異文化理解覚え書き③

 今回は主に18世紀。つーか、英語の本でスペイン継承戦争を読むと、チャールズもカルロスもカールもみんな表記がCharlesなので、どの勢力のCharlesなのかがごっちゃになって、要読解力(´;ω;`)
 本国の人は同じスペルでどうやって区別しているのだろうか・・・「チャールズのいとこのチャールズが」とかいきなり出てきて、分裂した!!??って初見では狼狽したものよ。
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参考文献:Antonia Cunningham, Essential British History : key dates, facts & people summarized

18th century wars(18世紀の戦争)
18世紀になると、英国は欧州と植民地の戦争に関与し、そのパワーバランスと貿易利益を維持しようとした。英国の主なライバルはフランスとスペインだった。

The War of the Spanish Succession 1702-13(スペイン継承戦争)
スペイン継承戦争は、スペイン王のカルロス二世の後継者を誰にするのかの戦いである。
スペイン・ハプスブルグ家のカルロス二世は、生まれながら病弱で、フランスとスペインの統合はしないという約束の元、フランスのルイ14世の孫であるフィリップを継承者に指名して1701年に子どもを残さず亡くなった。
オーストリアと英国は、フランス(ブルボン王朝)の王位継承権も持つフィリップがフランスとスペインを結びつける強力なルールを作ることを恐れ、オーストリアのヨーゼフ一世の兄弟であるカール大公を支援した。
こうして1702年に、イタリア、オランダ、ドイツ、スペインで戦闘が始まった。
マールバラの初代公爵のジョン・チャーチル(※ウィストンの祖先)率いる英国は、ブレンハイムの戦い(1704年)、ラミリーの戦い(1706年)、アウデナールデの戦い(1708年)、マルプラケの戦い(1709年)で勝利した。
1711年にヨーゼフ一世が子どもを残さずに予期せぬ死を遂げ、彼の兄弟のカール大公がそのあとを継ぐと、英国はカールの支持を撤回し、スペインとオーストリアが結びつくのを妨げた。
翌年、英国はフィリップがフランスに対して全ての権利を放棄したという条件付きでフィリップを支持した。
こうして1713年各国はユトレヒト条約を結び、継承戦争は終わった。フィリップはスペイン王フェリペ五世として即位し、スペインの植民地を奪還した。
この戦争最大の受益者と言えるイングランドは、地中海のミノルカ島、スペイン南部のジブラルタル、アメリカの領土(北米大陸北部のハドソン湾~ノバスコシア半島エリア)と奴隷貿易のシェアを獲得した。
オーストリアはスペイン領ネーデルランドを割譲された。

The War of the Austrian Succession 1740-48(オーストリア継承戦争)
オーストリア皇帝カール六世が息子を残さずに亡くなると、王位は娘のマリア・テレジアに引き継がれることになったが、かつて彼女の支持者だったバイエルン選帝侯カール・アルブレヒト(カール七世。奥さんがマリアテレジアのいとこ)が王位を要求、女性がオーストリアを支配するべきではないと主張した。彼のバックには、プロシア帝国のフレドリックとフランスのルイ十五世がついていた。
こうしてオーストリア継承戦争が1740年に勃発し、オーストリア領で最も豊かな地方であるシュレジエン(現在のチェコとポーランドあたり)にプロイセンが侵攻して戦闘が起きた(そのためシュレジエン戦争とも呼ばれる)。
それと同時にオーストリアはスペインの管理下である北イタリアとも戦った。
英国におけるフランスとスペインの関係は16世紀以来植民地や貿易におけるライバル関係だった。1739年には海上覇権を争って英国とスペインの戦争が起こった(ジェンキンスの耳戦争)。
1741年、フランスに抵抗するイギリスは権力のバランスを維持するためにオーストリア連合戦争に参戦し、オーストリアと同盟を結んだ。
翌年にはイギリス軍を含む軍勢がマリア・テレジアのもとに組織され、フランスとスペインとの戦いに成功した。
戦場で戦った最後のイギリス君主であるジョージ二世の陸軍はバイエルンのゲッティンゲンで大きな勝利をおさめた。
戦争は1748年のエクス・ラ・シャペル(アーヘン)条約で終わった。シュレジエンを除くすべての領土は元の所有者に戻り、英国はヨーロッパでのフランスの拡大を防ぐことができた。

The Seven Year's War 1756-63(七年戦争)
七年戦争は実際にはひとつの戦争ではなく、二つの戦争であり、ひとつはインドと北アメリカの支配をめぐるフランスと英国の戦争、もうひとつはプロイセンとオーストリアのヨーロッパ大陸における戦争であった。
プロイセンのフリードリヒ二世がオーストリア領に侵攻し、それをオーストリアの援軍に来たフランスが徹底抗戦、プロイセンはその後ボヘミアに侵攻したが、1757年に退去した。
当初は英国とプロイセンが多くの敗北を喫したが、彼らは1759年から勝利を続けることになる。
英国はドイツのミンデンや、フランス支配下のカナダでフランスを倒した(フレンチ=インディアン戦争におけるケベックの戦い)。
彼らはまた西アフリカのキブロン湾でフランス人を打ち負かし、西インド諸島を支配した(カルナティック戦争)。
スペインは1762年にフランスを支援するために参戦したが、その年後半にはイギリスとプロイセンが戦争に勝利した。
1763年のパリ条約によって英国はフランス領のカナダ、ミシシッピ川流域、ほとんどの西インド諸島を獲得した。
こうしてイギリスはヨーロッパにおいて支配的な国家となったが、フランスはなおも独自の貿易の拠点を保持していた。
1763年、プロイセン、オーストリア、ザクセンはフベルトゥスブルク条約に署名し、すべてのヨーロッパの領土は戦前の所有者に戻った。オーストリアの悲願、プロシアからのシュレジエン奪還は叶わなかった。

The American War of Independence 1775-88(アメリカ独立戦争)
17世紀の間にイングランドは北米の東海岸に13の植民地を設立したが、植民者(コロニスト)は英国本国の支配に憤慨し、アメリカの独立戦争につながった。
コロニストは軍事的保護のために英国とだけ取引をしたが、7年戦争の後、英国政府は北米の軍隊への支払いに充てるために英国領土に税金を課そうとした。
コロニストは英国議会に自分たちの代表を送っていないことから、英国政府は自分たちに課税する権利はないと主張(代表無くして課税無し)、英国との貿易をボイコットした。
こうして本国軍とコロニストの関係は悪化し、ボストン虐殺事件(反英運動を弾圧する英国軍によって5人のボストン市民が殺された)や、ボストン茶会事件(茶の販売を独占する東インド会社の船がボストン市民に襲撃され、ジョージ三世のお茶会※皮肉――が開かれた)が発生した。
そして、とうとうレキシントンとコンコードで武力衝突が起き、1775年に戦争が始まった。
コロニストたちはジョージ・ワシントン将軍に率いられ、最終的に1781年に英国を打ち負かした。その後1783年、英国はアメリカの独立を認めた。

The later 18th century(18世紀後半)
ジョージ三世(1760~1820年)は政策立案において、より積極的な方針を作り出そうとした。これによりジョージ三世は、閣僚やホイッグ党とのあいだで多くの衝突を引き起こすことになる。
フランスとの貿易再開を望む彼は7年戦争を終わせようとしたが、戦争の実質指導者ウィリアム・ピット(※パパの方)と彼の支持者はこれに反対した。
しかし、1763年、“キングス・フレンズ”として知られる寵臣グループは、下院にワイロを送って戦争離脱の同意にこぎつけた。だが、講和条約を結んだ首相のビュート伯爵は支持を失い辞任した。
次の20年間はアメリカ植民地における問題で埋まった。暫定首相はアメリカの植民地政策を放棄した。

Pitt the Younger and free trade(小ピットと自由貿易)
1783年、ウィリアム・ピット(子)は24歳でイギリスの首相に選ばれた。彼は議会の組織形態を改善し、貿易収入を増やしイギリスを豊かにすることを目指した。
ピットは経済学者アダム=スミスが提案したアイディアである輸入関税の廃止&自由貿易導入を最終的に望んでいた。
アダム=スミスはこれによりモノの価格が下がり、貿易はより促進され、多くの富が創出されると主張した。
ピットはこのような自由貿易は、高度に工業化された国が貿易相手国よりも多く輸出する可能性があるため、イギリスに有利であると考えていた(貿易黒字になると思った)。
こうして1786年にフランスとの貿易条約に調印し、輸入関税を引き下げた。
彼はまた歳入制度を再編し、政府関係者の汚職の機会を減らした。
さらに、窓や、馬車、時計、ヘアパウダー、使用人といった贅沢品に課税をするとともに、国家の利息を減らし、フランス革命後は、フランスとの戦争遂行のためにイギリス史上初の所得税を課した。

Parliamentary reform(議会改革)
ピットが首相に就任したとき、1ダースの閑職(無責任な雇用)が廃止された。
彼はこの改革を続け、1785年には36の腐敗した選挙区を廃止する法案を提出し、選出される下院議員(MP)を公平に配分しようとした。
しかし、下院(庶民院)はこれを否決した。

John Wilkes and Liberty(ジョン・ウィルクスと自由)
1763年の平和条約は、急進的な下院議員でありジャーナリストのジョン・ウィルクスが創刊した週刊政治評論誌『ノース・ブリトン』によって批判された。
政府は彼を逮捕したが、法廷での彼は自由だった。議会は彼を法律の外に置くと、彼はフランスに逃亡した。
1768年に戻ってきた彼は「ウィルクスと自由!」のスローガンでミドルセックスの選挙に勝利した。しかし議会はウィルクスに議席を与えることを拒否し、これが暴動につながった。
1774年ロンドン市長になったウィルクスはとうとうミドルセックスの下院の議席も獲得することができた。
彼の発言は、言論の自由、報道の自由、そして自分の代議士を選ぶ権利についての問題提起をしたため、重要だった。

Pitt and the French Revolution(ピットとフランス革命)
イギリスは、1789年のフランス革命後、その影響(トラディショナルな君主がギロチンで処刑など)が本国にも及ぶことを恐れた。
1792年、フランス政府は世界的な市民革命を呼びかけた。小ピットはこれを阻止するために、思想の規制に乗り出した。
人身保護法の一時中断、英国に入国する外国人を監視する外国人法(1794年)、国王や議会に対して暴動を扇動する可能性のある50人以上の集会を禁止する扇動禁止法(1795年)などが施行された。
1799年から1800年にかけては労働組合も違法となった。

The British in India(英国領インド)
イギリスは16世紀にインドで取引を始めた。それは18世紀に増加した。
インドにおけるムガル帝国の衰退は、英国がそこから独立した地方の支配者と直接軍事的交渉や条約を結ぶことを容易くした。
イギリスはインドにおいて東インド会社に代表された。1763年にロバート・クライヴが率いる軍隊はフランスのライバル会社に壊滅的なダメージを与えた。
1757年のプラッシーの戦いでベンガルの支配者を敗北させたあと、会社は効率的にインド西海岸を支配した。その影響は大きく、1773年に政府は知事にウォーレン・ヘイスティングを選出し、その作業を統制させた。
1784年のインド法は、インドにおける取引の業務と統治の業務を分けるものだった。

Canada and Australia(カナダとオーストラリア)
1763年、カナダがイギリスのものとなった。これは既存のフランス入植者との摩擦につながった。その対策としてピットはカナダ法(1791年)を制定、カナダを二つの州(経済的自由を望むイギリス人のアッパーカナダと、封建的慣習を望む先住フランス人のロウワーカナダ)に分割することによって摩擦の沈静化を図った。
両州は知事と立法評議会によって統治されたが、フランス人もイギリス人もこれに憤慨をした。
オーストラリアとニュージーランドは17世紀にオランダが初めて発見した。しかし1768年から1779年までジェームズ・クックが海岸を探検し、イギリスが併合した。
オーストラリアは当初は囚人の植民地として始まった。最初の囚人は1788年に上陸した。しかしその後、自由入植者が続いて上陸し、1830年には囚人の数を上回った。

Ireland(アイルランド)
1790年、ウルフ・トーンと呼ばれるアイルランドのプロテスタントがアイルランドの独立と、カトリック教徒とプロテスタントの平等な権利を求めて運動し、統一アイルランド人連盟を設立した。
これによりいくつかの反カトリック法は1793年に廃止された。
1796年、アイルランドはフランス政府に英国に対する軍事的支援を求めた。フランスは1796年にアイルランドに艦隊を送ったが悪天候のため接岸が中止された。
1798年、ふたつのフランス軍がアイルランドに上陸したが、彼らは敗北し降伏した。ウルフ・トーンは捕らえられ、死刑判決を受けた。
その後、ヴィネガーヒル(アイルランド南東部の丘)において二度目の反乱が勃発したが、これも政府軍が鎮圧した。このときの両者の虐殺は凄まじいものだったらしい。
アイリッシュの独立を認めれば、英国攻撃の拠点として利用されると懸念したピットは、仲間と賄賂を提供することによってアイルランド議会を抱き込もうとした。
連合法(1801年)によってアイルランドは英国の一部となった。100人のアイルランド議員が下院に選出され、32人のアイルランド人の同胞が領主になった。
英国国教会はアイルランドの公式の教会になったが、ほとんどのアイルランド人はこれに反対した。
アイルランド人の88%がカトリック教徒だったが、カトリック教徒は議席を与えられなかった。首相のピットはカトリックにも政治的自由を与えようとしたが、ジョージ三世は拒否し、ピットは辞任した。
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