外国史各論1(東洋史)覚え書き①

参考文献:王瑞来『中国史略』

歴史と歴史学の区別
歴史とは人類の過去にあった事項と行動を指し、客観的な事実である。
歴史学とは過去に起こったことを記録し解釈することで、記録者・研究者の主観的な理解や評価(史観)を含む。
しかしこの両者は不可分なもので、イタリアの哲学者クローチェは「すべての歴史は現代史である」と述べ、どの時代の歴史を記述しても必ず記述者の見解が入り込むことを論じている。そう言った意味で真に客観的歴史記述はありえない。
また歴史についての史料は広大な海のように多く(浩如煙海)、中国の歴史学は中国史と同様に長い歴史を持つ。殷の時代の甲骨文字には、すでに「史」という文字が残されている。

中国文化と日本文化の関係
稲作の導入、律令制度、漢字、儒教思想など、日本文化は中国文化に大きく影響を受けているが、それは「源」と「流」の関係ではなく、並行する川のようなものである。
中国と日本の文化は親戚のような関係があるが、結局はある種の異文化で、それぞれが独自の歴史的文脈のもとに形成されたことには注意する必要がある。

中国とは何か
実は中国とは国名ではない。
現在中国と呼ばれる国家は二つある。1949年に成立した中華人民共和国と1912年の中華民国であるが、そのどちらの憲法にも「中国」を自国の略称とするような記述、法的根拠はみつからない。
また歴史的根拠を見ても、いわゆる“中国”が「中国」という国名を冠したことは5千年の歴史の中でも一度もない。
それもそのはずで、中国の歴史には王朝があるだけで、国はない。国は王朝の下位の概念であり、国がなければ国名はないのだ。台湾の思想家である牟宗三(ぼうそうさん)は「中国とは一つの国家的単位ではなく、文化的単位であり、天下の観念はあったが、国家の観念はなかった」と述べている。
「中国」という言葉の出典で最も古いものは『詩経』(紀元前11~4世紀)で、「大雅」に「この中国をめぐみ、四方をやすんぜよ」という詩があり、考古物では1963年に出土した西周時代の青銅器に「中国」という言葉が確認されている。
付け加えるならば、中国とは「中心の国」といった純粋な地理的概念ではなく、また、「中央に君臨する国」といった中華思想を表す自慢の言い方でもない。“中国”の周囲に住む人が殷の支配する地域を「中」と見なしていたのである。なんにせよ「中国」とは過去においても現代においても具体的な国名ではなかったのである。

古代
※一般的には先史時代から~アヘン戦争までが古代中国とされるのですが、それだといくらなんでも長すぎるので(まじで4000年の歴史に)、日本の内藤湖南氏の学説に基づいて古代→中世→近世→近代→現代と、小分けにします。王瑞来先生のテキストではこういった日本史的な時代区分は設けられていません。

治水英雄伝説
司馬遷の『史記』によれば、中国の最古の王朝である夏(BC2000~1600?)は、黄河中流の治水に成功した禹王(うおう)によるものだという。
この王朝は長らく伝説だとされていたが、その存在を証明する発掘が相次ぎ、先史時代の中国に大規模な強制労働を実行させた国家権力が本当にあったということが分かっている。

禅譲
禅譲とは天子(天の命によって天下を治める君主)が、その地位を自分の血縁者ではない有徳な人物に譲ること。
古代中国の神話伝説では堯(ぎょう)が舜(しゅん)に、舜は禹王に禅譲を行なったと伝わっており、徳治政治を理想とする儒家思想が古代にもあったように思えるが、実際には譲られる側が天子に強制して禅譲を行わせていたことが多かった。

殷代青銅器の動物模様
青銅礼器のほとんどは動物の紋様で装飾されている。その多くは、頭があり体がない怪獣の饕餮(とうてつ)や、頭が一つで体が二つあるヘビの肥遺(ひい)、一本足の龍夔(き)、角を持つ龍の虬(きゅう)などの神話の動物がモチーフにされた。
礼器は、王室や貴族の権利と正統性を証明するレガリアであるとともに、人間の世界と、祖先や鬼神の世界を繋ぐアイテムだった。殷代では動物の骨で占いをしていたので、このような動物模様のついた青銅器も、人間と祖先・鬼神を結びつける役割があったと考えられる。

西周が中国文化の源とされる理由
中国史における政治、経済の改革は、そのほとんどが周代(BC1100~771)に起源を持つという。その理由は、西周が文献上における政治経済の諸制度が完備された初めての王朝だとされるからである。
西周の政治家の周公は、数いる聖人の中で、唯一系統的な法令制度(封建制度など)を作り、後世の王朝に政治的な規範を残した。中国の古代思想の源流もこの時代にあるとされ、儒家の始祖である孔子も周の政治を理想とした。

封建制の成立
中国史における封建制度の確立は紀元前1046年頃に起こった西周に見られる。周は西方から殷を滅ぼし、中国の広大な土地と多様な民族を統一支配したが、この全てを周の王一人が直接支配することは不可能であった。
最初の王である武王が死ぬと、幼い成王が即位。
こうして成王の叔父の周公が王を補佐する摂政期が始まると、周公は殷の残存勢力の反乱を防止するために、西周時代の首都「宗周」の東に「成周」を建て、反乱をしたことのある殷の民をそこにまとめて移して集中的にコントロールした。
また、殷の貴族で、周に親しい微子に殷の旧都である宗を封じ、武王の弟や自分の長男にも土地を与えて、殷の民族を分割統治させた。また、王や諸侯は、自分の家臣(卿・大夫・士)に対してもという領土を与え統治させた。
このような周の封建制は、あくまで宗族といった血縁関係に基礎を置き、ヨーロッパのような土地を媒介とした個人間の契約主従関係ではなかった。
また、祭政一致の神権政治ではなく、血縁関係によって広大な領土を支配した周の封建制度は、かつての王朝の殷と異なる政治体制であったと言えるが、宗法という先祖崇拝を重視した点などは、神権政治同様、宗教的な信仰が強かった古代ならではの手法であったと言える。
さて、諸侯は周王に軍役を誓い、貢ぎ物を捧げれば、封じられた土地の資源と収益を得て、自由に領地を支配することができた。このように地方分権的であった周の封建制度は、広大な領地に対する国家運営と防衛において大きな利点があったが、血縁関係を基準にした支配体制は、法律などの利害関係ではなく、血縁者間の信頼関係によって担保されていたので、その絆は当事者の意識の薄れによってたやすく破棄される危険性があった。
そこで周公は社会秩序を安定させるため、「制礼作楽」によって、上下関係を重んじた礼儀(礼)と、社会で共同することの大切さ(楽)を人々に強調する必要があった。これは、為政者自身が徳政を行い、天命を保つことにもつながった。

西周の崩壊
このような努力にもかかわらず、結局周の封建制度は崩壊の道をたどってしまう。地方の力は次第に強くなり、穆王(ぼくおう)の55年に及ぶ支配が終わると、王はめまぐるしく変わるようになり、周王朝は没落、各諸侯が覇権を争うようになってしまった。
王は反乱を抑えるため、自分をそしる人間はすぐに殺すなど、対策にあたったが、民の暴動で王が亡命するなど、社会は混乱した。
西周最後の王、幽王は妻とその子どもを廃し、寵愛する愛人褒姒(ほうじ。絶世の美女だったらしい)を后に立て、彼女の子に王位を継がせようとしたが、この時捨てられた太子の宜臼(ぎきゅう)に幽王は殺されてしまう。
こうして西周の歴史に終止符が打たれた。血縁関係によって統治された西周は、皮肉にもその血縁関係のトラブル(あと愛人)によって滅んだのである。
周王朝は、日本の封建制度における御家人などと違って、諸侯が支配する規模が都市国家並みに大きく、主君を裏切って独立がしやすかったことが、その崩壊の原因に考えられる。
また日本の封建制度は双務的契約を前提にしていたことから、幕府の恩賞が足りないという理由で御家人の不満が爆発して崩壊した。この点も日本と中国では事情が異なると言えるだろう。

秦が中国を統一できた要因
実践的な法家思想を取り入れたことが挙げられる。
法律が作られれば国内秩序が安定し、国家君主の力も強大なものになる。さらに全国を郡や県に分けて、そこに皇帝が任命した官吏を派遣する郡県制は、秦の中央集権化を促進し、中国の統一を成し遂げた。
また、秦は他国からの移民を受け入れ、個人の土地所有と、その売買を認め、農業を奨励している。
しかしこのような専制的な中央集権化は秦に滅ぼされた国の不満を買い、始皇帝が亡くなると各地で反乱が相次ぎ15年で秦は滅亡した。

シルクロードの開通
もともとシルクロードの開通には、匈奴(モンゴルの遊牧民)に悩む漢王朝の軍事的な目的があった。漢の武帝は匈奴を挟み撃ちにするために、トルキスタンの遊牧国家である大月氏と同盟を結ぶことを決める。そのため万里の長城の外の西域にある大月氏に使いを送った。
結局、距離が遠かったことから大月氏との同盟は実現しなかったが、この派遣によって西域の知識や情報が漢にもたらされ、喜んだ武帝は西域の開拓に乗り出した。このような経緯で作られたのがシルクロードである。
その後、シルクロードは中央アジア、西アジア、地中海まで伸びて、世界を繋ぐ交易路となった。
漢は、絹(シルク)、鉄器、製鉄や井戸掘りの技術を輸出、西域からは、ブドウ、ゴマ、ウマ、ラクダ、ガラスなどが輸入された。中国の製紙術、印刷術、火薬、仏教、キリスト教、イスラム教もこのシルクロードを経て伝わっている。

後漢政治の特徴
幼い皇帝を担ぐことによってその母親の皇太后が力を持ち、日本の平安時代のような外戚政治も見られた。
末期には、宦官(かんがん)が外戚を廃することに成功するが、彼らもまた幼帝を傀儡にして朝政を支配した。宦官とは外戚勢力を取り除くために去勢された王の家臣で、彼らが増えたのは皇太后が力を持ったのが原因であるが、その権力を増大させたのは初代の光武帝(劉秀)、彼らを積極的に登用したのは4代目の和帝であるとされる。
いずれにせよ根本的な原因は、光武帝の子孫がみんな短命で、幼くして死んでしまったことであろう。

三国志物語の歴史観
三国志と一口に言っても、「正史」と呼ばれる3世紀に陳寿によって書かれた歴史書『三国志』と、これを元に羅貫中によって書かれた14世紀の小説『三国志演義』は別物で、後者はあくまでも大衆をターゲットにした娯楽小説であり、そこで描かれる出来事(赤壁の戦いの描写など)や登場人物のキャラクターには大きな誇張がされている。中国の京劇における曹操は白い顔の奸雄、対する関羽は赤い顔の忠臣といった勧善懲悪のイメージがそれである。
このような作品が作られた背景には、当時の中国(明)が北方民族によって攻められていたことから、三国時代に北を治めていた魏を悪、南の蜀を善にすることで、国民の士気を高める意図があったのではないか、とも考えられるが、実際の制作意図はよくわからない。
とはいえ、仮に蜀に過剰に肩入れしたフィクションでも、三国志の時代に興味を持つきっかけとしては有効であるし、14世紀に生きていた作者の歴史観も伺えることから、それを文化史の観点からメタ的に研究することもできるだろう。
例えば、作中描かれる大義名分の重要性や、正統王朝である蜀(漢)と簒奪王朝である魏は相反する要素であり決して両立しないという考え方「漢賊は両立せず」は、現代の中国にも(一つの中国問題など)大きな影響を与えていると言える。
さて、三国志には魏呉蜀という三つの国が覇権を争い、魅力的なキャラクターがたくさん登場するが、ここではメインキャラクターを取り上げる。

劉備
まず主人公である、蜀の建国者、劉備。巧みな策を練り自軍を勝利に導く切れ者、正義の英雄として描かれるが、実際の劉備は戦が下手で、裏切りを繰り返す冷徹な人物だったらしい。
彼の生まれた家は良い家柄ではなく、それを象徴するように作中では自分が編んだ草履を家族と売り歩くシーンがある。豊臣秀吉を彷彿とさせる劉備の立身出世ぶりは多くの読者の心を掴んだに違いない。

曹操
次に魏の奸雄、曹操。作中では、曹操が漢の皇帝にとって代わり、その強大な力とヒールぶりを読者に印象づけるが、これは事実とは異なる。曹操にそのような野心がなかったとまでは言えないが、実際の曹操は権謀に優れた人物で、軍事的、政治的配慮によってこれを実行には移さなかった。
また、曹操は後漢からの慣習であった家柄を重視する官吏登用ではなく、あくまでもその人物の能力のみに基づいた合理的な人事を行なったり、孫子の兵法の注釈書を執筆したりもしている、従来の枠には収まらない多才な人物であった。

諸葛孔明
3人目は、三国志きっての切れ者キャラと知られる諸葛亮孔明。自身のイメージ戦略に優れ、劉備の信頼を勝ち取った彼は、劉備亡き後の蜀漢を率いて領土拡大を図った。作中では天才軍師と描かれるが、彼の得意とする分野は軍事ではなく内政だったらしい。
公正かつ公平な法の執行を試み民を治めるずば抜けた才能があった孔明は、その公明正大さがコンゲームが繰り広げられる戦場では逆にネックになり、大きな成果を上げられなかったのかもしれない。

孫権
最後に呉を率いる孫権である。赤壁の戦いは彼が画策し、小が大に制した三国志演義の大きな見せ場になっているが、孫権は他の王と異なり自国を拡大する野望が無かった。しかし彼が三国時代の君主の中でもっとも長生きしたことは興味深い。

三国時代の三大戦役
順にまとめる。
官渡(かんと)の戦いは、後漢の実権を握った曹操が、黄河北岸の一大勢力の袁紹(えんしょう)と戦った戦役。袁紹の戦力は曹操の十倍で、曹操は兵糧切れギリギリまで追い詰められるが、袁紹陣営の許攸(きょきゅう)の裏切りによって、相手の兵糧を襲撃することに成功、逆に袁紹軍を兵糧切れに追い込み、大逆転勝利を果たした。これにより曹操は華北地帯の実権を握った。
赤壁の戦いは、映画化もされた最も有名な戦いで、曹操と孫権・劉備連合軍が長江をはさんで戦った戦役。曹操は連合軍の火攻めによって水軍を失った。
夷陵(いりょう)の戦いは、赤壁の戦いで曹操を退けた孫権(呉)と劉備(蜀)が衝突した戦いで、三国の鼎立(ていりつ)を確立させた。この戦いで敗れた劉備は程なくして亡くなり、その実権は諸葛孔明に委ねられることになった。
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