異文化理解覚え書き④

 イギリスの歴史、おそらくラストの今回は、産業革命以降の19世紀。つーか、このゴールデンウィーク中に英語のレポートは全て片付けたいものである。
 そうなれば、夏休みにコンピュータ演習のスクーリング&教員免許更新講習&英語のテスト勉強・・・とわりかし有効にスケジュールが組めるしね。
 ちなみに免許更新講習の授業は、メダカの遺伝と、基礎物理学と、日中関係史にしました。これらの知識が現場でどう活きるかさっぱりわからないけど、教養っていうのは役に立つとか立たないとか、そういうもんじゃねえんだ。

 自分が楽しければいいんだ。

参考文献:Antonia Cunningham, Essential British History : key dates, facts & people summarized

19th century home affairs(19世紀の内政)
19世紀という時代はイギリスにとって経済と政治において大変革があった時代であった。国内は産業革命によって工業化され、海外貿易は増加していた。
世紀半ばまでには、イギリスはワークショップ・オブ・ザ・ワールド(世界の工場)として知られ、海外では巨大な帝国を築いた。
国内では労働者階級がより良い生活水準と権利を求めて議会選挙に投票したり立候補したりした。アイルランドでは特に問題が増加していた。

Political groups(政治団体)
19世紀の初めには3つの政治団体があった。ホイッグ党、トーリー党(現在の保守党)、そして急進党である。
1858年まで、すべての議員は財産所有者でなければならなかった(1911年以前は議員は無給だった)。その結果、議会は上流階級(アッパークラス)が支配した。労働者階級は投票できず、限られた政治力しか持たなかった。
ほとんどのトーリー党員、支持者は議会制を現状維持することを望んでおり、ホイッグ党員、支持者も穏やかな変化しか支持していなかった。
しかし世紀の後半に、2つの新しい政党が登場した。それがホイッグ党と急進党が合流してできた自由党と、労働組合によって結成された独立労働党である。

Social unrest(社会不安)
19世紀初期ヨーロッパとアメリカの貿易が決裂し戦争が起きた。
布貿易における機械導入の増加は労働者の失業をもたらし、賃金は低く抑えられた。その結果、暴動と市民のデモが起こった。
暴徒の要求はネッド・ラッドという男によって率いられ、ラッダイトとして知られる運動が始まった。彼らは機械を破壊したため、トーリー党政府は政治的集会や宣伝に反対する法律を通過させた。

The Corn Laws(穀物条例)
1815年の穀物条例によって治安が悪化した。イギリスの農民を助けるためにイギリスの穀物が特定の価格に達するまで、政府は穀物の輸入を禁止したのである。
したがってトウモロコシやパンといった、ほとんどの人々の主食の価格は高いままだった。
穀物条例アンチの集団は急進党下院議員のリチャード・コブデンによって率いられ、穀物条例の廃止に向けて運動をした。
これを受けてロバート・ピール率いるトーリー党は1846年に穀物条例を廃止した。

The Liberal Party(自由党)
穀物法の廃止は、トーリー党(1834年以降は保守党と呼ばれることも多い)に分裂をもたらした。その大多数はベンジャミン・ディズレーリとダービー卿に続いた。
ピール派として知られる残りの議員は、ホイッグ党や急進党と合流し1859年に自由党を結成した。
自由党は1868年から1894年までウィリアム・グラッドストンによって率いられた。

Low and order reforms(法と秩序の改革)
19世紀の早い段階で失業率が増加し、120以上の犯罪が死刑により処罰されたが、これは抑止力として機能しなかった。
組織警察は無力で、犯罪者は滅多に逮捕できなかった。
1823年にロバート・ピール内務大臣は100以上の犯罪について死刑を廃止した。彼は刑務所の混雑した不健康な状態を改善する改革を導入し、1829年にはメトロポリタン警察を設立した。

The first reform bill(初の改正法案)
選挙制度改革の需要が増加したことを受けて、改革法案が1832年にホイッグ党によって可決された。しかしそれは財産による制限選挙だったため、中産階級に対してのみ投票権は拡張されるに過ぎなかった。
その結果、さらなる選挙制度改革のために、より多くの圧力団体がキャンペーンをおこなった。
チャーター派と呼ばれる団体(議会にチャーターと呼ばれる嘆願書を出したことにちなむ)は、すべての人が議会選挙に投票し、立候補する権利を求めて運動をおこなった。

Trade unions(労働組合)
最初の労働組合は地方で組織され、雇用主との間で生活や労働条件を交渉するためのものだった。組合は暴力を奨励したため、議会は1799年~1800年にそれらを違法とした。
しかし労働組合は、急進党議員によるキャンペーンの後、1824年に合法化となった。
最初の全国組合である全国労働組合大連合(GNCTU)は、1833年に急進党議員と向上所有者のロバート・オーウェンによって設立された。
オーウェンは強力な全国労働組合が、より多くの社会改正法と工場改革法を通過するように政府に圧力をかけることができると期待した。
労働組合はしばしば野党や雇用主と会談し、雇用主はしばしば従業員の解雇をほのめかし圧力をかけた。
1834年にドーセットのトルパドルから6人の男性が地元支部をつくろうとしてオーストラリアに追放された。彼らは殉教者として知られるようになった。
GNCTUは崩壊したが、労働者たちはチャーティスト運動のような他の政治運動に移っていった。

Unions and the TUC(組合と労働組合会議)
※TUC=トレード・ユニオン・コングレス。
1850年代、個人手工業熟練労働者の小さな組合が設立された。これらはモデル・ユニオンと呼ばれていた。
各地域の連合役員が問題を話し合うために会合を開き、1868年に労働組合会議を結成した。TUCは主要政治家に影響を与える手段として活動した。
1869年、政府の報告によると、強力な労働組合は労働者の暴力を減らすように考えられた。そのため、政府は反労働組合法を緩和した。
非熟練労働者の組合は1880年代に結成された。

Electoral reform and the Labour Party(選挙制度改革と労働党)
1867年、町の全ての男性の家主が議会に投票し立候補する資格を得た。これにより100万人以上の有権者が選出された。
1884年にこれは全ての家主の男性に拡大され、1918年には21歳以上の全ての男性に拡大された。
1874年、トーマス・バートとアレクサンダー・マクドナルドは最初の労働者階級の議員となった。
1893年、独立労働党は下院議員で鉱夫のリーダーであるケア・ハーディによって設立された。
1900年に労働代表委員会が設立、それは1906年に労働党に改名された。

Factory reform(工場改革)
19世紀初頭から、改革派は工場や鉱山での貧しい賃金、長時間と不健全な状態を改善し、幼い児童の雇用を禁止するように働きかけた。世紀の終わりには、11歳という年齢制限が設定された。
労働条件を規制するための規則が定められ、工場は査察の対象となった。

Education(教育)
1833年以前、教育は国家ではなく、豊かな個人や教会が資金を調達していたが、しばしば手数料も課されていた。その結果、貧しい子どもたちはほとんど学校には通っていなかった。
しかし1833年から政府は一部の学校に助成金を与えた。
1870年には公的資金によって、貧しい子どもたちのための最初の寄宿学校(ボード・スクール)が設立された。
1881年には11歳までの教育が義務化され、1891年には自由化された。
1902年には、グラマー・スクールと呼ばれる中等学校が資金が付与されることで導入された。

Public health(公衆衛生
ヘルスケアも徐々に改善された。1700年から1825年のあいだに、150以上の病院が設立された。これは主にリッチな後援者(ベネファクター)によって資金提供がされた。
最初の病院は非衛生的で、患者はしばしば手術後に感染やショックで亡くなった。しかし1846年にジョセフ・リスターは消毒剤の使用を開拓し、1847年にジェームズ・シンプソンは初めてクロロホルムを麻酔剤として使用した。
1853年、フローレンス・ナイチンゲールはロンドンにある聖トーマス看護病院のナースのためにヴィクトリア朝の訓練学校を開設した。
最初の公衆衛生法は1848年に可決された。
次の主要な法律は1872年と1875年にできた。それは地方自治体に健康管理者を任命させ、上下水道や衛生条件の改善を強制するものだった。

Cathorics and Ireland(カトリックとアイルランド)
1828年、アイルランドのカトリック教徒であるダニエル・オコンネルがアイルランドのクレア州の選挙で立候補し、勝利した。
しかしカトリック教徒には投票や公職が許可されなかったので、オコンネルは議席を議会に拒否された。これはアイルランドの暴動につながった。
アイルランドの内戦を恐れて1829年に議会はカトリック教徒に投票権を与えた。これはカトリック解放法として知られている。
アイルランドの大部分の土地所有者は英国人だった。先住アイリッシュは一般的に非常に貧しく、農法は成長する人口をまかなうには不十分だった。1846年から1848年の間に、主食のジャガイモが飢饉に陥り、100万人以上が死亡した。
多くの人が英国人を非難し、フェニアン(アイルランドの独立と共和国樹立を求める友愛団体)のようなグループがアイルランドの自治のために結成された。
1869年から1874年の間に、自由主義者はアイリッシュの状況を改善するためにいくつかの法案を通過させた。
彼らはテナント経営農家の法的権利を増やそうとし、イギリス国教会をアイルランド公式の教会とした法律を廃止した。
1879年、土地改革のためにアイルランド土地同盟が結成された。アイルランドの自治体の運動はチャールズ・パーネルによって率いられた。
だが、1886年と1893年に自由党はアイルランド自治法の法案を通すことができなかった。
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