外国史各論1(東洋史)覚え書き②

参考文献:王瑞来『中国史略』

中世
魏晋南北朝時代~唐代末、五代までとされる。

北魏孝文帝の改革
北魏は中国北部の遊牧騎馬民族である鮮卑族が建てた王朝。
孝文帝は、馮太后(ふうたいごう)が手がけた漢化政策をさらに推進し、都を南の洛陽に定め、鮮卑族の服装や言葉は全て漢民族のものに改めさせた。
これにより、北魏は遊牧民を中心とした国家体制から、より普遍的な国家体制へと変わり、馮太后と孝文帝時代の北魏は全盛期を迎えている。
また、普遍的国家体制の樹立は後の隋による中国再統一へのきっかけにもなった。

三省六部制について
三省六部制とは隋と唐で行われた政治制度で、皇帝の下で中央政府の運営の中核を担った。
三省とは、皇帝の意思をもとに法案を作る中書省(ちゅうしょしょう)、法案を審査する門下省(もんかしょう)、審査に通った法案を行政化する尚書省(しょうしょしょう)の三つの機関のことで、六部とは官僚の人事を行う吏部、財政と地方行政を担当する戸部、教育と倫理、外交を司る礼部、軍事を担当する兵部、司法と警察を担当する刑部、公共事業を担う工部の六つの機関のことである。
これらのシステムは、中国のその後の政治制度にも影響を与えている。

中国の皇帝の役割
前述の三省六部制は皇帝に対する制度的な制約のほか、道徳的な規範を後の皇帝に示し、これにより皇帝は王朝(中央政府)の政治運営に機械的に従うだけの支配システムの一部になってしまった。また皇帝の公的なイメージは皇帝の権力の象徴化を促した(テキスト263ページ)。
中号史上最高の名君とされる唐の皇帝、太宗(たいそう)を例に挙げると、彼の行なった政治は貞観の治と呼ばれ、後世に名高い評価を受けているが、これも太宗個人の功績ではなく、彼とそのシンクタンク(委員会)の共同作業の成果であると考えるのが妥当である。
また、英明な太宗は進んで大臣の意見を聞くことで、儒学における聖王名君の枠に収まるとともに(太宗は北もしくは西の異民族である胡人だった)、皇帝という地位に対して冷静な認識を持つに至った。
こうして強い自律心を得た太宗は、自身の恣意的な行為を抑えたため、皇帝の私的権力が公的権力に取り込まれることになったのである。

則天武后の政治
中国史上唯一の女帝が則天武后である。
太宗の側室だった彼女は太宗の貞観の治を継承し、唐に次ぐ新たな王朝である武周を建てた(彼女ら武一族による周という意味)。また仏教で国を治めようと各地に寺を建てたことでも知られ、これは日本の奈良時代の国分寺に影響を与えている。
とりわけ則天武后は、粛清によって新旧貴族を退けて、科挙制度を実施、家柄にとらわれない合理的な人事を行なった。後世につながる人材も、この時に発掘、養成されており、貴族政治から科挙官僚政治へと移行するきっかけを作った。
しかし武周自体は彼女一代、わずか15年で滅んだ。その後彼女が退けた息子の中宗が王位に復帰、唐を再開させている。

李白と杜甫の漢詩のスタイルの相違
李白の作品はバラエティに富んでおり、漢魏六朝以来の中国詩歌の集大成である。
ダイナミックでスケールの大きな作品、清らかで繊細な作品、飄逸で超俗的な作品など、総じて変幻自在で鮮烈な印象を残している。
一方、杜甫の作品は現実の社会を直視したリアリズムが特徴で、代表作の『春望』からは憂愁感や悲壮感が漂っている。社会や政治の矛盾を作品のテーマに積極的に取り上げる、杜甫の叙述姿勢(詩史)は、後の白居易などにも影響を与えている。
ちなみに李白と杜甫は同時代人で親友でもあった。

遣唐使と日中交流
貞観の治によって政治的に安定した時期に、日本は何度も遣唐使を送っている。
唐からの冊封関係(中国の皇帝の支配下に入ることで、王としての正統性を皇帝に担保してもらうこと)の要求を断っていた日本の朝廷は、白村江の戦い以降は対外的に消極策を取るようになり、唐への朝貢を続けることで日本の国号を維持し、大宝律令を完成させることで国家体制を確立した。
また和同開珎、平城京、仏教の基礎などは全て唐の影響によるものである。
その後、大規模な農民反乱である黄巣の乱で唐が事実上崩壊すると、菅原道真は遣唐使を廃止した。ちなみに黄巣は指導者の名前で、科挙に落ちて塩の闇商人をやっていたヒトクセある人物。

漢と唐の文化の相違点
漢では儒教や道教といった思想が誕生、儒教は支配層に広まり科挙の必須科目となった。また無為自然を説いた道教も手厚く保護されている。
漢代の文学で名高いのは司馬遷の『史記』で、後世の歴史家に大きな影響を与えた。
唐では漢の文化を源流にし、音楽では楽器演奏や舞などの唐楽、美術ではユネスコ世界遺産になった龍門石窟寺院、書は書聖と言われた王義之(おうぎし)、中国史きっての忠臣と言われた顔真卿(がんしんけい)などが有名である。

近世
宋代~清代中期までとされる。

宋代の士大夫政治の形成
後周からの禅譲によって北宋を樹立した突厥(トルコ系)の趙匡胤(ちょうきょういん)は、武人(固有の兵力を持つ節度使など)の力をそぎ落とし、貴族の横槍が入っていた科挙を公平なものに改善することで、動乱の世の中を終わらせ、文治政治による天下泰平の世を築こうとした。
この結果、一回につき10人ほどだった科挙の合格者が、太祖(初代皇帝=趙匡胤のこと)時代には数百人にまで増え、3代の真宗の時代からは科挙官僚が朝廷を実質的に支配するようになった(中国史の中で最もビューロクラシーが栄えた)。
ちなみに科挙官僚は地主と文人を合わせて士大夫(したいふ)と呼ばれたため、この時期の政治を士大夫政治と言う。

宋代の官僚制度
宋代では地方(府、州、県)の長官を、知某州事や知某県事と呼ぶようになり、省略されて知県事、知府事となった。
一方中央政府では、官、職、差遣(さけん)という官僚制度が導入された。
官はその官員の地位と棒録を表し、寄録官と呼ばれた。実際の職務内容は表さない。
職は文才のある官員に与えられる名誉ある肩書き。これも職務内容と無関係に与えられる。
差遣はその官員が担当する実際の職務(使、判、知など)を表し、職事官と呼ばれた。
このような差遣制度は、官員の官名と職務を分離する点で役に立った。なぜなら政治闘争を避けたかった新政府は、自らが滅ぼした旧政権の官僚を罷免しなかったのだが、重要なポストにはやはり新政権が信頼できる人材を新たに登用したかったからである。
五代十国時代では、このようないきさつで差遣や官員が大量に出現、官制の混乱、行政の効率低下を引き起こし、財政支出を増大させているが、宋代においてもこの明らかに弊害のある制度は100年間も続けられ、祖宗の法の負の遺産と呼ばれた(テキスト328ページ)。

世界初の紙幣と宋代経済の繁栄
文治政治を掲げた宋は、遼や西夏に金銭を支払い平和を買うほど、経済観念が発達していた。都市の大都市化による物品の集散、夜間営業の市、政府の商業奨励政策、商人の地位向上などによって商業はかつてないほどに繁栄した。
そして欧州(スウェーデン)に先立つこと600年、世界初の紙幣である交子が誕生する。
これまでは貨幣が市場の取引を支えていたが、従来の貨幣の供給量では市場の需要を満たせず銭荒(せんこう)という価格の乱高下が起こった。
また、商品が掛け(ツケ)で売買されることも交子が生まれた原因であると考えられる。実際に交子は、元々とある富豪が貨幣の預金証書として考案し、その発行権を政府が取り上げることで政府紙幣となった。ちなみに交子には有効期限も設けられており、紙幣を不当に貯め込むことを防いでいた。

宋代の四大発明
彫版印刷術自体は、唐や五代ですでに行われていたが、北宋においては儒学、道教、仏教の経典や史書、文集の印刷に、また南宋では、それらに加えて、科挙の受験準備書や生活の実用書の印刷に用いられていた。
これに刺激を受ける形で発達したのが製紙業で、原料の拡大、乾燥法、着色法、虫食い防止法などの技術が開発、日常生活にも紙が使われるようになった。
羅針盤は宋代では航海や夜間の行軍以外に旅行においても使われた。
火薬は唐代で初めて軍事的に用いられるようになったが(発射薬ではなく炸薬として)、南宋の時代になると大量生産が可能になり、管状火薬兵器の最初の形態である火箭(かせん。おそらく火矢だとされるがロケット兵器だったんじゃないかという説もある)、突火槍(槍の先に火薬をくくりつけ炎を噴射する武器)などが戦争に積極的に導入されるようになった。

建国以前のモンゴルに対して漢文化が与えた影響
従来の説では、モンゴル帝国は漢文化の影響を受けずに突然勃興し、強大な帝国に発展したと考えられていたが、現在では漢族周辺の他民族と同様に、交流と衝突を繰り返しながら次第に漢族の文化を受容していったと考えられている。
その影響には、政治体制の熟知や、体制の一員としての意識の形成などが挙げられ、実際にモンゴル人の一部族は「祖元皇帝」を名乗り、中国風の年号をつけている。また政治的なポストには王や太子という言葉も借用している。

モンゴル人が漢民族と同化しなかった理由
モンゴル人は百年近くも漢族地域を支配していたが、結局漢民族と同化することはなかった。その理由は、行政を簡素化して、身分制度を設けたことにある。
元以前の中国の統一王朝は、前王朝の政治体制をそのまま流用していたが、元はそれを嫌ってモンゴル人(全体の1.4%)を頂点とする新たな身分制度を確立した。このヒエラルキーではモンゴル人が中央や地方の重要ポストを独占し、西域出身の諸民族である有目人(こちらも全体の1.4%)が準支配階級として経済財政の実務を行った。
被支配層は金が支配していた漢人(13.8%)と、南宋が支配していた遺民の南人(83.4%)だった。

大元ウルスの世界史的な意義
ウルスとはモンゴル語で「国家」という意味。つまり大元ウルスとは大元大モンゴル国のこと。
さて、急速に拡大し、そして滅亡したモンゴル帝国は、中国だけでなくアジアやヨーロッパに巨大な政治的、経済的、文化的遺産を残した。
例えば、中国とユーラシア大陸の境界線が消失したことで東西の交流は自由で緊密なものとなり、それに伴って文化や経済も発展した。
内陸近海水運の発達は経済や流通を活性化し、火薬や印刷術は世界的に広がった。
こうして、これまで孤立的だった東アジアは、アジア全域、ヨーロッパ、アフリカなどの国際社会と一体になったのである。

鄭和の南海遠征
永楽帝の中華帝国構想(朝貢貿易の拡大)の一環として、1405年に第一回が行われた鄭和(ていわ)の遠征航海は、大航海時代に先立って行われ(コロンブスの88年前、マゼランの116年前)、世界史に残る偉業であった。
中国の造船技術は、当時のヨーロッパとは比較にならないほど進んでおり、全長150m以上に達する巨大な木造船を造ったり、2万人以上もの乗組員が所属する大艦隊を編成できるほどであった。

明朝の朝貢体制に対する評価
中国の歴史における伝統的な制度を導入したというよりは、むしろ前身のモンゴル帝国の刺激を受けた結果、導入した。
元には及ばないものの、漢民族の朝貢は、明の時代でその頂点にまで推し進められたが、その結果、政府は巨額の財政支出を出すことになった(朝貢にかかる経費は相手国ではなく明が負担したため)。

明代人の経営意識の欠如
剛腕政治家の張居正(ちょうきょせい)の改革によって多くの財政収入を得た明政府は、なぜか、その資金を国家の経営投資に当てようとはしなかった。それもそのはずで、当時の中国には投資という発想がそもそもなかったのである。明代の中国人は資産を、再生産のための投資ではなく、貧しさをしのぐ蓄財か、湯水のような京楽に回してしまい、そのため近代国家への移行ができなかった。

明代の下層社会の特徴
南宋や元以降の知識人の大量参入によってもたらされた下層社会の質の増進がそのまま明にも受け継がれていること、もう一つは下層社会の活発化によって商品経済が発達したことである。『水滸伝』にもこの様子は描かれている。

近代
清代中期~辛亥革命までとされる。

清代の中国史上の位置づけ
清は、女真族(その後満州族に名称変更)のアイシンギョロ氏のヌルハチが、腐敗しきっていた明から独立し、そのあとを継いだホンタイジが建てた王朝である。
生気のない社会に再び活気を取り戻し、中国の伝統社会を復活させた清の建国は、単なる王朝の交代以上の意味があった。もし清朝が築かれなかったら、欧米列強による中国の支配はさらに繰り上がっていたに違いない。
また、清は現在の中国人の思想や行動に根源的な影響を与え、中国の伝統とされるものは実は清代が源であることが多い。
ちなみに清を中国の全国王朝にまで拡大させた第4代の康熙帝(こうきてい)は、積極的な緊縮財政や文化事業を実施し(大変な読書家)、唐代の太宗と並んで中国史上最高の名君とされている。
そのあとを継いだ雍正(ようせい)、乾隆(けんりゅう)も名実ともに豊かで繁栄した社会を実現させている。このような平穏な世は130年あまり続いた。
しかし内陸民族であった満州族は保守的で、世界に先駆ける先進国だった中国は、近代に入ると発展の機会を次々に逃し、いつの間にか後進国になってしまった。

清朝の『明史』編纂宣言の真意
文化や学術的な意味よりも、政治的な意味合い、つまり清朝の正当性を示すために編纂されたと考える方が実情に即している。
事実、『明史』の編纂は、明から清への王朝の交代を既成事実化するために、中国全土の征服が完了していない頃にすでに宣言されており、また、この宣言は本当に宣言だけで、具体的な編纂作業はまだ行われていなかった。

サツマイモとトウモロコシの伝来
どちらも海外貿易によって16世紀に中国に伝わった。多収穫作物であるサツマイモとトウモロコシの栽培は、食料の生産量をさらに向上させ、人口増加を支えた(なんと1億4千万人だった人口が50年ほどで3億人超にまで増えている)。また桑、茶、綿花、タバコなどとともに農業の商業化ももたらした。

乾隆帝がマカートニー使節団の通商要求を拒否した背景
ジョージ・マカートニーはイギリスの外交官。
満州人は中国を支配すると、従来の中国王朝が抱いていた天朝意識(中国は神が伝えた文化と王朝を持つ素晴らしい国であるという意識)を吸収し、彼らもまた貿易はあくまでも朝貢によるやりとりが主であると考えた。
実際、自給自足で事足りた中国は、不安定な海外交易よりも内政問題を優先させ、積極的な海外進出をする動機そのものがなかったのである。

日本の明治維新と中国の洋務運動
どちらもヨーロッパの先進技術を導入することで、産業を発展させ、富国強兵を成し遂げようとした改革であるが、日本の明治維新が、福沢諭吉の「脱亜入欧」に象徴されるように、社会体制の変革までも含めた欧米文化の導入を実践したのに対して、中国の洋務運動では、張之洞の「中体西用」に象徴されるように、あくまでも産業分野のみの改革で社会体制の変革を伴わなかった。そのために王朝の反対勢力の抵抗にあい、洋務運動は不徹底なものに終わってしまった。

現代
辛亥革命~中華人民共和国の建国までとされる。
ちなみに中華人民共和国建国以降は当代とされる。

現代における清朝の民族差別に対する認識について、記憶幻覚という心理的現象の観点から論ぜよ
中国の歴史では、漢民族を中心とする中国地域は度々周辺の他民族から侵攻を受けていたが、全国規模の王朝が建てられたのは、モンゴル人の元と満州人の清だけであった。
実際、純粋な漢民族自体は三国時代においてすでに絶滅しているらしいが、漢民族的な支配方式や文化はある程度、他民族の王朝においても継承されたこと、また時間の経過によって漢民族の抵抗感は次第に薄れていった。
しかし、清王朝末期の運動(辛亥革命など)を通して、その屈辱的な記憶は喚起され、民族差別を誇張した反清宣伝は、若い世代の記憶的な幻覚になった。
これは現在の中国にも大きな影響を与え、漢民族を主体とした王朝である宋と明の輝かしさに憧れるとともに、モンゴル人や満州人などの他民族よって滅亡したことを嘆いているのである・・・って宋ってトルコの人が作ったんじゃ・・・
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