参考文献:小林一岳著『元寇と南北朝の動乱』
南北朝戦争の実態
南北朝戦争下では、隣り合う村の小さな紛争が、朝敵追討といった大きな戦争に発展する、いわば私戦と公戦が結びついている状態だった。
そこでは掠奪行為が繰り返され、戦場は戦争商人と結びついた“稼ぎ場”になっていた。実際、楠木正成の軍隊はそういった掠奪者の集団であり、兵士たちは戦況よりも財宝の方を優先したため、一箇所に集まろうとせず、これでは敵が反撃してきた場合手の打ちようがないと、楠木正成は嘆いている。彼らにとっては、京都への攻撃も、朝敵足利尊氏がどうとかではなく、掠奪で一財産築きたかっただけだったのだ。
この状況に対して、後醍醐天皇は三カ条の軍法を出し、戦争のどさくさに紛れた掠奪行為を禁じ、現場においても、新田義貞が「一粒でも刈り取り、民屋のひとつでも追補したものは、速やかに誅する」と掠奪の禁止を兵たちに命じたが、部下が青麦を刈り取ってしまった際には「多分敵陣と間違えて掠奪してしまったのか、あまりに腹ペコで法を忘れちゃったんだろう」と罪を許している。
このコメントに従えば味方領域では掠奪は禁止だが、敵方領域では掠奪を許可していたということになる。つまり、戦場での掠奪は当然のことだと考え、掠奪行為をコントロールすることで戦争を遂行していたのだ。
このような掠奪の主体となっていたのが野伏で、村や地域から離れて戦時掠奪を生業にしていた。
彼らは単なる盗賊ではなく、交通の要所を拠点とし、運輸や流通に関わる特殊技能集団であった。ある時は掠奪集団、ある時は傭兵、ある時は運輸業者、ある時は戦争商人と戦時下で多彩な活動をしていたらしい。
また村と深い関わりを持つ野伏も存在し、彼らは掠奪を許可されるのと引き換えに戦争に動員された近隣荘園の荘民だった。
またこのような村の武力は、掠奪を目的とするだけではなく、逆に他の集団からの掠奪を防ぐ地域防衛システムとしても使われた。
建武式目
後醍醐天皇から三種の神器(※ニセ)が光明天皇に渡された5日後、足利尊氏は建武式目という室町幕府の施政方針を打ち出す。
建武式目は全体で二つの部分に分けられ、前半部では幕府の所在地を鎌倉と京都のどちらに置くかという問題が述べられるが、結論は明確に記されていない。
これは鎌倉で武家政治の理想を求める直義と(鎌倉は武士にとっては本来、“吉”な土地で、北条氏が鎌倉で滅んだのは、悪い政治を行ったからだと考えた)、畿内勢力に配慮して京都を考えていた尊氏の間に見解の相違があったためだと言われる。
後半部では政策方針が述べられていて、聖徳太子の十七条憲法を意識しており、全十七カ条からなる。
1条:倹約の奨励とバサラの禁止
2条:集まって飲んだりギャンブルの禁止
3条:狼藉対応策
4条:市中における戦時下の住宅利用(差し押さえ)の禁止
5条:戦時没収された市中の空き地の返還
6条:無尽銭・土倉(どちらも金融業)の奨励
7条:守護職は政務能力のある人を選ぼう
8条:権力者、女性、お坊さんの口出しを受けちゃダメ
9条:公務員は怠けちゃダメ
10条:賄賂の禁止
11条:進物(贈り物)の禁止
12条:部下の選び方は慎重に
13条:礼節の奨励
14条:良いことをしたら褒め、悪いことをしたら戒めてあげよう
15条:貧しい人の訴訟を聞き入れる
16条:強訴に訴えがちな寺社の訴訟に対する適切な対応
17条:裁判の日にち、時刻はあらかじめ決めること
この法令は、公家・武家両方の法律に詳しい法律解釈の専門家、是円(中原章賢)ら、政策立案と実務運営のプロフェッショナル集団を結成させて作ったものだが、慌ただしく出されたので、室町幕府の基本方針としては不十分であり、幕府の基本法は御成敗式目が鎌倉時代から引き続き使われることになった。
二頭政治
室町初期の幕府政治は尊氏と直義が二人で政務を分担しながら政治を行う体制だった。
文書も二人の名で発行されたため、当時の人は「ダブル将軍」と認識していた。
兄の尊氏は、恩賞の授与や守護職の補任などの武士に対する主従制的な支配権、軍事指揮権を掌握し、弟の直義は民事裁判権などの一般的な行政権を担当していた。
なぜ、一人がこれらの権限を一体化させて掌握せず、このように兄弟で権限を分担させたのかという点については、南北朝期の武士の家では兄弟惣領という長男と次男が連帯して惣領権(跡取りの権利)を共有し、分業しながら家の運営を行っていたからだとされている。この兄弟惣領は、一族の合意に基づいて推薦された家督を中心に結集した家督制へと移行していく。
このような二頭政治は、お互いが協力している時は公正な政治が行われるが、両者が対立したり、どちらかがこの体制をやめようとすれば、その対立は政治過程に大きな影響を及ぼし深刻化してしまう。
実際、足利兄弟も、武士の権限をより拡大させ、新しい武家政権を作ろうとする革新派――尊氏&高師直(足利家の執事→バトラーではなく将軍を補佐する行政機関の最高官職)と、鎌倉幕府の体制を引き継いで、専制的な徳治政治を行おうとする保守派――直義の間で政権争いが起きてしまう。
さらに直義の養子で、尊氏の実子、足利直冬も参戦し、三つ巴の戦いに発展(観応の擾乱)。
それぞれの勢力が旗色が悪くなると南朝に降参して味方を増やそうとしたため、政局は大混乱になる(擾乱とは秩序を乱して騒ぐこと)。
観応の擾乱
二頭政治の崩壊は、まず、保守派の足利直義が、革新派の高師直の執事職をクビにすることから始まった。高師直は優秀な執事かつ百戦錬磨の軍人であったが、戦争を早急に集結させ、旧来的な秩序を目指す直義と(直義の政治は安達泰盛の弘安徳政に似ていた)、戦争を継続させ、そこから新たな秩序を作ろうとする高師直では、方向性に大きな相違があった。
これを受けて、高師直は軍事クーデターを起こし、京都を占領、直義の側近の上杉重能を殺す。これに身の危険を感じた直義は、尊氏の屋敷に逃げ込む。
尊氏と師直のあいだで交渉が行われ、直義は出家して引退することになった。自分の地位は尊氏の息子で、鎌倉公方(関東地方の政務大臣的役職)の足利義詮(あしかがよしあきら)に譲ったが、しばらくして直義の反撃が始まる。
京都を出た直義は南朝に降参し、味方を増やすという奇策に打って出る。これにより、師直に勝利した直義は尊氏と講和。師直は直義派の上杉能憲(上杉重能の養子)に殺される。
ちなみに、このエピソードは『忠臣蔵』の設定そのまま歌舞伎の演目になっていて(仮名手本忠臣蔵)、仇討ちされちゃう悪役の吉良上野介は高師直に置き換えられている。まさに『忠臣蔵 太平記ver.』と言えよう。
さて、これで終わりと思いきや、今度は尊氏と直義のあいだで兄弟喧嘩が起こり、直義は再び京都から出て軍隊を組織する。すると、今度は尊氏が南朝に降参して、東海道や鎌倉で直義軍を退け、撃破(正平の一統)。
さてさて、これでほんとに終わり…と思いきや今度は、九州で尊氏の名前を利用して急成長した足利直冬が幕府に弓を引き、尊氏と講和したはずの南朝も「尊氏が戦争で留守のあいだに…」と京都に侵攻、尊氏と新たな二頭政治を担っていた足利義詮を追い出してしまう。
弟直義を倒した尊氏は、もう南朝の後ろ盾なんていらねえ、むしろ戦う意義ができてラッキーとばかりに南朝と戦い、京都を奪還。北朝を復活させた。
終わってみると、直義は急死(毒殺?)、直冬は行方不明、結局のところ尊氏が漁夫の利を得たわけだが、この争乱は武士だけではなく、公家や民衆も巻き込み、農民では惣を基盤とした農民の成長、天皇や公家の権威失墜による荘園公領制の崩壊をもたらすことになる。
尊氏と直義
学校の歴史の教科書でお馴染みの源頼朝の肖像。あれは足利直義のものであるらしい。直義は高潔で生真面目、意志の強い性格で、穏和で人懐こく、優柔不断かつ思慮深い兄の尊氏とは正反対のキャラクターだった。
あるとき尊氏が「国を治めるからにはもっと重々しく振舞わないといけないなあ」と言ったところ、直義は「私は逆に自分の身を軽く振舞って、侍たちとの距離を縮めたいし、人々にも慕われたい」と言ったらしい。弟は、なかなか頭でっかちの優等生タイプだった。
また、尊氏は支援者にたくさんの贈答品を送ったのに対し(田中角栄みたいだ!)、直義はそういった慣習そのものが嫌いだった(三木武夫みたいだ!)。
後醍醐天皇という共通の相手と戦った時はあんなに仲良かったのに…理想は平和だが歴史は残酷だ。
南北朝時代の文化①バサラ
鎌倉時代の戦乱の物語『太平記』には従来の権威を気にせず自由気ままに傍若無人な振る舞いをする武士の姿が描かれる。
彼らは「バサラ」と呼ばれ、サンスクリット語の「バアジャラ(魔や鬼を打ち砕く力)」から派生し、日本では「派手」「贅沢」「遠慮しない」「放埒」という意味で使われるようになった。バサラはこの時代の流行であり、彼らは鉛でできた大きな刀を目立つように腰に差し、派手な奥義を見せびらかしながら、奇異なデザインの服や装身具を身に付け京都市中を闊歩した。
このバサラのファッションの中心にいたのが有力武士に仕え雑務を行った小者と武士の間にあたる中間(ちゅうげん)で、悪党や野伏が傭兵になったようなものであった。
幕府はバサラに対して分不相応な贅沢を厳しく取り締まるためバサラ禁止令を出したが、これには傭兵である彼らの自由な活動を抑止し、京都の治安維持を図る目的があった。とはいえ、当時の人々はバサラを支持し、彼らは新しい文化創造のニューカマーとして一般的に受け入れられるようになっていた。
南北朝時代の文化②寄合
バサラと同時にこの時代の文化を象徴するのが寄合で、人々は日々の鬱憤を晴らすため昼夜問わず舞い歌い、酒宴や茶会を開いていた。
バサラが主催するそれは特に派手で贅沢であり、幕府はこれも禁じた。その狙いは単なる倹約奨励だけではなく、寄合が政権転覆を目論む反体制派の密謀を行う場でもあったからである。実際、後醍醐天皇は豪勢な寄合の席で、鎌倉幕府倒幕の計画を練っていたのである。
寄合の文化として流行ったのが連歌であり、これはもともと平安時代に公家のあいだで嗜まれた上の句と下の句を別々の人間が対応して読む、高度に洗練された遊びであったが、この時代の寄合では貴賎、貧富、教養を問わず誰でも参加できる、京都風鎌倉風なんでもアリのゲームになった。そこでは誰もが歌の優劣を判断し差別や秩序のない自由な世界があった。
そして、連歌と共に寄合の文化の中心となったものが茶である。鎌倉時代には栄西によって抹茶が伝えられたが、寄合での茶は養生や学び、嗜みとは別の形で発展する。
それが闘茶であり、バサラ大名の寄合では味の違う4種類の茶を飲み比べ、正解者が景品を獲得するというギャンブルとして茶が消費されていたのである。ガキの使いでこんなのあったよね。
南北朝時代の文化③田楽と猿楽
田楽は、平安時代に成立した伝統芸能で、稲作で最も大変な田植えの際に、豊作を祈って楽器を演奏しながらリズミカルに踊りを踊ったのが起源である。
これを好んだのが鎌倉幕府最後の得宗北条高時で、京都の田楽座を鎌倉に読んで楽しんでいたという。この流行は各地に見られ、南北朝時代にも続いた。
四条橋着工セレモニーでは、大々的な田楽に観客が熱狂しすぎて将棋倒しになり100人以上の死者が出る大惨事となっている。
田楽と同時に、能につながる猿楽もこの時代に発展した。猿楽は神事の際に翁(宿神)の仮面をつけた演者が舞う芸能、翁猿楽をルーツとし田楽同様、座を持ち各地で公演をする集団もいた。
これらの座は自社の保護を受け、田楽と猿楽の座が芸を競う立会い能という催しもあった。
この勝負に勝ち上がるため大和猿楽の観阿弥は技を磨き、当時人気があったリズミカルな曲舞や、ライバルの田楽の良さも積極的に取り入れた。これが室町幕府将軍足利義満の目にとまり、猿楽は武家社会の上流文化を吸収、さらに芸を洗練させ、現在の能の原型になった。
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