国語科教育法覚え書き②

 評論や思想に、正解や不正解という二元論的な判断基準を設け、そして成績を点数化するという学校の授業や大学受験は、本当にもうバカバカしくて、まあそのバカバカしさを反面教師的に伝えようとしているのかな、とも思ったり。
 でも、やっぱりこういうの勉強させたいなら、自由記述だと思うんだけどな。白か黒かという二元論的デジタル思考って、最近いよいよやべえな、大衆の反逆だなって思うしね。
 やはり憲法19条、思想&表現の自由よ。最近の学生は自分の考えを主体的に表現できないとか嘆いている奴いるけどさ、てめーらが検閲してんだろって思うよね。
 こう言うと多分、いや、そういったプレッシャーにも打ち勝つ根性のある奴がいなくなったとか返すんだろうけど、じゃあ打ち負かされる覚悟はあるんだなっていう。

『無常ということ』
文芸評論家の小林秀雄の評論文で、1946年の『無常といふ事』に収録。

そうかもしれぬ。そんな気もする。

の言い回しがキャッチー過ぎて高校の頃ふざけて多用したが、それしか覚えていない。
ちなみに本文は、2400字足らずの短い文章で、出てくる語句もとりたてて難しいものはないが、内容が絶望的になんとなくしかわからない。まさに、そうかもしれぬ。そんな気もする。レベル。おめー伝える気ねえだろみたいなw
だいたい本文で、小林先生自身が言っているように、言語化できない感覚をどうしたものかね~と、悩みながら見切り発車で筆をとっちゃっているから、文章も洗練もされてないし、ただ、そういった、たった今一回こっきりの身体的感覚を、なんとかああでもないこうでもないと書き残したかったのだろう。
ほいで、そうやって言語の限界を自覚したヒデちゃんがもがいて書いたもの――ほかに選択肢がないから、しゃあないと仕方なく言語を用いて書いたものを、音読し、読解し、設問に答え、さらには考察するという、高校の授業には、何とも言えない、強い違和感を感じざるを得ない。
つーか、思い返せばこの文章も、というか私のブログの記事はいつも、小林的にその瞬間想起された感覚を実況中継的にタイプしているわけであり、そういう洗練されてないがゆえの危うい面白さはあるんだけど、それはもう、煩わしいレイヤー、他者に伝えるためにしょうがなく使っているレイヤーなわけで、そのレイヤーで解釈されちゃうと、レイヤーにレイヤーを重ねることになり、ヒデちゃんが伝えたかった感覚から遠のくし、それをヒデちゃんは本当に望んでいたのかっていうことにもなりかねない。
これは、試験問題を作るでも、分析でも、考察でも、評論でも、美学でも、鑑賞でもなんでも構わない。そういった頭でっかちなたぐいは、全部アウトなわけだ。
そこに自覚的に気づけるかどうかが、『無常ということ』を読む上で一番重要な点であり、そういった文章を、皮肉にも大学受験に使われている時点で、ヒデちゃんは読み手に自分の思想を伝えられていないし、文学部だかどこだか知らないけど、入試問題にしている方もバカだよっていう。

誤解されない人間など、毒にも薬にもならない。

叙述と注釈
改めて読むと、なんとなく内田樹的な内容である。そのうち武道における体のさばき方とは・・・とか言い出しそうなw

『一言芳談抄』
ある人が言った。
比叡の神社で、偽ってかんなぎの真似をした若い女性が、十禅師(知徳に優れた十人のお坊さん)の前で、夜もふけて、人も寝静まったあと、鼓を打って、心澄んだ声で、どうあってもよろしゅうございます、ねえねえ、と歌っていた。
その心を人に無理に問われると、生死無常のありさまを思えば、この世のことはどうでもよいでしょう、ならば、あの世で助けて下さいと申したのです、うんぬん。

坂本でそばを食っている間も、あやしい思いがしつづけた。
比叡山で『一言芳談抄』の一文が鮮明に心に浮かんだとき、自分は何を感じ、何を考えていたのだろうかということが、しきりに気にかかったということ。今は蕎麦に集中するんだ、秀雄・・・!

そんなつまらぬことと
『一言芳談抄』の一文を、吉田兼好の『徒然草』のうちにおいても少しも違和感がないということ。

子どもらしい疑問
『一言芳談抄』の美しさが消えたのか、それともそれをつかむための自分の心身の状態が消え去ったのかという疑問。原因はオブジェクトにあるのかサブジェクトにあるのかという。

だが、ぼくは決して美学には行き着かない。
美学の萌芽は体験に基づくが、それが美学になってしまうと理論になってしまうので、本文で言及している感動から遠のいてしまうと考えたから。

そういう具合な考え方
『一言芳談抄』の一文が鮮明に浮き上がったとき、どのような自然の諸条件に、自分の精神のどのような性質が順応したのだろうかという、頭でっかちな思考。

そのようなもの
歴史に対する新しい見方や解釈のこと。

死んでしまった人間というものはたいしたものだ。
人間の死とは、歴史同様、解釈を拒絶して動じない、動かしがたいものであるから。
こんな話を聞かされた川端康成先生はただ笑うしかなかったのであった。

思い出となれば、みんな美しく見えるとよく言うが、その意味をみんなまちがえている。
思い出す人が過去の思い出を美しく飾っているのではなく、むしろ逆に過去がそういった余計な解釈を拒絶するから。

思い出が、ぼくらを一種の動物であることから救うのだ。
小林曰く、生きている人間とは、あれやこれや余計な思考をして不確定な存在であり、人間になりつつある“一種の動物”であるが、思い出を上手に思い出すときは、ただ満ち足りた時間と自分が生きている証拠だけが充満しており、その状態から逃れられるということ。

青ざめた思想
歴史は過去から未来に向かってびよーんと単調に続いていくという思想。単調だからこそ、さまざまな解釈がトッピングされるのである。

現代人は、鎌倉時代のなま女房ほどにも無常ということがわかっていない。
人間は無常(一種の動物的状態)であるということに自覚的ではないということ。
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