江戸時代覚え書き②

江戸時代中期
17世紀半ば~18世紀初めの、幕藩体制が確立し社会秩序が安定した時期。
幕府の政治も武力を盾にした専制的なものから、儒教的な道徳や礼儀に基づく文治政治になった。将軍の方は不幸が続いて、家綱→綱吉→家宣→家継と代わっている。
また、農業をはじめとする各種産業に商人の資本が大々的に投下され、まさに時代は経済革命だった。
なにより、私が大好きな水戸黄門の時代でもある。TBSは国民に対する歴史教育の一環としてぜひ再放送をしていただきたい。

徳川家綱
4代将軍。1651年に先代で父親の家光が亡くなったため将軍職に就いたが、この時まだ11歳だったため、実際の政治は叔父の会津藩主、保科正之(ほしなまさゆき)が行なった。
彼が取り組んだ社会問題は、失業した武士である牢人(ろうにん)がかぶき者となって社会秩序を乱すことだった。
この時代では、跡継ぎのいない大名が、養子を取って勝手に土地を相続することは末期養子の禁(まつごようしのきん)という法律で禁じられていた。そのため、たくさんの大名家が断絶、かぶき者予備軍の牢人が増加したのである。
1651年に起きた、兵学者の由井正雪の乱(慶安の変)も、背景にはこういった武士の失業問題があった。
この対策として保科正之は、かぶき者の取り締まりを強化すると共に、末期養子の禁を緩和(50歳未満の大名は養子をとってOKになった)、また家臣が主人の後を追って自害(殉死)することを禁止した。
殉死の禁止は、主人が代わっても家臣は死なずに、次の主人に仕えなさいということで、牢人の増加を防止するとともに、主従関係も確立して、下克上の可能性は減少した。

藩政改革
社会が安定し軍役が減ったことで、有能な家臣を補佐官にして、治水事業や新田開発を行う殿様が増えた。
将軍を助けた保科正之は、垂加神道(神道+儒教)を唱えたことで有名な山崎闇斎(やまざきあんさい)、水戸の徳川光圀は、明の儒学者の朱舜水(しゅしゅんすい)、岡山の池田光政は、陽明学者の熊沢蕃山(くまざわばんざん)、加賀の前田綱紀は、徳川綱吉の家庭教師も務めた木下順庵といった著名な学者を招いて、小泉竹中的に改革を実行した。

徳川綱吉
5代将軍。彼が将軍を務めた頃を元禄時代といい、水戸黄門もこの時代を舞台にしたドラマである。
綱吉の補佐は最初、大老の堀田正俊(ほったまさとし)が務めていたが、彼が若年寄に暗殺されてしまったため(綱吉黒幕説アリ)、側用人の柳沢吉保(やなぎさわよしやす)が、その後将軍の補佐をした。
綱吉は、儒学者の木下順庵を家庭教師を付けていたため、天和令(てんなれい)という武家諸法度で忠孝、礼儀を第一に要求した。
また林羅山が上野に開いた塾を、湯島に移し湯島聖堂として、その経営を林家に主催させ、大学頭に林鳳岡(はやしほうこう)を就けた。ここは受験シーズンになると受験生が合格祈願に殺到する。
また、綱吉は神道にも影響を受けており、服忌令(ぶっきれい)で喪に服したり、忌引き日数を定め、死や血を嫌う風潮を生み出し、死を恐れないチンピラだったかぶき者の生き様を否定した。

生類憐れみの令
さらに綱吉は仏教にも帰依していたため(インテリだったんだな)、生き物すべての殺生を禁止する生類憐れみの令を出し、民衆は虫も殺せないと大迷惑したが、野犬はすべて施設に保護されたので町にうろつくことはなくなった。
そもそもこの法令の最大の狙いは、動物ではなく、人間――捨て子の保護だった。
なんだかんだ言って、綱吉の時代までは戦国時代のノリがあったため、人を殺すのは割と日常的だった(野球のバッティング練習の感覚で庶民やイヌを試し斬りしていた)。
生類憐れみの令は、そんな日本人の意識を変えた人権尊重的な法律だった・・・って井沢元彦さんが言ってた。
徳川綱吉は、ドラマと違い本当は水戸黄門とあまり仲が良くなかったらしいが、これも水戸のご老公が「人だって罪を犯せば罰せられるのに、田畑を荒らす害獣を殺せないのは絶対おかしい」と生類憐れみの令を批判し、犬将軍とまで呼ばれた愛犬家の綱吉に犬の毛皮をプレゼントしたからである。
う~ん、どっちの言い分もわかるけど、やっぱご老公パンキッシュだぜ。どっか旅に行かせてたほうが将軍もホッとしたのかもな。

貨幣改鋳
鉱山の金銀の産出量の減少、1657年に江戸で発生した日本史上最大の大火事である明暦の大火、信仰心の厚い綱吉による相次ぐ寺社建設などで、綱吉の時代には幕府の財政状況はかなり厳しかった。
そこで勘定吟味役の荻原重秀(おぎわらしげひで)が提案した貨幣改鋳を行い、金の含有量を減らした元禄小判を発行し、これを量産することで(量的緩和)、その差額を財政再建にあてた。
これにより幕府の収入は上がったが、質の低い貨幣はインフレを発生させ、民衆の生活は苦しくなった。

宝永大噴火
1707年。マグニチュード9クラスの南海トラフ地震によって引き起こされた富士山の大噴火で、以降富士山は噴火していない。当時江戸に滞在していた新井白石は、大量の火山灰で昼でも暗くなった江戸の様子を記録している。

徳川家宣
6代将軍。1709年に亡くなった綱吉の跡を継いだ。
綱吉の側近の柳沢吉保を退け、代わりに高名な朱子学者の新井白石と政治の刷新を行なった。
家宣は生類憐れみの令を廃止させたが、在職してたった3年でインフルエンザをこじらせて亡くなってしまった(51歳)。

徳川家継
7代将軍。家宣の死で急遽7代目の将軍になったが、この時家継はまだ3歳。
そのため幕政は、そのまま新井白石が主導した(正徳の政治)。
新井白石は、3歳の家継と2歳の皇女八十宮(やそのみや)の婚約をまとめ、将軍家と皇室との結びつきを強化したが、婚約の翌年に家継は風邪をこじらせて、まだ8歳で病死してしまう。これは歴代で最も短命な将軍となった。
この他にも新井白石は、財政難に苦しむ皇室を繁栄させるために閑院宮(かんいんのみや)という新しい宮家を新設している。

新井白石
新井白石の政治は、主に経済政策で知られる。
長崎貿易による金の流出を防ぐための法律である海舶互市新例(かいはくごししんれい)を発布するとともに、金含有量を家康の時代の慶長小判と戻した正徳小判を発行しディスインフレを目指した。
しかし立て続けの貨幣変更は社会を混乱させてしまった。

農業の発達
鉱山開発の諸技術(掘削、測量、排水)が農業に転用され、河川敷や沿岸部などで大規模な耕作が可能になった。
全国の農地の数は17世紀初めから18世紀のはじめにかけて、二倍にも激増した。
有力な都市商人が農地に資金を投下し開発する、町人請負新田も各地にできた。『プロミストランド』みたいだな。
宮崎安貞(みやざきやすさだ)の『農業全書』、大倉常永(おおくらつねなが)の『農具便利論』といった、新しい栽培技術や農業技術を紹介する本も著され、米の生産力は飛躍的に向上、余ったお米は商品として売却され貨幣に変わった。
この時代に開発された農具には、備中ぐわ、脱穀用のでかい鉄製のクシが取り付けられた千歯こき、脱穀したお米と籾殻を選別するためのビンゴゲームのガラガラみたいな唐箕(とうみ)、ふるい付きの滑り台みたいな千石どおし、人の足で踏んで水を汲み上げる小型の水車の踏車などがある。

商品作物
桑、漆、茶、楮(和紙の原料)、麻、藍、紅花はまとめて四木三草と呼ばれた。
ほかにも綿花、油菜、野菜、果物、タバコなどが生産。
肥料には、干鰯、〆粕(青魚のカス)、油粕などの市販された肥料の金肥が利用された。

鉱山業の発達
17世紀後半になると、ついに金銀の産出量が減り、それに代わって銅の産出が急増した。
銅は貨幣になったり、長崎貿易の最大の輸出品になった。
また木炭で砂鉄を精錬するたたら製鉄が中国地方や東北地方で行われ、玉鋼は農具や工具に加工された。

漁業の発達
網漁法や、沿岸部の漁場が開発。
九十九里浜のイワシ漁や、松前のニシン漁などが有名。
蝦夷地では、いりこ、ほしあわび、ふかのひれを俵に詰めた俵物が生産され、銅に代わる清への輸出品になった。
入浜塩田もさらに発達した。

林業の発達
都市の開発が進んだため、木材の需要が急増、材木問屋によって蝦夷地にまで林業が広がった。
尾張藩の木曽檜、秋田藩の秋田杉など。

織物業の発達
絹、木綿、麻織物などがあり、その中でも絹織物が高級だった。
なかでも京都の西陣織は、腰をピンと立てて真っ直ぐに織らなければいけない高機(たかばた)という織り機で織られ、高度な技術が必要とされた(気を抜くとすぐよれる)。
木綿や麻をつかった織物は庶民の衣料として消費され、村の百姓――特に女性が零細的に生産した。
有名な産地には、河内(木綿)、近江(麻)、奈良(晒)などがある。

製紙業の発達
和紙の流漉(ながしすき)の技術が発達し、岐阜県美濃といった生産地には専売性が敷かれた。
和紙の主な原料は楮(こうぞ)で、木材を使ったパルプが用いられるようになるのは明治時代からである。
ちなみに、楮のみの紙漉き技術は、2014年にユネスコの世界無形文化遺産になった。

醸造業の発達
京都の伏見や神戸の灘が酒を、千葉の野田や銚子が醤油を生産。

商業の発達
国内交通が整備される以前は、朱印船貿易で荒稼ぎした、堺、京都、博多、長崎、敦賀などの初期豪商が商業の中心となっていたが、海外との交易が制限され、国内交通が整備されると、商業の中心は次第に、三都(江戸、大阪、京都)や城下町で国内流通を牛耳る問屋(といや)となった。
問屋の同業者組合は仲間と呼ばれ、仲間掟を作って営業権独占を図った(カルテル行為)。
特に、江戸の十組問屋(とくみといや)と二十四組問屋(にじゅうしくみといや)は有名で、幕府はこのような連合組織に営業税(運上、冥加)を課した。
問屋の支配下には、小売商人への卸売を独占した仲買人がおり、小売商人の多くは常設の店舗を持たず、振売、某手振りと呼ばれた。魚が入った天秤みたいなのを担いで、鉢巻きしている人がそれである。

五街道
江戸の日本橋を起点とする幹線道路。
三都を結ぶ東海道と、その北に並列する中山道、江戸と甲府をつなぐ甲州道中、江戸と東北を結ぶ奥州道中、日光への日光道中の5つ。
五街道は幕府の直轄下で、道中奉行が管理した。
これ以外の主要道路は脇街道と呼ばれた。

菱垣廻船(ひがきかいせん)
大型の貨物船で17世紀後半から運航開始。大阪から江戸に木綿や油、酒を運んだ。

樽廻船(たるかいせん)
小型の貨物船で18世紀前半から運航開始。
本来は酒の輸送専用の船だったが、菱垣廻船に比べて速度がべらぼうに速く、その後ほかの物資も運ぶようになった。
菱垣廻船が10~20日かかる南海路を58時間で済ませるという最高記録を出したらしい。
これにより19世紀以降は樽廻船が優位になり、菱垣廻船は衰退した。

河村瑞賢(かわむらずいけん)
全国的な海上交通網である東廻り海運(東北地方太平洋側~江戸)と西廻り海運(江戸~大阪~瀬戸内海~下関~北陸)を整備した。

角倉了以(すみのくらりょうい)
富士川や京都の高瀬川に新たな水路を開いた。

三貨
金貨、銀貨、寛永通宝などの銭貨(ぜんか)を合わせた言い方。17世紀半ばまでに全国的に普及。
金貨は金座、銀貨は銀座、銭貨は銭座で鋳造された。
この三貨の交換レートは変動相場制だった。
面白いことに金貨は主に江戸で流通、銀貨は主に大阪で流通したため、江戸の金遣い、大阪の銀遣いと言われた。金座も銀座も江戸と京都にあったんだけど。
それ以外の貨幣では、各藩が発行しその藩だけで使える地域通貨の藩札や、商人発行の少額紙幣の私札などがあった。

両替商
特に、大阪や江戸の有力な両替商は、三貨の両替だけでなく、公金の出納や為替、貸付といった会計業務も行なっており、幕府や藩の財政を支えた。
有名な両替店は、大阪の天王寺屋、平野屋、鴻池屋(こうのいけや)、江戸の三井、三谷、加島屋など。
時代劇における「お主もワルよのぉ」でお馴染みの、両替商を営む呉服屋、越後屋さんも実在し、少量の呉服でも安心の価格で買えるというユニクロ戦法によって江戸、京都、大阪に14店舗を構えるまでに利益を上げた・・・ってチェーン展開してたんかい。

三都
江戸:将軍のお膝元。人口100万人の世界有数の大都市で、政治の中心地だった。
大阪:天下の台所。人口約35万人で、諸藩の蔵屋敷が置かれた商業の中心地だった。
京都:皇室や公家、寺社が集中。人口約40万人で宗教や文化の中心地だった。

元禄文化
水戸黄門の時代の文化。
大阪の豪商を中心に育まれたため現実主義的で、さらに儒教の影響が強く、逆に仏教の影響が薄いことが特徴。

井原西鶴
江戸時代を代表する作家の一人。
元は大阪の商人で、軽妙な句調の談林俳諧で注目を集め、その後享楽的な現世を描いた連続短編小説、浮世草子を執筆した。
スケベ男を題材にした『好色一代男』、町人を題材にした『日本永代蔵』、武士を題材にした『武家義理物語』など。

近松門左衛門
江戸時代を代表する脚本家の一人。
彼は出身が武士で、現実社会や歴史を題材にし、そこで義理人情に悩む人間の姿を、人形浄瑠璃や歌舞伎の脚本として描いた。
ヒットしすぎて心中事件を多発させてしまった問題作『曽根崎心中』、明と日本のハーフの主人公が明に行きその再興を目指す『国姓爺合戦』などが代表作。
彼の作品は人形浄瑠璃で竹本義太夫に語られ大人気、義太夫節が生まれた。

松尾芭蕉
伊賀出身のため忍者説がある俳人。談林俳諧とは一線を画す、芸術性の高い蕉風俳諧を確立。
代表作は『奥の細道』で、自然と人間を鋭く見つめた。

歌舞伎
民衆の演劇である歌舞伎は、江戸と上方に常設の芝居小屋が置かれた。
江戸の市川団十郎は勇ましい演技(荒事)で大好評となり、京都の坂田藤十郎は恋愛劇(和事)で大好評となった。

元禄文化の芸術
土佐光起:朝廷の御用絵師。
住吉如慶と具慶親子:幕府の御用絵師。洛中洛外図巻。
菱川師宣:浮世絵を確立。有名な見返り美人像は肉筆画だが、版画も作った。
尾形光琳:俵谷宗達の画法を取り入れ琳派を起こす。燕子花(かきつばた)図屏風、紅白梅図屏風、八橋蒔絵螺鈿硯箱など。
宮崎友禅:友禅染を創始。
野々村仁清:陶工。色絵を完成。京焼を創始。

朱子学
戦国時代に開かれた海南学派が、山崎闇斎や野中兼山を輩出。

陽明学
明の王陽明が創始した儒学。知行合一がモットーで、中江藤樹やその弟子の熊沢蕃山が幕政を批判したため、幕府に危険視された。

古学派
孔子や孟子の古典に立ち返る一派。
感情や欲望を否定する朱子学を独善的と批判した山鹿素行や、伊藤仁斎が創始。
これを継いだ荻生徂徠は、統治の具体策、経世論を説いて、徳川綱吉についた柳沢吉保や、徳川吉宗に重用された。
荻生徂徠の弟子の太宰春台(だざいしゅんだい)は著書『経済録』で、武士も商業を行ない利益を上げろと主張した。

その他の学問
新井白石:『読史余論』、『古史通』で独自の歴史観を論じる。
貝原益軒(かいばらえきけん):博物学者。著書は『大和本草』。
関孝和:和算。測量や商取引に利用。代数や円周率計算などの研究。
渋川春海(しぶかわしゅんかい):天文学。幕府独自の暦である貞京暦(じょうきょうれき)を作る。
契沖(けいちゅう):古典研究。『万葉集』を研究。
北村季吟(きたむらきぎん):古典研究。『源氏物語』や『枕草子』を研究。
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