尚は、敵のほとんどは本来、味方として参戦するはずの者ばかりで、去就が定まらない「寝返り予備軍」、菊池自身は300騎にも達しないと冷静に分析する。
尊氏軍は、箱根・竹之下合戦を勝利に導いた尊氏、直義が交互に出撃する連携作戦を立て、まず弟の直義軍が出撃、建武三年(1336年)、3月2日、菊池軍と激突すると北風が砂塵を巻き上げ、風上の直義軍が優勢になる。
兄のためにここで犠牲になる覚悟をした直義が自分の右袖を尊氏に届けさせると、本陣を守っていた尊氏本体も出撃を開始、少弐頼尚の予想通り、合戦中には寝返りが相次ぎ大逆転、菊池軍は敗退、多々良浜合戦の決着はあっけなく付いてしまった。この戦いの結果、九州全域の武士は尊氏方についてしまっていた。

湊川合戦
多々良浜合戦で後醍醐方の菊池軍が逆転負けをすると、楠木正成は後醍醐天皇に「人々の心は既に尊氏側に傾いている。新田義貞を切り捨てて、尊氏と手打ちにしたほうがいいんじゃないか」と提案するが、却下される。その新田義貞は京都から、尊氏派の兵庫県の赤松氏を攻めるために出撃、赤松円心は義貞軍を白旗城に一ヶ月引きつけ、尊氏軍勢力拡大の時間を与えてくれる。
4月に博多を出た尊氏軍は、途中厳島神社や、尾道浄土寺に寄り道したりして(これもパフォーマンス)、ゆっくり東に進み、その道中で、中国・四国の武士も味方につけていった。
広島県の東、備後についた尊氏は、少弐頼尚のアドバイスを受け尊氏は船で海から、直義は陸から京都を攻めることにした。
対する楠木正成は、尊氏を一旦京都へ入れてから、京都を包囲するという、京都の地理的特質をついた作戦を後醍醐に提案するが、これもなぜか却下され、しかたなく正成は京都から出撃、直義軍に播磨の白旗城の包囲を解かれ後退した新田義貞と合流すると、正成・義貞は神戸市に陣を置く。
しかし、九州・中国・四国勢を集めた尊氏軍の大兵力には勝てず(正成・義貞軍は四国軍のような水軍を持っていなかった)、新田義貞は退路を断たれる前に京都へ逃走、残された楠木正成は湊川で奮戦するものの自害する。後醍醐天皇はまた比叡山に逃げ出した。

南北朝時代
再び京都に入った足利軍と、比叡山から降りて出撃する後醍醐軍のあいだで攻防戦が繰り広げられ、前回以上の戦火と略奪で京都は荒廃、両軍とも兵糧を止めるという戦略を取ったために深刻な飢餓状態となった。
後醍醐は形勢が不利になると、尊氏側と講和を持ちかける。その条件は、大覚寺統の後醍醐天皇と、持明院統の光厳天皇が和睦し、光厳天皇の弟を光明天皇として即位させ、光厳が院政を執り、その代わりに皇太子には後醍醐天皇の息子の成良を立てるというものだった。
これにより6月から光厳天皇の院政が始まり、8月に光明天皇が即位したが、この手打ちはあんなに後醍醐のために戦った新田義貞を切り捨てることにつながり、新田派は京都に帰還した後醍醐を取り囲み「聞いてないよ」と内部分裂を始めた。
10月に京都へ戻り、花山院に幽閉された後醍醐は光明天皇に三種の神器を渡し、約束通り息子の成良親王が皇太子に立てられる。
しかしその直後、まだ諦めてなかった後醍醐は花山院から脱出、京都の南、奈良県の吉野に入り、光明天皇に渡した三種の神器は偽物だと暴露、足利討伐を全国に呼びかけた。
これにより日本に北朝と南朝という二つの王朝ができることになった。南北朝時代の開始である。
後醍醐が吉野を本拠地にした理由は、京都を南からのぞめるし、東の伊勢には北畠親房、西の河内には楠木一族がいて、味方が吉野の両翼を守ってくれるという戦略的意味があった。さらに紀伊半島の宗教勢力を味方に付け、その情報網も利用することができた。

後醍醐天皇の死
後醍醐は、京都攻防戦の際、尊氏を追い払ってくれた奥州の北畠顕家にもう一度上洛を要請するが、顕家はなかなか首を縦には降らなかった。すでに東国では、足利方と、南朝につく顕家方に分かれて戦争が始まっていたのだ。奥州の組織化を進めながらも、次第に追い詰められていた顕家は、とうとう京都への上洛を決意、鎌倉を攻略し、愛知県まで軍を進める。
足利尊氏は高師泰・師冬をリーダーとする大群を近江・美濃の国境に配置、東国足利軍も顕家を追撃した。岐阜県の青野原で顕家軍と追撃軍は対決、顕家軍は圧勝する。
この流れのまま京都に向かうと思われたが、顕家軍は、高師泰・師冬との戦闘を避けて南下して伊勢に行ってしまう。最大のチャンスを逃してしまった顕家は伊勢から、伊賀・大和、河内・和泉へ向かうが、各地での戦闘で戦力を次第に消耗させていき、とうとう和泉石津の合戦で北畠顕家は21歳の若さで戦死してしまう。
顕家は戦死直前に、後醍醐天皇に「中央集権をやめて地方に軍事指揮官を派遣し、軍事や統治を任せるべき」「租税を三年は減免すべき」「みだりに官位を与えるべきではない」「朝令暮改をやめたほうがいい」などという意見書を出していた。この現場から出された厳しい批判を後醍醐は真摯に受け止めたという。
後醍醐の不運は更に続き、北畠顕家の死の2ヶ月後、自軍を助けようとした新田義貞までもが矢に当たって39歳で戦死。
突然2本柱を失ってしまった後醍醐は落胆するが、それでもまだ諦めず、自分の息子の義良・宗良と北畠新房(顕家の父)・顕信(顕家の弟)らの大群を奥州に派遣し、結城氏、伊達氏等の奥州の南朝勢力を合体させようと試みた。
それとともに懐良親王を征西大将軍に任命し九州に派遣(後醍醐はとにかく子どもが多かった)、顕家の意見を受け入れ北と南から反撃の狼煙をあげようとした。
しかし後醍醐の命を受けて出港した大船団はに会い、義良と顕信を乗せた船は吉野に帰還、宗良の船は滋賀県の近江に漂着した。
親房の船は茨城県の常陸(ひたち)東条浦に漂着、そこに派遣された高師冬軍とのあいだで5年間にわたる合戦が繰り広げられた(常陸合戦)。
顕家の意見に基づく作戦は、戦争を地方まで拡大させ、長期的な消耗戦になっていった。
1339年、失意の中で後醍醐天皇は病で亡くなる(享年52歳)。後醍醐は死ぬ間際「骨は吉野のコケに埋めるとも、魂は常に京都を望まん」と述べ息絶えた。人々は後醍醐天皇の怨念を恐れ、足利尊氏は後醍醐の魂を鎮めるために京都に天龍寺を造営させた。
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