古代日本史覚え書き

 あまり文量がなかったので、日本史をまとめる時に割愛しちゃった部分。ここら辺の時代はチャイナの文献で間接的にしかわからないところが多いよね。

旧石器時代の概要(~紀元前1万年)
更新世の地球は氷河時代だったため、海面水位は今よりも低く日本列島はユーラシア大陸と陸続きだった。そのため北(サハリンルート)からマンモスやヘラジカ、南(朝鮮ルート)からナウマンゾウやオオツノジカ、ニホンサイが日本に渡り、このような大型の動物を追って3万年ほど前に日本にやって来たのが私たちのご先祖である。彼らは、尖頭器や細石器(小型のタイプ)といった打製石器によって大型の動物をハンティングしていた。
かつては日本には旧石器時代(打製石器の時代)は存在しないと考えられていたが、群馬県岩宿遺跡の発掘によりやっぱりあったことがわかっている。

縄文時代の概要(紀元前1万年~)
完新世に入り氷河時代が終わると日本列島は大陸と分断され大型の動物は絶滅、人々はニホンシカやイノシシといった小回りのきく中型動物を捕らえるようになった。
また氷河が溶けたことによる海面の上昇で入江が増えたため、漁も行われるようになった。この時代の貝塚は、当時の人々が貝を食べていたことを示している。
さらに縄文時代では4~6世帯30人ほどの集落を作って日当たりの良い台地に定住するようになり、掘りごたつのようなタイプの竪穴式住居が建設された。集落間で交易も行っていたらしい。
縄文時代の三大発明は、磨製石器、弓矢、土器である。
また、自然物や自然現象の全てに霊威が宿るというアニミズムを信仰していた。芸術では妊娠した女性のような土偶や、ちんこ的な石棒が発掘されている。ちなみに、のび太の日本誕生に出てくるようなタイプは遮光器土偶という。

弥生時代の概要(紀元前4世紀~紀元後3世紀)
紀元前6000年あたりに中国で始まった農耕(稲作)は縄文時代の終わりごろに九州北部に伝わった。やがて北海道と南西諸島以外のすべての場所で行われるようになり、収穫物は高床倉庫や貯蔵穴に保存された。
弥生時代の特徴は、水稲技術、金属器(青銅器や鉄器、銅鐸など)、磨製石器、弥生土器で、弥生時代という名称は東京都の本郷弥生町で土器が発掘されたことにちなむ。
住居は竪穴式住居の他、平地式住居も作られるようになった。
また余剰生産物をめぐる集落間の争いが勃発、周囲を濠で囲んだ環濠集落(佐賀県吉野ケ里遺跡)や、山頂に作った高地性集落(香川県紫雲出山=しうでやま遺跡)といった、排他的な集落も誕生した。
集落の付近には共同墓地もあった。死者は木製や石製の柩に体を伸ばした状態で入れられた。墓のグレードは弥生時代後期になるとかなり大規模な墳丘墓となり、人々に身分の差があったことを物語っている。
紀元前1世紀の『漢書』地理史によると、当時の日本(倭)の社会は豪族をトップに100あまりの国に分かれていたという。『後漢書』東夷伝には、起源57年、倭の奴国(福岡県)の王の使者が、後漢の首都(洛陽)を訪問、光武帝から金印を授かったという記述がある。

邪馬台国の概要(3世紀)
後漢は220年に滅び、中国は三国志の時代になる。『魏志』倭人伝によると、2世紀の終わりごろに起きた大規模な諸国間の騒乱を邪馬台国の卑弥呼がおさめ、30国あまりの小国連合ができたという。邪馬台国は身分社会で、租税や刑罰の制度もあった。
卑弥呼は魏の皇帝から親魏倭王の称号や、銅鏡、金印紫綬(金色のスタンプと紫色の紐のセット。色でランク分けされている)などを贈られている。
そんなカリスマ呪い師の卑弥呼が247年に亡くなると、男性の王が跡を継いだが国内はおさまらず、卑弥呼の同族の女性(壱与)が新たな王になると国内は再び収まった。壱与はまだ16だから。
邪馬台国の所在地は、近畿説と九州説がある。もし近畿にあったとすると九州から近畿までの広域な連合体制が存在したことになり、後のヤマト政権の前身だということになる。

古墳時代の概要(3世紀後半~7世紀)
西日本を中心に古墳が次々と作られた時代。
初期の古墳には埋葬施設の形式や銅鏡といった副葬品など共通点があり、広域な連合政権があったことがわかる。この連合政権は、最大規模の古墳(箸墓古墳)があった近畿地方大和(奈良県)からヤマト政権と呼ばれている(カタカナなのは大和という表記が見られるのが8世紀以降であるため)。
ヤマト政権がまだ緩やかな政治連合体制だった古墳時代初期の古墳は、そのほとんどが円墳や方墳で(しかし巨大なものはいずれも前方後円墳)、その上には埴輪が並べられた。
また、285年には中国から漢字が伝わっている。
4世紀末になると、ヤマト政権は高句麗との戦いを有利にするため宋(※南朝の方)に朝貢をはじめ、大王(のちの天皇)をトップとして地方豪族を服属させていたことが、『宋書』倭国伝でわかっている。
古墳時代中期(5世紀)の古墳でとりわけ有名なのが、大阪府にある日本最大の古墳大仙陵古墳である。
6世紀初期になるとヤマト政権の政治体制はさらに強力になり、大王は各地の豪族を氏という組織に取り込み、ヤマト政権の職務を分担で行わせた(氏姓制度)。
538年には百済から仏教が伝わっている。
6世紀~7世紀初めの古墳時代後期になると、大王の支配体制は確立し、その権力を誇示する必要がなくなったために巨大な古墳が作られることは少なくなった。
この時代には、人物や動物を形をした形象埴輪が作られ、石室(埋葬施設のこと)の形も朝鮮半島のタイプ(横穴式石室)が一般化した。また墓室に壁画が書かれた装飾古墳も現れた。
古墳時代の土器は、弥生土器に似た赤褐色の土師器(はじき)や、灰色で硬い須恵器(すえき)が作られた。
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